カトレア | 21


こよみが手元のメモに、小野との相談の内容をさらさらと書き記していく。
ポップのイメージ図、パネルのサイズ、蝋見本の発注数。その他、必要な備品等。
あれはどうだ、これはどうだと様々な意見を交わす二人。小野の目には、こよみは大層楽しそうに見えた。

「ん?なんで笑うの?」

こよみの質問に、小野は吹き出しながらかぶりを振る。

「鬼怒川って、仕事好きだよな」
「そうかなぁ」
「うん。イキイキしてるよ。いいじゃん、夢中になれるものがあるのって」
「……そうかなぁ」

こよみが寂しげに笑う。その視線は、メモに落ちたままだ。
不意に落ちた沈黙の間を、初夏のぬるい風が吹き抜けていく。
小野はアーモンドラテを一口飲んだ後、黙りこくってしまったこよみの横顔に、「昨日はどうだったの?」と尋ねた。
こよみは影の差した表情をそのままに、顔を上げて小野の相貌を見つめる。

「七海さんは優しかったよ。全然、変わってないと思った。……だけど」
「だけど?」
「……呪いと関係のない世界で、幸せそうで良かった。そのまま結婚相手を見つけて、家庭に入るのはどうかって言われた」
「…………そーなんだ。で、それがショックだった?」

わたしは七海さんに傷つけられてはいない――反射的にそう言い返しそうになって、こよみは口を噤む。
原因がなんであれ、ショックを受けたのは指摘された通りだと、こよみは思った。
ガーゼと包帯で固定された右手の親指の付け根が、真っ赤に腫れ上がった両目が、それを雄弁に物語る。小野が気付いていないわけがない。
加えて、小野はこよみが「七海を好き」だと知っている。
好きな相手からこよみが掛けられた言葉を知り、こよみの心情を察する段階まで考えを巡らせてから、小野はこよみに尋ねたのだ。

こよみは無言のまま小野の顔を見上げた。唇が震える。

「……ん。よくわかったわ」
「…………」
「鬼怒川も気付いたんだろ?」
「……うん。わたし、七海さんが好きだったんだね」
「でも、それだけじゃないだろ?」
「ずっとそれだけじゃないと思ってた。けど、それだけだったよ」
「…………」

小野が声を出さずに溜め息を漏らす。

「小野くんとわたし、大切な存在同士に見えたって言ってた」
「は?あー……いや、まぁ、否定はしねーけど……。もしかして付き合ってると思われた?」
「……あ、もしかしたらそうかな……!?」
「そこはわかんねえのかよ」

小野の呆れた声音に、こよみは心底申し訳なさそうな表情で再度見つめ返す。

「ごめん……小野くん彼女いますって言えなかった……」
「いや、それはいっそどうでもいいだろ。七海さんなら上手く切り返してくると思う」
「……そうだね……」

こよみの「嫁の貰い手がない」というささやかな反抗に、七海はすかさず「焦らなくてもこれからだ」と言葉を返した。
七海にとって、その相手が誰であろうと大きな問題ではないということだろう。非術師の世界に生きる誰かであれば。
こよみはそれを改めて痛感し、ますますしょげそうな心持となった。
そういった自らの心に向き合う度、「わたしは七海さんに恋をしているだけだったんだ」と気付かされる。
こよみはまだ、そう考える自分自身を肯定できないでいる。

「七海さん、良くも悪くも鬼怒川のことよく見てて、知ってるつもりなんだよな。だからそういう言葉が出るんだよ」
「え?」
「だいたい、七年も前のことだろ?おまえ、七海さんの前じゃたぶん優等生でいたいって思ってるだろうし、なんつーか、俺からしたらちょっと違うし」
「……そうなの?」
「おまえ、七海さんのこと神格化しすぎだよ。わかるけどさ、好きならそうなるのも」

小野の語り口は、こよみを気遣うものでありながら、七海を特別視せずに扱うものでもあった。
こよみは小野の言葉の一つひとつを飲み下しながら、少しずつ、心が解されていく気がしていた。

小野はそんなこよみの心情を知ってか知らずか、急に話題を転換するかのように、少々投げやりな声音で言った。

「つーか、俺、彼女と別れた」

こよみは一瞬沈黙した後、勢いよく顔を小野のほうへ向けた。

「え……ええっ!?」
「学生の時からでさ、四年も付き合ったのに、仕事始まってから向こうは会社の人と浮気」
「……」
「鬼怒川と駅まで一緒に行った日に会ってさ、そこではっきりさせた。あ、別に鬼怒川と一緒で待ち合わせに遅れたとかはないから気にすんなよ」
「いや、ええ……お、お気遣いありがとう……?」
「ぶっ、なんだよその返し」

小野は吹き出して笑った。
思いも寄らぬ事実を急に告げられ困惑をそのまま表情に映し出すこよみに、小野は笑いを引っ込め、穏やかな表情を向けた。

「俺だって、わかってたつもりだったんだ。好きだった、それで、わかったつもりで決めつけてた。向こうの気持ちを信じてた。ほんとはずっと心なんてなかったのに、俺が信じたくて。好きだから」
「…………」

小野は吹っ切れたようにすらすらと言葉を紡ぐが、こよみはどう声を掛けたら良いかさっぱりわからずにいた。
だが、口を挟む隙間はなかった。小野は元より、自分の話を長々とするつもりはなかったからだ。

「鬼怒川。おまえの本当の気持ちが恋愛かどうかは一旦置いて、よく聞けよ」
「え……?」
「相手の話や思いを、こっちが勝手に想像して判断したら駄目だ」

小野は続ける。「それが必要な時もあるし、もちろん当たってることもあるけど、絶対にすれ違いたくない相手なら、決めつけて指摘するのはナシだ」

「鬼怒川がいつも、何周も考えて苦戦して、説明ができなくなるみたいに、本当はもっと複雑なんだ」
「…………」
「『好き』って気持ちは、鬼怒川が言うみたいに、答えはきっとたくさんある。だから否定するな」

こよみの心臓が高鳴る。
小野の視線がまっすぐにこよみに刺さる。
小野が彼自身の恋愛に大変な思いを抱えている時、自分はどれだけ彼に甘えて寄りかかってきただろうか。それを顧みずにはいられなかった。

「鬼怒川にとってはさ、七海さんと一緒にいたい気持ちが大事なんだろ?好きって伝わらなくても、それだけで幸せなんだろ?」
「…………わかって、くれるの?」
「伝えてたつもりでも、伝わってないとかさ。違う形で受け止められるとか。それがどんなに怖いことか、俺が気付けたのは、たぶん、鬼怒川のおかげなんだよ」

――だから、感謝してる。だから泣くなよ。
小野がそう言葉を続けた。こよみは言われるまで、自分が泣いていることに気付かなかった。
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