カトレア | 20


「鬼怒川さん……午後は有給使ったら?」

翌日、こっぴどく赤く目を腫らして出勤したこよみの顔をじっと見ながら、総務部の女性課長が言った。
こよみの直属の上司である心優しいその人は、「今の時期は仕事も落ち着いてるでしょう」と心底気遣いの滲む声音で言葉を付け足す。

「え、ああ……」

こよみの気の抜けたいらえに、声を掛けた本人はうーんと小さく唸って見せる。

「……今日の鬼怒川さん、すごくぼんやりしてて心配なのよ」
「そういえば、今朝火傷した指は大丈夫ですか?」

横からそう口を挟んだのは、こよみの後輩でもある、総務部の新入社員である。
この日の朝、こよみはいつも通りの時間に出勤こそしたものの、熱湯の入ったポットの蓋を不用意に開くというささやかなドジを踏んだ。
高温の湯気を右手にダイレクトに浴びたこよみを見て「大丈夫ですか!?」と慌てた声を掛けたのは、近くに立っていたその後輩だった。

「わっ……あ、びっくりした、うん平気」
「本当ですか!?一応、すぐに冷やしてください!」

こよみは反射的に手を引っ込めたものの、その薄いリアクションは到底びっくりしたというものではない。
言われるがまま、流水を手に浴びるこよみは親指の付け根がじわじわと痛み、赤みが引かないことに気付いた。

「あーあ……やってしまった……」
「ああ、痛そうですね……救急箱持ってきますね。デスクで待っててください!」

こよみの背後から患部を目視した優秀な後輩は、すぐに適切な指示を飛ばし、給湯室を出ていった。
彼女が救急箱から軟膏とガーゼを取り出すと、こよみはやっと「自分でやるよ、ありがとう」と言って緩く微笑んだのだった。

「なに?火傷したの?」
「はい、今朝、ポットの湯気で……。鬼怒川さん、いつも朝から元気なのに珍しいですよね」

総務部の先輩と後輩が、こよみの両側からこよみを気遣う会話を続けている。
こよみはへらりと笑って顔を上げた。呑気な表情とは裏腹に、眼鏡のレンズ越しに見える充血して腫れた目が痛々しい。

「火傷は大丈夫です!こんなの家でもよくありますし」
「まぁ、あなたがそう言うならそうかもしれないけど……」
「……もし引き継げる仕事があれば、私やりますよ」
「鬼怒川さん、有給使いたいって言ってたでしょう、午後から上がって大丈夫だから」
「…………」

これ、もしかして腫れ物扱いというやつでは――。
こよみは優しい言葉の数々を受け取るうち、それを実感し始めていた。

正直、昨夜は人生で一、二を争うレベルで、滅茶苦茶に泣いた。起き抜けに、たらふく水分を摂ったくらいだ。
鏡に映るこよみ自身が少々ドン引きするほど、あまりにもひどい顔つきをしていたので、熱いシャワーも浴びた。
職場でも、普段とは違う情けない姿を晒していることは自覚している。それでも、仕事に悪影響は出ていないはずだ、今のところ。

「失礼しまーす。課長、すみません、一個お願いがあるんですけど」
「ああ、小野くん?どうかしたの?」

不意に、こよみのデスクの横に立ったのは小野である。
こよみの斜め前の位置のデスクに腰かける課長が、小野に応対すべく顔を上げた。

「午後、鬼怒川さん借りてもいいですか?手伝ってもらいたいことがあって」
「え?」
「……え?」

課長とこよみの目が同時にまるくなる。

「なんで鬼怒川さんなの?営業事務の人たちが手一杯?」
「いや、そうじゃなくて、売り場のことで相談したくて」
「それは営業部の子のほうが力になれるんじゃないの?」
「営業回るメンバーは都合つかなくて。売り場作りのことは鬼怒川さん得意だし、できれば」
「……。……まぁ、午後はミーティングとか急ぎの仕事もないし、私はいいけど。鬼怒川さんが良ければ」
「え」

課長がこよみの顔を見て、続けて小野がこよみの顔を見下ろす。
直前まで有給のお膳立てまでしてくれた上司である。判断材料は、完全にこよみの手の中にあった。

「……わたしで役に立てるなら……」
「マジ?ありがとう、じゃあ頼むよ。課長も、ありがとうございます」
「変わり身早すぎるでしょ」

小野の素早い返答とこよみのツッコミに、課長が笑う。「あなたたち同期だっけ。仲良いわね」

「小野くん、その売り場ってどこの?」
「神奈川のサービスエリア。土産売り場。打ち合わせもあるから現地な」
「お土産屋さん?それなら鬼怒川さんが選ばれるのもわかる。早く言えばいいのに」
「ちょっと待ってよ、現地!?今から!?わたしお昼休憩……」
「いいじゃない、美味しいもの食べてリフレッシュしておいで。気分転換の時だってことよ」
「小野さん!美味しいお土産期待してます!」
「え〜?仕方ないな、鬼怒川借りるし断れないしな……。メロンパンでいい?」

こよみが立ち上がって青くなっているのはどこ吹く風で、総務部の面々と小野は和気藹々と会話をしている。
とはいえ、今朝はお弁当を詰める気持ちの余裕もなかったので、サービスエリアで好きなものを買って食べられるのはこよみにとっても僥倖だった。

「十二時には出たいんだけど、いけそうか?」
「はいはい、すぐ支度します!」

半ば人攫いのような交渉を持ちかけておきながら、指定の時間が五分後とは些か横暴である。
こよみはバタバタと席を立ちロッカーに向かいながらも、心に充満していた霧が晴れ、気が紛れ始めたことを感じていた。



* * *



「打ち合わせ中は適当にその辺ぶらぶらしてて」

サービスエリアの駐車場に営業車を停めた小野は、取引先の担当者と商談をするために、こよみを残して建物の中に消えていった。
こよみは頷き、のんびりとした足取りで、賑やかな売店の人波に歩み近付いていった。そよそよと、生ぬるい風が腕を撫で吹き抜けていく。

「……なにか食べよう」

ぐう、と控えめに鳴るお腹に片手で触れながら、こよみはぽつりと呟いた。
昼食の時間は小野との移動時間に置き変わってしまった。その上、今朝は朝食も食べていない。
案内板には様々な飲食店の看板が並んでいる。建物の外にはキッチンカーや出店もある。

(お蕎麦にしよう。フードコート、あれかな)

“その土地ならでは感”のないチョイスに、こよみは自分で自分を笑いそうになって、ぐっと唇を閉じ合わせる。
一応、勤務中なのだからこれで良いのだと思い直し、フードコートに通じる自動ドアに迷いなく歩を進めた。




『終わった 今どこ?』

メッセージアプリに小野から連絡が入ったのを確認し、こよみはすぐに『お疲れ様。外のベンチです』と返信を送った。
すぐにメッセージの横に“既読”の表示が付いたのを見て、こよみはスマートフォンの画面から顔を上げた。
建物のほうを振り返ると、小野が歩きながらきょろきょろと視線を彷徨わせている。こよみは立ち上がって、ひらひらと手を振って見せた。

「小野くん。ここだよ」

小野はこよみの姿を見つけると、手に持っていたスマホをポケットに仕舞った。
ベンチの前に回ると、こよみの隣に腰を下ろしながら、「何か食った?」と尋ねる。

「うん。お蕎麦」
「なんだよ、どこでも食えるじゃん」
「でも特大の海老天のっけたから」
「あぁ、名物らしいな、海老」
「美味しかったよ。それよりはい、これ。打ち合わせお疲れ様」
「お、サンキュー」

フードコートと売店の間にあったコーヒースタンドで、こよみは自分と小野のために飲み物を買った。
ブラックコーヒーを好むこよみに対して、小野は甘いものが好きだった。五条ほど極端な甘党ではないが、甘いホイップクリームが載ったコーヒーが好物だと、こよみは知っていた。

「これ何?何か入ってる?」
「カフェラテにアーモンドシロップを入れてもらったよ」
「へー、美味い」

ストローでぐるぐるとアーモンドラテをかき混ぜていた小野だが、あ、と思い出したように手を止めた。

「鬼怒川。特設催事の売り場作るんだけど、これどう思う?」

カップを置き、小野は鞄の中からホチキス留めの資料を取り出して、こよみに手渡した。
小野の提案書に描かれた売り場イメージ図の余白部分に、取引先の要望点が走り書きされている。
見慣れたそれに、こよみは思わず目を輝かせた。

「え、おめでとう!うーん、これだけ幅があるならパネルがあるといいね」
「ガラスケースの中だろ?」
「うん、でも足元もあったほうが良くない?見栄えがするよ」
「お、いいな。って、もうメモってくれてんの?」
「だって営業事務さんに急いで発注お願いしないと」
「あー、元営業事務の血が騒いでんだ」

小野がけたけたと軽快に笑う。
こよみもつられて、声を出して笑った。
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