カトレア | 22


自分ばかりが面倒を掛けている、それだけだと思っていた。
七海に対しても、小野に対しても。

こよみは五条と夏油に出会って呪いの存在について知る日まで、人と違う異形が見える自分を肯定できずにいた。
高専入学後は自らの呪霊祓除の才のなさに落ち込み、手を引いてくれる存在の背を追うことしかできなかった。
長年の経験が、こよみの自己肯定感の低さを助長させた。
こよみの心身に染み付いたそれは、一朝一夕でなくなるものではない。

自分の価値に気付かせてくれる人がいないと、前には進めない。
七海はこよみにとって、ずっと憧れだった。対等ではなかった。
対等のステージに上がろうとしなかったのはこよみだ。七海がどう思っていたのかは、こよみは知らない。見ようともしなかったから。

小野はこよみと言葉を交わすうちに、明確なかたちでなくとも、それに気付いていた。
こよみにとって小野は、たとえ年上だとしても、対等なステージに立っていた。
役割が違うから。
得意分野が違うから。
過剰にこちらを見てほしい、愛してほしいと、願い合う関係ではなかったから。
そのどれもが正解のようで、不正解のように思う。



「俺はさ。鬼怒川と一緒に過ごすの楽しいよ。こうやって話聞いたりコーヒー並んで飲んだりさ」

そう言う小野の表情と声音は、実にさっぱりとしている。

「今は仕事仲間だからスムーズに行くけど、関係性が変わったらそうはいかない」
「……そうなのかな……」

こよみは心臓がどきりと跳ねるのを感じた。
関係性の違い。まさに、こよみが過去最大級に、七海との壁を感じる要因の一つだ。

「七海さんと一緒にいたいって気持ちが大事なら、それをどう運用するか考えてみようぜ」
「えっと、……どういう意味?」
「そういうのって、作戦なんだよ。良いか悪いかは別として、利害とか損得とか、そういう人間関係もあるだろ」

こよみは少々考えてから頷く。社会に出てからは、思い当たる関係性だ。

「そうだなぁ……例えば、七海さんと一緒に仕事するとか」
「やだ、絶対に無理。こっぴどく嫁に行けって薦められたのに」

こよみは脊髄反射のようなスピードで返事をした。
そもそも、呪術界で一緒に仕事をすることはできない。自分には才能がないのだから。

「七海さんは鬼怒川に命令したわけじゃないから、気にしすぎるなよ。まぁ、近付いたらまた傷つくって覚悟はしたほうがいいけどさ」
「わ……わたし、七海さんに傷つけられては、いないよ」

こよみの米神に、僅かに冷や汗が滲む。
勢いをなくしたこよみの声音の変化に気付いた小野は、じっとその顔を見つめ返して言った。

「……あーわかった。そうだな、確かに。七海さんの言葉は思いやりで、傷つくのは間違いだって自分に言い聞かせてるヤツだ」
「…………」
「七海さんは、わざと鬼怒川を遠ざけるために言った。って、可能性もあると思うんだけどさ」
「え……」

こよみの思考が停止する。
受け取った言葉の破壊力が大きすぎて、そこまで考えが至らなかった。
――なくはない。こよみの思考が再開する。
それは自分にとって都合の良い思考というだけではない。今、七海が身を置く呪術界から、こよみを遠ざけるための口八丁。
七海は聡明だ。そして、たとえこよみを傷つけるとしても、効率的な言葉を選び取った結果が、あの台詞だった可能性もある。

「…………」

黙り込んで思考を回転させるこよみの表情が、ただの落ち込んだ表情から、少々気難しいながらも前向きなものに変わる。

「鬼怒川、なんか今アレだ。取引先が振り込みミスった時に、なんて伝えるか迷ってる時の顔してる」
「え。わたし、そんな限定的なシーンの顔があるの……?」

こよみが真面目に聞き返すので、小野はおかしく感じて、けらけらと笑う。

「鬼怒川、七海さんに当たり障りのない返事しかしてないんだろ。だったら、この先どうにでもなる」
「……どういうこと?」
「もし、七海さんと一緒に仕事するとしてさ。あなたのために一緒に仕事するわけじゃない、っていう顔をできるようになればいいじゃん」
「…………」

うっかり、腑に落ちてしまった。
こういうのは作戦。小野の先刻の言葉が、こよみの脳内に戻ってくる。
自分にそういうことはできないと決めつけていた。だが、小野との会話の中で、“決めつけること”の弊害を感じ始めている。

「鬼怒川がどうしたいか、それを大事にしようぜ。恋愛でも仕事でも、どっちを選んだっていい。鬼怒川が自分で責任を取れるなら」
「責任……」
「そんな難しいことじゃないよ。傷ついてもいい、生活レベルが落ちたっていい、それでもやりたいって思えることがあるのって、俺は幸せだと思うんだ」
「…………」

小野の声の調子は、楽しそうなものだった。
こよみは小野の表情をじっと見つめる。強い人だ――そう思った。彼もまた、光を失ったばかりだというのに。
他人に対して、これほどまでに優しい。

「俺も、前に進むよ。好きだったけど、別れたんだから。立ち止まってないで、進まないとさ」
「……うん」
「でも、進み方はなんでもいいじゃん。俺はしばらく仕事頑張るよ、催事燃えてるんだ。これも好きなことの一つだし」

小野のキラキラと輝く瞳と、視線が交わった。こよみは微笑んで頷く。

「鬼怒川も頑張れ。おまえはさ、七海さんのことはそりゃあ好きなんだろうけど、仕事してる姿もいいと思うんだ。頼りになる」
「ほ……ほんと?」
「え、何その反応。仕事でも自分に自信がないんだな」
「そこはもう……生い立ちに関係してるっていうか」
「これ以上重い話はいいよ。それも今まではぐらかしてきた話の一つだろ?」

小野がげんなりした顔をするので、こよみは苦笑して肩を竦める。
改めて、こよみのことをよく理解した上で、優しい人だ。こよみはそう感じた。

「必要とされるって楽しいじゃん。自分が好きなことできるって気持ちがいいじゃん」
「……そうだね」
「鬼怒川はさ、何かないの?やりたいこと」

小野の質問に、こよみは俯く。視線は爪先に向くが、その瞳には微かな光が宿っていた。

「……考えたことがあるの。でもそれはやっぱり、七海さんと話してて気付いたことなの」
「うん。何?」

「呪術師は、非術師の平穏な生活を守るために、呪いの存在を隠しながら戦っている。きっと今この時も……」

それは、こよみが学生の時から当たり前に知っていたことだ。
だが、呪術師を辞め、再び出戻った七海の心情に思いを馳せると、どうしても考えてしまうことがある。



――呪術師は、人を守り、助ける仕事だ。
正義の味方とは言わない。自らのことをそう称す呪術師ほど、信用できない。

呪いの存在が秘匿されることには納得している。それと同様に、呪術師の存在が世の中に知られず、正体を隠すようにして生きていることも。
人を助ける仕事なのに、まるで悪いことをしているみたいだ。
わたしが尊敬する呪術師はみんな、自分自身のことを罪人だと思っている。

祓う対象は人じゃなく呪いだ。
罪を犯すのも、呪いを生み出すのも人。
呪術師は人の感情を祓う。されど、時には人を殺す。だって、呪いを行使するのは人の手だから。

呪いを使えない悪人だって、世の中にはごまんといる。
なのに、どうして呪術師が罪を背負っているかのような顔をしなければならないの?

わたしは、ちゃんとわかってる。この気持ちが、呪いを生み出す非術師を憎む気持ちと変わらないことは。
だけど、踏み止まらせてくれるのは、七海さんがもう一度呪術師になったからだ。

「わたしは……呪術師の心を守りたい。七海さんは一度呪術師を辞めたのに、また呪術師になった。呪術師っていう仕事の悲しくて許せないところを知ってるのに、それでも人を救いたいからそうしたんだと思う」

――七海さんの考えていることは、よくわからない。
好きだって気付いてから、ますますわからなくなった。時間と好意が、正確に見つめようとする視界の邪魔をする。

「七海さんだけじゃない、優しい呪術師をわたしはたくさん知ってるの。そういう優しくて、でも寂しい人たちの心は、誰が救うの?わたし、傍で支えたいよ。できなくても、危険でも、望まれなくても……」

こよみの心に浮かぶ、様々な人々の顔。
夏油も、五条も、家入も、優しい人だった。
同期の波月はいつも張り切っていた。自分の力を信じて前に進み続けた。
七海も迷いもがきながら進んでいたのだと、今では感じる。身近な人間の死を受け入れたからこそ、揺れていた。
だが在学中はこよみを気遣い、呪術の鍛錬に付き合ってくれた。こよみが高専を辞める時は、否定せず背中を押してくれた。
そんな七海が、今は非術師の世界で生きるこよみの背中を押す言葉を選んだのは、当然のことだったのかもしれない。
いつだってそうだった。なぜ、そんな簡単なことに気付かなかったのだろう。

次は、背中を押してはくれないかもしれない。
こよみがもし、呪術界を再び目指すとしたら、七海は今度こそ決定的に、こよみを突き放すかもしれない。

(“七海さんの傍にいたいから”なんて理由を選んでしまったら、きっと今度こそ、わたしはぺしゃんこにされてしまうだろう。七海さんの手で)



震える声で言葉を紡ぐこよみをまっすぐ見つめて、小野がゆるやかに笑う。

「いいじゃん。やりたいことがあるなら、やったらいいよ。鬼怒川が次にやりたい仕事を、七海さんが否定できっこないだろ」
「でも……下心があるって思われるよね……」
「うーん。まぁ、跳ね除けるしかないよなぁ。七海さんに傷つけられても嫌われても、それでもやりたいくらいの決意でいかないとな」
「……恥ずかしながら、嫌われたくないのも、本音なんだよね」
「そこはもう天秤にかけるしかないよな。だって、傍で支えたいのも本音だろ」

腕を組んでうーんと唸り出したこよみに、小野はまた笑顔を向ける。

「でも、鬼怒川強いよな。俺、元カノにはもう一生会いたくねえよ」
「……わたしだって、七海さんに会うの、怖いよ」
「振られたわけじゃないじゃん」
「振られたも同然でしょ」

「そうかぁ?」と小野が首を捻る。
いっそそういうことにして、前に進んだほうがいい――こよみは密かに心の中で、そう結論付けていた。
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