カトレア | 19


「本当にありがとうございました。ごちそうになってしまって……」
「気にしないでください」

愛想笑いの欠片も見せず、七海は頭を下げるこよみに短い言葉をかけた。
顔を上げたこよみは、七海のその見慣れた表情に口許を緩ませた。
たとえ表情が豊かでなくとも、本心から言葉を紡いでいるのだと知っている。

「あ、乗りたい電車まであと二分……」
「どうぞ行ってください。明日も早いでしょう。お気を付けて」
「すみません。お忙しいところ本当に、機会を作っていただいて嬉しかったです」

直後に七海から「ですから気にしないで」といった類の言葉が飛びだすことは、こよみには容易に想像ができた。
だから、言葉と行動で先回りをした。

「お元気で。お怪我に気を付けて。……わたしは、七海さんや、呪術師の皆さんに守ってもらっていることを、ずっと忘れません」

捲し立てるように早口でそう言って、ほんの少しだけ微笑んだ後、こよみは改札のほうへ爪先を向けた。ひらりとスカートが翻る。
こよみの背中がエスカレーターの影に見えなくなるまで、七海はその場から動かずにいた。
こよみの性格を考えると、振り返って視線を合わせて、遠くからでも笑って、頭を下げるのが自然だと思った。
少なくとも高専の寮や食堂で偶然顔を合わせて言葉を交わした後、こよみは決まってそうしたから。

『間もなく二番線に列車が到着します……』

駅舎にアナウンスの声が響く。
こよみは、一度も振り返ることはなかった。



* * *



――明日、真っ先に着手しなければならない業務はなんだっただろうか。

こよみは自宅の最寄り駅へ向かう電車のドアに早足で駆け込むと、ドアの間近を陣取り手すりを握った。
明日の朝食。冷蔵庫の中身。まだ返信していない友人からのメッセージ。
そんな取りとめのない考えが、水面の水泡のように浮かび上がっては消える。
そしてその隙間に、つい先程まで顔を合わせていた、七海の表情や言葉が侵入する。

――連絡先、電話しか知らない。今日のお礼をどうやって伝えよう。ああそういえば、さよならって言いそびれてしまった……

電車のドアの向こうの暗闇が、こよみの顔を反射していた。
目の下のクマが濃くなったような気がした。覇気がない。元気がない。
わたしはこんなひどい顔で、あの人の前に座っていたのだろうか――そんなどうしようもない感情から逃げたくなって、こよみは静かに目を閉じた。



自宅の玄関の前に立ち、こよみはショルダーバッグから鍵を取りだした。しゃらん、と小さな鈴の音が鳴る。
開錠して扉の中に身体を滑り込ませ、内鍵を閉めチェーンを引っかける。長年のルーチンワークが、何も考えなくともこよみの手を自然と動かした。
パンプスを脱ぎ、のろのろと居間に向かう。バッグを床に置いて、定位置の座椅子に膝をついた。

直後、なんの引き金もなく、静かにぼろぼろと、こよみの頬を涙が伝い落ちた。

冷蔵庫に卵と牛乳がないことを、こよみは電車の中で思い出した。
帰り道にスーパーに立ち寄り、お弁当のおかずと共にそれらを買い足して、それから洗濯機も回して……
その一つも、こよみはできなかった。
疲労感と悲しさとで、気力が削がれていた。
振り落としたかった感情が、どんなに頭を振っても消えてはくれなかった。
だが、今は涙が落ちる以外、考えようとしても上手くいかなかった。どこかで身体が、脳が、思い出すことを拒否している。

七海の言葉が、亡霊のようにこよみの頭の中で繰り返し反響する。
その声は七海の声音では再生されない。上書きするようにこよみを責め立てるのは、こよみ自身の声だ。

(わたし、わたし。嘘ばっかり。七海さんに恋をしていない。今日、全部すっぱり断ち切る。わたしはそのために)

室内物干しにぶら下がっていたフェイスタオルを、こよみは乱雑に引っ掴んだ。顔に押し当てると、ぬるい涙がじわじわと染みになり広がる。

七海が口にした“結婚”の話。
こよみには非術師の世界で幸せに暮らしてほしいという、七海自身の紛れもない思いやりの感情。非術師であるこよみへのエールだった。
こよみが今いる世界の中で、例えば結婚相手を見つけて家庭を持つことで成し遂げられはしないか――無責任で不確定で、明るい提案の一つに過ぎない。
こよみは七海と会話をしながら、その“提案”について返事をしながら、その実――何も考えてなどはいなかった。
当たり障りのない言葉を、波風を立てぬ表情で返すだけ。七海の声は音声として、意味のない雑音と同等のものにして。
そこに一切の意味を見出すことも、探すことも、こよみは瞬間的に放棄した。まるでロボットのスイッチをオフにするかのように。
あの数分の会話の中で、こよみはそうしなければならなかった。そうでないと、七海の眼前で、お店や電車の中で、危うく大号泣を始めるところだった。
こよみが思考停止することで決壊を免れた涙腺は、自宅で大崩落を起こした。
そして、こよみ自身も気付かなかった――見ないようにしていた――本心と、対面を余儀なくされることとなる。

(突き放されてから気付くなんて、なんて馬鹿なの)

なんて浅ましい気持ちだろう。
自らの感情の正体を見誤っていた。
美しく昇華されようとしていた学生時代の思い出は、そんなちっぽけな単語では到底表すことなどできない。
そう信じていた。頑なに。それなのに、終着点は結局、そんなちっぽけな感情だった。

(わたし、七海さんが好きなんだ。恋をしているんだ。本当にただ、それだけだ……)

先輩であり、学友であり、絶望の縁から救い出してくれた、憧れのひと。
時に小さな事で笑い合って、時に弱さもさらけ出して、いつの間にか一緒にいる時間が大切になった、かけがえのないひと。
七海を見て、手を繋ぎたいとか、自分のことで思い悩んでほしいとか。そういった感情は、こよみの中に芽生えることはなかった。
無事でいてほしい。幸せをずっと願っている。
居られるものならずっと一緒にいたい。そうすれば、無事であるかも幸せかどうかも、確認ができる。
それは、恋愛関係でなければ叶わないことではない。だからこれは、きっと恋ではない。
そこで思考を止めて七年が経つ。再び出会い、住む世界が違うとこよみが目の当たりにした時、やはりその思考は止まったまま。
後退は嫌だ。だが前進はできない。では、止めるしかない。
それはこよみの独りよがりな考えでしかなかった。

七海が離れていくなら、それはこよみの後退と同義だというのに。
離れたくないなら、こよみは足を止めてはならなかったというのに。

(でも。好きなら尚更、わたし一人だけの気持ちじゃ、なんにもならない)

結果は同じだった。
こよみが自らの手で捨てるはずだった感情を、七海が切り出したに過ぎない。
結局、こよみの手から零れ落ちたことに変わりはないのだ。
想定通りの結果に、こよみが自分で辿り着いたか、七海が気付かせてくれたか、その違いだけだ。

七海は変わらない。きっと、彼がこよみのことで思い悩むことはない。
それはこよみにとっては僥倖なことだ。
こよみを傷つけたのはこよみ自身の感情で、七海は何者にも傷つけられはしない。

今はただ、零れ落ちる涙が尽きるまで泣こう。
七海を縛らなかった自分自身を、きっと笑って褒めることができる日がくる。
こよみの傷はいつか癒える。七海が言ったように、出会ったことのない誰かとの恋愛かもしれない。それもきっと、笑って享受できる日が来る。

いつか。いつかだ。
七海の前で懸命にこらえた涙は、今は止まることを知らない。だが、今はそれでいい。

こよみは泣き疲れてそのまま眠ってしまうまで、無心で涙を流し続けた。
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