カトレア | 12


「あっ。ここです、ここのスーパー」

こよみが努めて明るい声で言う。
直前で赤信号に進入を阻まれ停車すると、七海はこよみを一瞥した。

「ご自宅は?ここから何分歩きますか」
「え?……ご、五分くらい、ですが……」
「どちらへ行けば良いですか。ここをまっすぐ?」
「え、あのっ……ま、まっすぐです」

青信号に変わった瞬間、こよみは反射的にそういらえをした。そして、しまったと思った。
七海は自宅の近くまで送ろうとしていて、こよみはスーパーマーケットで降車するものと思っていた。そのすれ違いに、こよみはその時に気付いた。

「な、ななみさん」
「今何時だと思っているんですか。手間は変わりません、気にしないでください」
「……はい」

萎むような声でこよみは答える。
全て先回りで回答されている気分だった。
今、自分は七海の隣にはいない。それを改めて思い知らされるような、そんな気持ちだった。

――七海さんは、優しい。

いつだって事実に基づいて、正当な評価をくれる人だったと、こよみは記憶している。
当然、戦闘への適性がないこよみには、厳しい言葉もあった。
だがそれ以上に、早く一人前になれる方法を、共に考えてくれる人だった。道は一つではないと教えてくれた。
それは、隣にいられたから得られた恩恵だったのだと、七海から離れて再会した今、やっと気付いた。

(わたしはもう、守る対象でしかない。非術師だから)

もしも、とこよみはふと考え至る。

もし自分が七海より――否、七海と同じくらい強ければ。
守ってもらわなくても良い程の実力があれば。

――そうであれば、わたしは、ずっと隣にいられただろうか?

「鬼怒川さん」

七海の声が、暗がりにぽんと落ちる。
こよみははっとして顔を上げ、無理くり作った笑顔で、その整った相貌を見上げた。
動揺を滲ませぬ声で、はいと答える。

「もっと強ければ良かったと言いましたね」
「は……、はい」

「仮にそうであれば、学生時代、私はあなたに呪術の稽古をつけることもなかったでしょうね」

こよみがまるい目で、七海の横顔を見つめた。
息が止まったような心地がした。直後、じわりと熱い涙が、こよみの両目をみるみる濡らしてしまう。

「このあたりで良いで……、」

七海がゆっくりと車を減速させながらこよみに問う。
こよみは咄嗟に返事をする余裕がなく、ぐす、と鼻を啜り上げる。七海はそこでようやく、こよみが泣いていることに気付き、静かな動揺に言葉を止めた。

「ごめんなさっ……、はい、このあたりで、大丈夫です、降ります」
「後ろから車が来ます、まだ降りないで」

側道にゆっくりと停車しサイドブレーキを引いた七海が、焦りながらシートベルトに手をかけようとするこよみを、左手でゆるりと制止する。
落ち着いてください、と言葉を続けられ、こよみは頷いて俯きながら、再度背中をシートに預ける。
背後から近付いてきた後続車に合図をするように、七海がハザードランプのスイッチを押した。
一瞬後続車のライトに照らされ車内は明るくなり、だがすぐに追い抜いてゆく。こよみは顔を両手で押さえ、はあと深く息を吐いた。

「……すみません」

こよみが震える声で言った。

「つらいことを思い出しましたか」
「いいえ。……いいえ……」

涙の理由も、きちんと言葉にできない。
こよみはただ、何かひどく、たまらない気持ちになったに過ぎなかった。
具体的に何か鮮明な思い出が蘇り、胸を打ったわけではない。

七海の言葉から、共有の思い出があるというただひとつの事実を、他のどんな事よりも尊く感じていた。

(もし、七海さんがわたしに呪術の手ほどきをしてくれなかったら、わたしは絶対に、今日死んでた)

七海との思い出が、自分の今を支えている。
他人を守ろうと決意することができたのは、七海が導いてくれたからだ。

こよみは今でも、七海に生かされている。それに気付いた。

(弱くて良かったなんて思わない、波月が亡くなったことを後悔しない日なんてない。……でも、七海さんとの、今この瞬間は、全部、あって良かったって思う)

だからどうするとか、どうしたいとか。こよみ自身の本音や未来を全て置き去りにして。

ただただ、涙が溢れる。
七海と七年ぶりに再会した日は、そんな衝動的な、静かな夜だった。



* * *



七海はこよみが言葉を発するまで、降車を急かすこともなければ、慰めの言葉の一つもかけることはなかった。
こよみがしゃくりあげながら、呼吸を落ち着けるまで、ただその横顔を、時折横目で見つめていた。

「じゃあ……、本当にありがとうございました」

こよみが鞄を腕に抱きながら、少々気まずそうに頭を下げるのを見て、七海はいいえ、と短いいらえで答える。

「これをお持ちいただけますか。お借りしていた、あなたの会社の備品です」
「え……、あ、ああっ、はい」

ハザードランプが点滅する高専所有車の助手席の扉の外、七海は後部座席から取り出した紙袋を、こよみに手渡した。
こよみは受け取って中を確認し、合点がいったように頷いて応える。中身はブランケットだった。

「お大事に。小野さんにもよろしくお伝えください」
「あ、……」

落ち着き払った声で七海は言った。
こよみに向かうその爪先が、ぐるりと方向を変えようした刹那、こよみは意味のない声を漏らした。
引き止める理由がない。わかっていた。

「あの、っ……七海さん、また、会ってもらうことは、できないでしょうか」

それでも、待ちきれないとばかりに、言葉が飛び出した。
それはこよみの、どこまでも準備不足な本音だった。
七海が、想定外の言葉に目をまるくするのと同時に、その視線を受け止めるこよみも、気まずさを上塗りしたように逃げを打とうと視線を地面に落とす。

「……私と再会して、泣いているのに?」

理論と正論で、いくらでも言いくるめることはできた。
立場の違い、感情の齟齬、知り尽した相手への反論の余地のない攻撃手段。
こよみの勇気を、七海はその口八丁で粉々に打ち砕くことができた。

それでも、七海はあえてその言葉を選んだ。

想定よりも柔らかく響いたその声音は、七海にとっては一つの迷いで、失敗で、真綿でぬるま湯。
まるで、会社務めをしていた頃の自分自身の姿だ。
目の前の顧客の破滅の道行きを見据えながら、目先に小さな幸福をぶら下げて。保身のために。

そんな七海の胸の内など知る由もないこよみは、無言で首を横に振った。

「ご迷惑でしたら、断っていただいていいんです。ただ、このまま言わないでお別れしたら、後悔するから」

わたしの勝手なお願いです。
こよみはそう、小さな声で付け加えた。

「七海さんにお聞きしたいことが、たくさん出てきてしまって、……もう会えなかったら、絶対に悔しい。だから、お尋ねしました」
「…………」
「わたしが、わたしを納得させるために訊いたことです。お答えいただけなくて当然です、だから、駄目なら、何も言わないで、背を向けてくださって構いません」

こよみが伏せていた顔を上げた。七海と視線が交わる。

「……七海さんは優しいから、傷つけないために、お断りを言葉にすることも……」
「ちょっと待ってください。生憎、私はそこまで殊勝な人間ではありません。嫌ならはっきり言葉にします。それはあなたも知っているのでは?」

七海が、細い溜め息を吐き出しながらこよみに告げる。口調は穏やかだが、内容は荒っぽい。

「……わたし……この七年を、美化し過ぎてました……?」
「その返答もどうかと思いますが、まぁ、そういうことです。随分よそよそしくなりましたね。……私もあなたのことは言えませんが」

こよみは途端に深い安堵感に目を細め、唇を震わせた。涙を堪え気丈に振る舞おうとするも、表情が上手く笑みの形にならない。
七海のほうも、こよみに対して非情に振る舞えるほど、共に過ごした年月は安いものではなかった。

七海は、こよみの零した涙の意味が悲しみだけではないことを、知っていた。
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