カトレア | 11


自宅の方面と、目印となる建物はあるかと、七海がこよみに尋ねる。
こよみは少々考えてから、近所のスーパーマーケットの名前を口にした。

「すみません、結局家の近くまで……」
「最初からそのつもりでしたから」

七海は、こよみが挙げたスーパーマーケットの住所をカーナビに入力した。
七海が自分に視線を向けないと判断したこよみは、無言でシートベルトを締めた。

それからしばらく、音声ガイドの無機質な声だけが、車内に響いていた。

「……七海さん。あの、……いつからまた、高専でお仕事を?」

七海が曖昧な表現を嫌う性分だと、こよみは知っている。
それでも、呪術師という単語が、上手く口から出てこなかった。

七海は自らの身分を“呪術師”と名乗ったし、こよみと小野のことを“非術師”と称した。
一度は呪術師として。そしてその後は、呪術師を共に辞めた身分として。
隣にいられた時間が確かにあったはずなのに、今はもう、果てしなく遠い距離に隔てられてしまったような、こよみにはそんな心地があった。

「二年程前からです」

七海は、淡々とした口調で答えた。
言い淀む様子はない。こよみは顔を上げて、七海の横顔を見つめた。

「……、そうだったんですね」

理由を尋ねたい。こよみはそう直感するも、言葉を続けられなかった。
不自然な沈黙が、二人の間に落ちる。七海は進行方向を見つめたままだ。
こよみは悲しいも嬉しいも、何も感じてはいなかった。なんとなく、七海がそうさせている気がしていた。

「小野さんと話をしました」
「え?……はい」

今度は、唐突に七海が口を開いた。一瞬だけ、ハンドルを左に切るついでに、七海がこよみの目を見る。

「彼に、眼鏡を渡したんですね」
「あ……、あの場で咄嗟に呪霊の存在を信じてもらうためには、そうするしかできなくて……」
「呪霊を見えるようにする眼鏡ですか」

こよみははいと答えて頷く。
眼鏡の赤い縁に、指先でふれた。

「これ……、普段は反対の用途で使っているんです。わたしから、呪霊が見えないようにしています」
「……そうですか」
「普通に生活していたら、見えますから……非術師になるために、わたしにはこれが必要で」

七海は、今度は何も答えなかった。
こよみは一拍置いて言葉を続ける。

「小野くんには、言葉で説明してもわかってもらえないと思って……呪いを知らない人に理解してもらうのは、難しいですね」
「呪いについては秘匿が原則ですから。仕方がありません。見えない物を信じろと言う方が無理があります」
「…………」
「ですが、鬼怒川さんは眼鏡に呪力を込め直し、小野さんに渡したんでしょう。良い機転です」
「……、ありがとうございます……」

こよみは膝に置かれた自身の鞄を、ぎゅっと両手で握った。
手と身体の震えは、いつの間にか消え去っていた。その反動のように、心臓がどくどくと大きく音を立て始める。

「ところで……小野さんからの伝言を預かっています」
「えっ?な、……た、立場もわきまえずに、なんてことを……」

こよみの口の端と、眉間が呆れたように僅かに強張る。
七海は一瞬こよみの顔を見ると、緊張感があるようでないその表情に毒気を抜かれ、ふ、と短く息を吐いて見せた。

「気にするところがズレていませんか?」
「い……いえいえ、まぁその、初対面でも距離感が変なのが小野くんらしいと言いますか……」
「伝言を伝えても良いですか?」
「あっ、すみません、そうですよね、お願いします……!」

かっと耳が熱くなる感覚に、こよみは七海に向かって礼をするように顔を伏せた。
立場をわきまえていないのはわたしだ。ブーメランだ。こよみは勝手に恥じながらゆっくりと顔を上げるが、七海は相変わらず、正面しか見ていなかった。

「目覚めたら連絡が欲しい、と。心配している様子でした」
「……あ……、はい、わかりました。ありがとうございます」

こよみは膝に置いた鞄からスマホを取り出し、中央のボタンを押した。
着信一件、メッセージ二件。その相手は全て小野である。驚きと同時に、七海が預かった伝言を聞いた今ではその理由がよくわかる。
随分心配をかけてしまったらしい。こよみははあ、とため息をついた。

「連絡、来ていました。……今日はもう遅いので、明日返事をします」

明日が日曜日でよかったと、こよみは安堵したような声音で付け加える。

「明日一日ゆっくり休んで、月曜日は小野くんに元気な顔を見せないとですね」
「出社するつもりですか?あなたは呪力の回復は人一倍早いですが、体力はそうはいかないでしょう」
「ま……、まぁ……そうなんですけど、月末処理が溜まっているので、休んではいられなくて」

高専時代、呪術のいろはをこよみに指南した経験のある七海は、こよみの呪力量やその操作性、スタミナ面をよく理解していた。
さらりと当然のように、当時の感覚で指摘されるのは、こよみの心を掻き乱した。
悔しさからではなく、どこか他人行儀な態度を崩さない七海が、急に近しい存在に感じてしまうからだ。
まさか、全て自然と出ている態度なのだろうか。こよみの目には、それらがどこかちぐはぐに映る。

「……、心配していただいて、ありがとうございます。だけど、身体は本当に大丈夫です」
「…………」
「七海さんのおかげです。守っていただいたから、大きな怪我もなかったし、……家入さんにきちんと治していただきましたから」

こよみの独白のようなその声に、七海は何も応えなかった。

「……それと、小野くんがいたから。あの場にわたしだけだったら、あそこまで力を出せなかったです」
「……、守りたい一心だったと?」
「はい。でも、やり遂げることはできなかったです。七海さんがいなかったらわたしたちは死んでいました。……わたしが、もっと強ければ良かったのに」

自分がもっと強ければ。
あの呪霊より、あの呪詛師の女より、そして――あの日七海の振り下ろした大鉈を完全に凌げるほどの力が、自分に備わっていたならば。


(こんな、無駄に喜んだりへこんだりしなくて済んだ。七海さんに会わなくて、自覚しなくて済んだのに)


こよみの心に渦巻く感情は、自らの力不足を悔やむだけではない。
もう手放したはずの、七海に向かう確かな感情。再会がなければ、忘れていられた。
それもまた、こよみがやり遂げられなかったことだ。それでも、七海と会わなければ折り合いをつけられた。
時間の経過と共に薄れゆく記憶と想いが、手放すことを嫌がる自分への、ケジメになるはずだった。
忙しく過ぎていく時間や、もっと尊い経験で上書きされ、また自分らしく生きられる道に到達できるはずだった。

七海とこよみは、そうやって違う道に歩み出したのだ。
決してもう会うことはないだろうという、吹けば飛ぶような“約束未満”を、お互いの胸の内に抱えたまま。
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