カトレア | 10


七海が車の運転免許を取得したのは、いつ頃のことだろうか。
上質そうな青いワイシャツは、彼のお気に入りなのだろうか。
身体の厚みも、腕の逞しさも、短くなった髪も、こよみは初めて目にした。

約七年の歳月は、七海を遠い世界へ連れ去ってしまったと、そう思っていた。

だが――今七海が手にしている大鉈も、呪術師という肩書も、こよみが最後に対面した彼の姿と変わりはない。

冷静で涼やかで、落ち着いた声音の中には、いつも他人への確かな思いやりがある。それを、こよみは知っている。



七海とこよみは医務室を後にして、家入の言いつけ通り施錠をした。
前方を歩いていく七海の背中を追いかけながら、こよみは勝手に蘇る過去のイメージを、道端に捨てていくように頭から振り落としていた。

胸に秘めた思いも、頭の中も、今のこよみにはわかりはしない。
思い上がってはいけない――そんなことを、こよみは自らに言い聞かせ続けていた。

――だってわたしは、今の七海さんのことを何も知らない。

自動車のキーを手にしていても、運転をしている彼を見たことはない。
学生服と、時々着用していたシンプルなデザインの私服以外の姿を見たことはない。

“一級呪術師・七海建人”という男と、ただの一般人の鬼怒川こよみは、初対面なのだ。

「…………」

前を行く大きな背中に声をかけようとして、どうにも音声にならない。
ピンチを救ったヒーローと、被害者。それ以上、二人の間には何もなかった。
こよみには、踏み出し方がわからなかった。

「……あの、七海さん……」

こよみの呼びかけに、はい、と答えて七海が視線を向ける。

「近くの駅か……会社に戻っていただければ、そこから自分で帰れますので……」
「会社からご自宅は近いんですか?電車ですか?」
「はい。電車で二十分くらいです」

七海は高専の通用口のドアノブに手をかけた体勢で、身体ごとこよみの方を向いた。
鋭い視線が、はるか下のこよみの指先に落ちる。

「手が震えていますね。それに、呪力も空っぽでしょう」
「え、…………」
「今のあなたは、体力も思考力も落ちています。帰るまでに呪霊と遭遇でもされては、私がここまでした仕事の意味がなくなる」
「…………」
「今日はもう、私も帰宅するだけですから。大した手間ではありません。お気遣いなく」

通用口の扉を押し開けて、七海がこよみに先に出るように促した。
こよみは呆然と、思考が止まったような表情のまま、こくこくと小さく頷いて見せ、素早く七海の前を通り抜けた。
七海の数歩先で立ち止まったこよみの隣を、七海が再度追い越した。その背中を、こよみは無心で追った。

核心的なことから、どうだっていいことまで。七海に尋ねてみたいことが、こよみには山ほどあった。
だが、まるで出会いも重ねた交流も忘れ、振り出しに戻ったかのように、こよみには七海の気持ちがわからなかった。
淡々とした機械的な声音と表情。気遣いの滲む言動とは裏腹なそれに、こよみは怖気づいていた。

(踏み込む隙間なんてどこにも見当たらないのに、どうして、そんなに優しいの)

七海は、呪術師の仕事をこなすだけでいい。
それが、こよみの命や、心の傷すらも救うだろう。
だが、こよみは七海のためにできることが何もない。せめて迷惑も手間も取らせたくない。

何も期待などさせないでほしい。
優しさなど向けないでほしい。

(わたし一人で、小野くんを守れれば、会わなくて……思い出さなくて済んだのに)

そんな気持ちと、もう二度と向き合いたくなくて――わたしは七海さんと、あの日、きちんと「さよなら」をしたというのに。



* * *



黒塗りの高専所有車の前で、七海が振り返る。

「どうぞ乗ってください」
「ありがとうございます。……これは、高専の車ですよね?」
「はい。今夜は借りる申請をしています」
「……学生にはできないことですね」

緊張で固まったこよみの表情が、僅かに緩やかなものに変わる。

「学生は寮ですからね。バスのあるうちに戻らないと」
「わたし……、高専の時、一度だけ電車もバスもなくなってしまって、高専に電話をかけました。補助監督さんが迎えに来てくれて……」

そこで、こよみは言葉を止めた。
こんなことを七海に話したところで、何になるというのか。
車を挟んで反対の運転席側に、七海が立っている。こよみは恐る恐る、その相貌を見上げた。

「終電がなくなるような夜中まで、外にいたんですか。女子高生が一人で?」

こよみに向く七海の表情が、少々怪訝なものに変わる。
だが、先刻まで頑なに無感情だったその顔が、たとえ心配や呆れの類だとしても、こよみに感情を向けていた。

それがこよみを、無性にたまらない気持ちにさせた。

「そっ……、その日は台風で、電車もバスも止まって。夕方で、一人ではなくて、任務で同期と一緒、で……」
「……よくわかりました。すみません、乗れと言いながら、私が引き止めましたね」

今度は、視線は交わらなかった。
七海が運転席のドアを開け、体勢を低くして乗り込む。こよみはその挙動を、呆然と視線で追いかけていた。
直後、こよみはハッとしたように素早く助手席に乗り込み、距離の近さに心臓が跳ねるのを感じた。出発しますよ、という声が右耳のすぐ近くで聞こえる。
こよみは七海を見ずに頷く。七海も、こよみの頭を視線で一瞥するだけだった。

(……七年前も、七海さんにはよく小言を言われたな。……変わって当然だけど、変わってないところも、あるのかな……)

“わからない”と思う。
同時に、“わかりたい”と思う。
思い出をなぞるだけではなく、きちんと今の七海のことを知りたいと、こよみは思う。


踏み出す予定など、なかったというのに。
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