カトレア | 09


あたたかくて懐かしい体温に、揺られる夢を見ていた。

それは母の手か、祖母の抱擁か。眠り続けるこよみには判然としない。
ただ、いとおしく身体を包むその感覚に、終わりがこないでほしいと、頭のどこかで懇願していた。




それから、どのくらい時間が経っただろうか。
薄暗く見慣れない天井の下、こよみはゆっくりとまぶたを上げた。
否――どこか懐かしい感覚があった。皮膚の下のシーツの感触と、薬品のにおい。
コツコツと鳴る靴音にこよみが気付いた次の瞬間、白衣のポケットに両手を突っ込んだ女性が、こよみの表情を伺い見て、緩く笑みを浮かべた。

こよみはその妖艶な相貌に、もう会うことのない人の面影を見た気がした。

「起きた?身体は平気?」
「…………、っは」
「あ、はいはい。無理するなよ」

肘をついて起き上がったこよみの背を、女性が支える。
その拍子に、薄っぺらい掛布がこよみのお腹から床に滑り落ちた。
こよみはそれを視線で追いつつも、急激に喉の奥からせり上がった湿った空気を押し留められず、ゲホゲホと咳き込む。涙が滲んだ。

「……家入さん?」
「あ、覚えててくれた。そうだよ。久しぶりだね、鬼怒川」

こよみの記憶に薄らと残っていた面影は、二十歳の家入硝子。
当時も“大人っぽく美しい先輩”という認識ではあったものの、今目の前でこよみに微笑みを向ける彼女は、正真正銘の大人だった。
他人を治癒することができる反転術式の使い手で、医師でもある家入は、怪我の手当てのため医務室を訪れたこよみを、学生の身分ながらも、時折出迎えてくれた。

――ってことは、ここって高専……?

ズキズキとした痛みが頭に戻ってくるような感覚を覚え、こよみは片手をおでこのあたりへもっていく。
薄く見開いた視界の向こうには、床に落ちた白い掛布がある。
不意に、その布の端を摘み上げた手があった。筋張った手の甲は男のそれだ。

掛布を手に掴み身体を起こしたその人影を、こよみはぼうっと見上げた。
独特な模様のネクタイ、ブルーのシャツ。懐かしい面影を残す、すっきりとした――それでいて無感情な表情を宿す相貌。

「な……七海さん、ですか……?」

頭に置いたままの右手で、こよみは慌てて、自身の前髪を摘まんで軽く整える。
ぼっと火が灯るように体温が上昇したのを感じた。
目の前の人物に確認するまでもなかった。涼やかでいて慈悲深い目元は、こよみは何年経とうとも、決して忘れることができない。

「……はい。お久しぶりです」
「おっ……ご、ご無沙汰して……おります」

肯定の返事を寄越しながら、七海は手の中で、掛布のほこりを軽く払った。
こよみは呆然と、手渡された掛布を両手で受け取りながら、遥か上に位置する七海の顔を見上げた。

(ゆ……夢じゃ、なかったんだ)

まどろみの中、微かに感じていた気配。
ゆらゆらと穏やかに身体が揺すられる感覚は、記憶の中にはない。
だが、夢見心地の中、こよみは心地の良い感覚を確かに想起した。
そうであってほしい、せめて夢の中であの人に会えたら嬉しい――そんな、不毛で浅はかな希望。

約七年の月日は、こよみと七海を平等に、七年後の未来へと連れていった。
七海は、こよみの目にはかなり印象が違って見えた。スーツ姿の七海に対面するのは、これが初めてのことだった。

無言の時が数秒流れ、こよみははっとしたように、抱きしめたままの掛布を膝に置く。

「七海さんが助けてくださったんですか?あの……呪霊と呪詛師の女性から……」
「ええ」
「……そうですか。ありがとうございま……」

ほっと息を吐いたのも一瞬のことで、こよみははっと青ざめ顔を上げた。
再度七海の顔を見上げ、そしてぐるりと周囲を見回す。
白い薄手の掛布が、こよみが握りしめたことによって深い皺を刻み波打った。

「あっ……あの、小野く……一緒にいた男性は無事ですか!?」
「小野?」
「落ち着いてください。無事です。彼は外傷はありませんでしたので、ここにはいません」

興奮して身を乗り出しかけたこよみの肩を、背後から家入がやんわりと掴んだ。
聞き慣れぬ名字に家入が首を僅かに傾げる。
こよみと家入、双方の疑問を解消するように、すかさず七海が口を開いた。

「鬼怒川さんが結界を張って、彼を守ったんですよ」
「ほう」

こよみの背後で家入が興味深げに声を漏らす。
瞬きを繰り返しながら、こよみは医務室の寝台の上で姿勢を正し、再び七海の顔を見上げた。

「わたし……よく覚えていなくて。呪霊に結界を壊されて、すごい音が聞こえて、そこから記憶が……」
「結界を壊されたことで、あなたの身体に反動がきたんでしょう。私が到着した時、気を失っていました」
「……そう、だったんですか……」

こよみが鼻を啜ると同時に、鉄の味と、ざらついた違和感に表情を歪める。
ブラウスの襟と鎖骨のあたりにべったりと付着した赤黒い血に気付くと目を見開き、そして溜め息をついた。

「……七海さんは、わたしと小野くんの命の恩人です。ありがとうございます」
「呪術師が、あなたがた非術師を守るのに理由はありませんから」
「…………わたしは、お礼を言う理由があります。……家入さんも、ありがとうございます」
「はは。どういたしまして。私だって、治療するのが仕事だからね」

家入が、白衣を脱ぎ腕に抱えた。診療終了の時間だろうか。
こよみがその動作を目で追っていると、家入は不意に七海の顔を見上げた。

「鬼怒川はもう心配ないよ。良かったね、七海」
「それは、怪我の治癒という意味ですか」
「それ以外の意味に聞こえるなら、そうなんじゃないの?じゃあ、戸締りだけよろしく」

家入は、七海からこよみへと視線を移すと、ひらりと手を振ってからドアノブに手をかけた。

「喉や鼻の中を少し切っていたけど、治療済みだからね。しっかり休めば問題ない。じゃあまたね、鬼怒川」
「え、あっ……ありがとうございました。また……」

ガチャリと音を立てて扉が開き、家入の退出後に元通りに扉が閉まるのを、こよみは呆然と見つめていた。
フー、と七海が溜め息を吐き出した。腕を組むその姿は少々厳ついが、こよみは高揚する心臓の鼓動以外、何も感じられなかった。
それは緊張と、先の戦闘の恐怖と、そしてほんの少しの、再会に対する喜びが入り混じった、複雑な心情からくるものだった。

「身体はもう平気ですか」
「あ……、はい」
「自宅はどちらですか?もう遅いので、お送りします」
「えっ!?」

七海のその発言の内容に仰天し、こよみは掛布を取り落とした。
ぱさりと音を立てて、それは七海の革靴の上に落ちた。
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