カトレア | 05


巨体を浮かせた呪霊が、口の端を釣り上げた。隙間から尖った牙が覗く。
次の瞬間、こよみ目掛けて突っ込んできた。こよみは前方へ向け、防御用の結界を張る。
耐久性を上げる代わりに、攻撃の性質は一切ない。
あくまでも見えない壁でしかないそれに、呪霊の牙が突っ込み、穴を開けた。轟音が鳴り響き、空気を揺らす。

「驚いた!あなたすごいのね、結界術だけは」

呪詛師の女が感嘆の声を上げた。
その表情は余裕に満ち、楽しそうですらあった。

エレベーターの正面の僅かに開けた空間に、こよみはじりじりと後退させられていた。
けほ、とこよみが渇いた咳をすると、喉の奥を血が流れていく感覚があった。


* * *


「伸びしろのあるものを伸ばしましょう」

結局のところ、それがいちばん近道で効率的です――淡々とした声音で、七海はそう続けた。

「わたしに伸びしろなんて……」
「あるでしょう。あなたには結界術が」

こよみの高専一年次の夏。
戦闘面でぐんぐんと才能を開花させていった同期・波月美琴と反比例するように、こよみは自らの適性のなさを自覚し、落ちぶれていくような感覚に苛まれていた。

「結界術は、補助監督さんの分野なんじゃ」
「あなたの結界術はその範疇を遥かに上回っていますよ」

ぽかんと口を開けたまま、当時高専四年次の七海の顔を見上げるこよみの顔を見つめ返しながら、七海は少々驚いたように言葉を返す。

「……まさか本当に、そうは思っていないんですか」
「……はい……え?」
「…………」

七海は片手で自身の顎に触れながら、一度地面に視線を落とし、今にも焦りに汗を流しそうなこよみの顔を再度見下ろした。

「無意識に、反射的に結界を張ることができる人間は、私が出会った中ではあなたが初めてです」
「ご……五条さんもできますよね」
「あの人は無下限呪術を自動的に出し続ける調整……訓練をしていますから」

高専五年生となった五条悟は、呪術界“最強”の肩書きを手にし、こよみとはすっかり顔を合わせることはなくなった。
五条が何を手にして何を失ったのか、こよみは知る機会になかなか恵まれなかった。
だが、全くなかったわけではない。時折、七海の口から語られることがあったからだ。
七海はこよみにとって、戦闘訓練や呪力操作の練習に根気強く付き合ってくれた唯一の先輩だった。

「蠅頭とはいえ結界で祓えるのは興味深いです。あなたは呪力操作が上手いので、結界の形によっては攻撃手段になるかもしれません」

七海の言葉は、いつもこよみの心を軽くしてくれた。
自分で自分を認められないこよみが呪術師として前に進むためには、自身を肯定してくれる七海の存在が必要だった。

「えっ……うそ、本当にやるんですか!?」
「任務中に、現場で確認するのは危険なので」

涼しい顔で大鉈を構える七海が、こよみの正面で体勢を低くする。
場所は高専のグラウンド。よく晴れてセミの鳴き声がうるさい昼下がりだった。
準一級の呪術師が目の前で自身に武器を振るおうとしている状況に、こよみは生きた心地がしなかった。

「ドーム状より壁状のほうが強度が上がるでしょう。正面五メートルの位置、視認可能、最大強度でお願いします」
「は、はいっ……」
「二級までは実証済みですから、自信を持ってください。万一の場合は手を止めます」

真っ青な顔でこよみが頷く。
これは、いわゆる実証実験直前の会話だった。
一級レベルの呪霊祓除に要する攻撃を、こよみの生成する結界にぶつける。強度は七海の指示通り、一級呪霊の攻撃を防御する想定だ。

がたがたと震える手で防御用の結界を張るこよみに、七海は少々、表情をゆるめて声を掛ける。

「鬼怒川さん。あなたは、誰かの期待に応えようとする時、力を発揮できる人ですよ」
「え……?」
「大丈夫です。さあ、集中してください」

言って、七海は再度真剣な表情に戻る。
こよみはゆっくりと息を吐いた後、はい、と答えた。
それを合図に、七海が地面を蹴った。直後、振り下ろされた得物がこよみの結界に突き刺さり、強い衝撃が辺りに広がる。

「……一級相当には、一発ですね。覚えておいてください」

土煙が風に流れて、晴れた視界の中、二人の視線がかち合う。
七海は確認するようにそう言った後、素早く構え直した大鉈を再度同じ場所に打ち込む。
軽い動作の二発目。その衝撃には耐え切れず、ガラガラと音を立てて、こよみの結界は崩れ落ちた。実体のないそれは、地面に触れる前に霧散していく。

「あ、……なるほど、七対三の場所に……」
「ええ。一級を祓える衝撃を与えました。あなたは四級ですし、上々でしょう。与えられる任務が適性であれば出来過ぎなレベルです」

淡々とした口調で言ってのける七海ではあるが、こよみは緊張に固まった表情でごくりと生唾を飲み込んだ。
七海の術式は、一定の条件下で攻撃対象を弱体化させるものだ。こよみの張った結界は最大強度ではあったものの、七海程の実力者が術式を使用した上で真正面からぶつけた攻撃を浴びせられたのだ。
この関係性でなかったら、殺されていたかもしれない。こよみは途端に悪寒を感じ、夏仕様の薄手の制服の自身の二の腕をさすった。

――呪術師って、容赦のない世界だ。

「身体に異常はありませんか」
「え?あ……はい」
「実力以上のことをすると、どこかにガタがくるものです。術師の実力差は術式の効果に出やすい。特に結界術はそれが顕著です」
「……」
「今日はもう無理をしないほうがいいでしょう。切り上げましょう」
「あ……ありがとうございました!」

慌ててそう言いながら、こよみは七海に頭を下げた。その動きに合わせて、一つにまとめた髪が揺れる。
勢いが良すぎたせいなのか、元の位置に戻ってきた頭の中、脳がぐらりと揺れる感覚がこよみを襲う。同時に、喉の奥に血の味を感じた。

「いいえ。……どうかしましたか」
「あ、いえ、ええと。……七海さんのおっしゃる通り、一瞬ふらつきが……」
「当然です。その不調も含めて、今の自分の実力をよく自覚してください。身の丈に合った任務を引き受けることも大事ですから」
「…………」

「今日のことを、忘れないでくださいね」

優しくも厳しい口調と表情だった。
こよみははい、と答えて七海の相貌を見上げた。七海は黙ったままこよみに背を向けた。
大鉈を収納しながらこよみを振り返ると、「寮まで送ります。ゆっくり休んでください」と労いの言葉を口にして、ほんの少しだけ口許を緩めたのだった。



* * *



轟音と、攻撃によって巻き起こる風。眼鏡のレンズを介さずとも見える異形の化け物の姿。状況の全てを、もはや小野も知覚していた。
こよみの小さな背中の陰で恐怖に戦慄く唇を引き結びながら、それでも、その震える肩から目を放せない。

浅い呼吸の合間、こよみは口中の鉄の味にむせ返りそうになりながらも、もう一歩も下がるまいと、必死にその場に踏み止まった。

――忘れるわけがないんです。

こよみが、今でも鮮明に思い出すのは、七海と共に過ごしたあの日のことだ。
眼前で振り下ろされた大鉈の切っ先は、不思議とそれほど恐ろしくはなかった。
その攻撃の向こう側で、七海が決してこよみの両目から目を逸らさず、どこまでも気遣わしげな光を注いでくれたから。
喉の奥を流れる血の味も、呪術師の世界の恐ろしさも、全てあの日に刻まれた。
大きな優しさを絶えず注いでくれた、七海の思いやりと共に。

死にたくない。
守るべき人を守れずに、死ぬわけにはいかない。絶対に。


(身の丈に合わない任務に、泣いた日が、きっとあったんですよね。あなたにも)


それでも――やらなければならない時が、あったんだろう。七海にも。
こんな状況でも、思い出すのは優しいあの声ばかりだ。こよみは、他に縋る先を知らなかった。
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