カトレア | 04


事態が動いたのは、その直後だった。
小野が狭い空間で身じろぎをした瞬間、彼の肘が給湯室の茶器にぶつかり、その拍子に丸盆が床に落下して、物音を立てた。
こよみは息を呑んだ。この結界は、物音を遮る性質はない。
呪詛師の女が顔を上げた。

「あら?誰かいるみたいね」

靴音を鳴らしながら、女が会議室の入口に向かって歩いてくるのが、こよみと小野の視界に映った。
小野が動揺で身体を硬直させる。一方で、こよみは指先が震えるのが抑えられなかった。

「ごめん、鬼怒川」
「……ううん」

こよみは返事もそこそこに、どうにか打開策を探るべく、頭をフル回転させた。
もしあの女に、結界を解いた瞬間を見られたら一発アウト。
こよみが呪術を使役できると気付かれたら、最悪の場合、計画の邪魔者と判断されて殺されるかもしれない。
二人が立っている給湯室は、後ろが壁になっている。入口を塞がれたら終わりの、袋小路。
となれば、選択肢は一つしかない。

「小野くん。あの人が会議室を出てくる前に、ここから出る」
「は……?それで、どうすんだよ」
「逃げたら怪しまれるし、話をするしかないよ。協力して」

幸いなことに、会議室の扉の正面と給湯室の入口は向かい合っていない。
数秒間だけ、お互いの姿が死角になる時間が生まれる。その瞬間に廊下に出て、可能な限り自然に距離を取るのが最良の選択だろうと、こよみは考えた。

無言のまま目配せを交わした二人は、こよみが頷いたのを合図に動いた。
こよみが結界を解いた直後、小野が細心の注意を払ってその場に立ち上がる。
早足で廊下まで歩を進めると、何事もなかったかのように、二人はその歩みのスピードを緩めた。
あたかも事務所から廊下に出て、休日出勤を終え帰宅の途に就こうとする同僚二人組を装い、ふと自然に顔を上げた小野が、廊下に出てきた呪詛師の女に気付いた素振りを見せた。

「あ、ども。お疲れ様です」
「あら、お疲れ様です。土曜日なのに出勤ですか?」
「そうなんすよ。外で商談があって。資料まとめたんで、これから帰るところです」
「そうですか。……お疲れ様です、あなたも?」

女の切れ長の目元が、何かを見定めるように小野の表情の上を滑る。
続けて、小野の一歩後ろに立っていたこよみに、親しげに表情を緩めて声を掛けた。
こよみは緊張を滲ませぬ様、それでいて自然に同僚に接するように、穏やかな声と表情で応対した。

「こんばんは、お疲れ様です。はい、わたしは月末処理で」
「大変ですね」

にこやかに応対する女の背後に、大きな呪霊の姿が重なる。
その視線はこよみと小野の双方に交互に注がれ、にたりと不敵な笑みを浮かべていた。

『絶対に、あの化け物と目を合わせちゃダメだよ。見えると気付かれたら、攻撃されるかも』

直前にこよみが、小野にそう忠告をしていた。
こよみの眼鏡をかけたままの小野には、呪霊の視線が自分に向いていることが嫌でもわかる。背中にじっとりと汗が伝うのを感じていた。
一方のこよみは、これまでの経験が幸いし、実に自然に呪霊の挙動を観察しながら、女と会話を交わしていた。

「あ、失礼しました。私は先週中途入社した佐藤と申します」

女は、相対するこよみと小野が面識がない人物だとその時点で気付いたかのように、そう切り出した。
自然な会話の流れではあるが、この場から足を進ませまいという思惑を、こよみは明確に感じ取っていた。
やはり、この女は何か狙いがあって、この会社に潜入をしているに違いない。
一級レベルの呪霊を高専が野放しにしておくとは考え難い。いくらなんでも、もう存在には気付いているはずだ。これだけはっきりと顕現し、大きな気配を発しているのだから。
とにかくこの場をやり過ごすことだけを考え、一般人である小野を一刻も早く安全な場所へ移動させなければなるまい。

「そうでしたか。わたしは総務部の田中です」

そう言いながら、こよみは小野の袖を背後に引き、彼をこよみの後方に歩み進むよう促す。
小野はしゃあしゃあと偽名を名乗ったこよみに一瞬だけ目をまるくした。
だが、すれ違う寸前のこよみの表情は真剣そのもので、なんの言葉も挟めなかった。
こよみの考えの全てがわからないまでも、邪魔をするわけにはいかない。そう直感し、佐藤と名乗った女と友好的に会話をするかのように歩み出たこよみを、一歩背後から見守る。

「入社したばかりで休日出勤なんて、佐藤さんこそ無理しないでくださいね」
「お気遣いありがとうございます」
「じゃあ、わたしたちはこれで失礼します」

ぺこりと愛想良く頭を下げ、こよみは顔を上げると同時に「さ、帰ろ」と言って小野を振り返る。
小野は「おう」と固い表情で返事をしながら、女に一瞬だけ視線を向け素早く会釈をする。

二人の視線が完全に女から外れ、進行方向に身体を向けた瞬間、女はゆっくりと腕を組み、にやりと怪しく笑んだ。

「……ふふ。田中さん、ね」

小さな声でそう呟いた女の細長い指が、ジャケットのポケットから万年筆を引き抜いた。

『アイツら、外れか?』

呪霊の、低くぬめったような声が女に声をかけた。こよみは歩を進めながら、用心深く耳を傾ける。

「どうかしらね」

直後、その声と同時に、呪力が発する僅かな気配が空気を揺らす感覚が、こよみの背中を粟立てた。
こよみが素早く振り返ると、放り投げられた万年筆が眼前に迫っていた。バチッと電流が走るような音を立て、勢いをなくしたペンがこよみの足元に落下する。

「………………」

はあ、とこよみが息を吐く。
こよみが壁のように張った結界が役目を終え、無音で霧散するのを、眼鏡のレンズ越しに小野が見ていた。

もう言い逃れはできない。
こよみはその場から動かず、敵をまっすぐに見据えながら、小野を庇うように狭い廊下に立ち塞がった。

「呪力が込もっているって気付いて、よく咄嗟に対処したわね」
「…………」
「おしゃべりは嫌い?まぁいいわ」

ブランクのある元四級呪術師と、非術師。対する相手は、低く見積もっても準一級呪霊と呪詛師。
力の差は歴然だ。下手な動きを見せてはまずい。こよみはその場から一歩も動かず、浅い呼吸を繰り返していた。

「あなた、鬼怒川さんでしょ?呪術師なの?」

どうやら、女のほうもそれほど気が長いわけではないようだ。
ならば、今自分にできることは時間稼ぎのみ。反抗の意思を見せず、小野だけでも見逃してもらうよう交渉するしかない。
運が良ければ、高専の呪術師が駆けつけてくれる可能性もあるだろう。
こよみは降伏を伝えるように、どこか諦めたように表情を緩めた。

「……名前、ご存知だったんですか。呪術師ではありません。……どなたか、呪術師を探しているんですか?」
「ええ。五日前に、この会社の前にいた低級呪霊を祓った人間を探していたの。あなたよね」

核心的な声音で、女は尋ねる。こよみはゆるくかぶりを振った。

「……祓ったわけでは。身を守るために結界を張ったら、運が良かっただけで」

こよみは数日前から、オフィスビル周辺で呪霊の気配が強まるのを感じていた。

五日前、退勤後に従業員通用口を抜け外に出る直前、暗闇の中に呪霊の気配を感じた。
こよみは眼鏡の隙間から目視し、等級を見定めた。三級、小型、動きが素早い。
しばし悩んだ後、こよみはぎょろりと飛び出したその両目を、眼鏡を外した自身の双眼でじっくりと見つめた。
視認されている、敵意を向けられている――それに気付いた小さな異形の呪霊は、カエルのような動きでこよみに飛びかかった。

最大防御、かつ、二級呪霊にも有効な“攻撃性質”を備えた結界を自らの前方に展開。
バリバリと耳障りな音を立て、電流に似た衝撃波が呪霊の身体を包む。
結界の形をした壁に激突した衝撃も手伝い、ずるりと、ドーム状の壁伝いに、その場に落ちる。
こよみは駄目押しのように、消える寸前の結界を針の形に集約し、そこに最大級の攻撃性質を付与する。
呪霊祓除と同時にその場に霧散するその身体と、追うようにコンクリートの地面に付着した黒い体液が干上がるように消えていく。

一日一度程度なら。
三級以下程度の低級呪霊、それも一対一での戦闘なら。
こよみは、呪霊祓除が可能だった。

わらわらと、四方八方から湧いては消えるような戦場では、こよみの力は無力に等しい。だから、かつては四級だった。

――まさか、五日前のあの呪霊は、この会社にいる呪術師を炙りだすために、わざと配置されたものだった?
こよみの米神に冷や汗が流れる。思い返すと、あの呪霊を祓った後も、呪霊の気配は想定していたほど弱まりはしなかったのだ。

「祓ってない?……それが本当のことかはわからないけど、そのレベルじゃあ、私たちの計画には支障なさそうね」
「……計画?」

状況は、こちらが思っているよりも旗色が悪い。
それも、壮大な計画の一部分に、既に足を踏み入れた後かもしれない。
こよみがそれらの可能性を感じ取り顔を青くするのを、呪詛師の女が悦楽の滲む表情で見下ろしていた。

「ええ。先月末に亡くなった男性社員、気の毒よねえ。でもあの人が悪いのよ、私たちのターゲットを庇い立てしたりするから」
「……彼を殺したのはあなたですか?」

営業二課の係長が亡くなった話を、こよみは脳内で想起する。
話したことはない。顔も思い出せない。それでも、呪霊の被害者となれば、他人事とは考えられなかった。

「そう。実はその時一人逃がしてね、この会社の人間みたいだから探りを入れていたってわけ」
「…………」
「そこに、あなたみたいに祓える人間がいることが事前にわかったから、計画進行の前に始末することになったんだけど、」

始末という二文字に、こよみは背後で小野が息を呑むのがわかった。

呪霊は、祓わなければ不特定多数の人を襲う。
だが祓ったなら、その怒りの矛先は、祓除を行った呪術師に向かう――そういうことなのだろう。

だとしたら、今自分に向けられる殺意は、因果応報なのだろうか。
否、そうではない。誰かに守られた命を、また誰かを救うために行使する。
呪術師は勝ち続けなければならない。終わりなどなくとも、救い続けるのだ。だから、強くなければいけない。

――だからわたしは、呪術師を辞めたんだ。

「かわいそうにねえ……あなたたち、まだ20代前半でしょう?これから楽しいことたくさんあるのに、ここで死んじゃうなんてね」

――たとえ死んでも、守ってみせる。今、わたしは一人じゃないから。

背後の小野の気配を、熱を、怯えを。
確かに背中で感じ取りながら、こよみは決意を胸に刻んだ。
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