カトレア | 06


(口の中、気持ち悪い……)

ふっと力が抜けそうな心地の中、こよみは呪霊の攻撃を防御し、受け流し続けていた。
とうに限界は超えている。一瞬でもタイミングを見誤れば、防御壁は粉々に砕けてしまうだろう。
喉の奥を流れ落ちていく血液を飲み下す度、体力を消耗している感覚になる。
それでも、この状況で敵にも味方にも弱みの端緒を見透かされるわけにはいかなかった。

「鬼怒川……」

小野が震える声で言う。
こよみはだいじょうぶ、と力なく答える。その声は掠れ、ちっとも音にはならなかった。
血が流れるのは、喉の奥を切っているから。身の丈以上の実力行使に、身体が悲鳴を上げている。
リスクが大きいほど、結界は強固になる。だが、これ以上犠牲にできるものがない。
直後、鼻孔からも液体が垂れ落ちる感覚があった。こよみの唇と顎を伝い落ち、制服の襟元を濡らす赤いそれに気付いた呪詛師の女は、ニヤリと口の端を釣り上げた。

「もう限界みたいね。そろそろ楽にしてあげるわ」

女がそう言うと、呪霊は女の隣まで下がり、その足元で体勢を低くした。
スタートを待つ陸上選手のようだ。この後、何らかの合図をきっかけに突進してくるのだろうと、こよみにも容易に想像が付いた。
実力差が大きい故に見せる余裕だろう。こよみは攻撃が止んだその瞬間に、手の甲で鼻を拭った。真っ赤な鮮血に頭がぐらつく。

「鬼怒川さん、それから後ろのあなたも。何か言い残したことはある?」
「……、そんなの……」

掠れた声で言葉を続けようとしたこよみは、窓の外にあるひとつの気配を感じた。
建物の外はすっかり夜の暗闇の中だ。そこに紛れて密やかに張られた、懐かしい感覚――これは、高専呪術師の帳だ。
こよみの心臓が、期待と戸惑いに揺れて高鳴る。どうやら眼前の女と呪霊は、帳が下りたことには気付いていない。

「……わたしたちの伝言を預かって……誰に、伝えてくださるつもりですか?」
「ふふ、そうね……営業と人事の人くらいしかわからないけれど」
「じゃあ、お手間ですけど、総務部にも。先月の請求漏れの処理について、メール返信を依頼したいです」
「仕事熱心なのね」
「大切なことなので」

こよみの返事に、女がおかしそうに笑う。
バクバクと、胸の中で心臓が脈打つ。
帳が下りたということは、少なくとも、呪術師ないしは高専関係者がこの騒動を把握しているに違いない。
今頃ここに向かっているはずだ。といっても、呪術界の万年人手不足の状況はこよみも承知している。
目の前の敵を一掃できるような実力者が真っ先に駆けつけてくれるかどうかは賭けだ。
それでも、死を待つだけだった状況は変わった。自分はともかく、小野は助けたい。
間に合うかはわからない。それでも縋るしか、賭けるしかない。

「頑張り屋さんのあなたが死んだら、みんな悲しむかしら?」

女がまるで慈悲を掛けるように笑う。小野の目には嘲笑にしか見えなかったが。
同時に、呪霊が動いた。こよみと小野目掛けて、正面から突進を仕掛けた。床と足裏がぶつかる音がフロアに響く。

こよみは呪霊の頭の面積を素早く目視し、最大級の呪力出力をもって、最小限の面積・最大級の防御力の結界を生成した。
攻撃性質、なし。リスクを上げて防御力を高めるために、位置取りはこよみの指先にほぼ密着する程の近距離に。


――あの日の七海さんの鉈より、この呪霊が強いわけがない。信じるんだ、絶対に守れるって。


次の瞬間、こよみの結界に呪霊の身体がぶつかる衝撃音が響き渡った。
呪霊の身体は、衝撃と共に背後に吹っ飛んだ。その直後、ビリビリと震える空気中に、粉々に砕け散った結界の破片が飛び散る。
大小様々な大きさの破片が四散する様子に、小野は反射的にまぶたを下ろす。だが、こよみと小野の身体にふれる直前にそれらは全て消え失せた。
その一方で、呪詛師と呪霊の身体には実体を保ったまま、ガラス片のように降り注ぐ。
鋭い切っ先が呪詛師の白い頬を切り裂き、女は忌々しげに舌打ちを漏らした。

「……ふん、私たちだけに対象を絞って、攻撃性質を付与しているのね。それも、結界を壊された後に限定して。その娘……本当に器用なのね……」

指先で傷跡を拭いながら、女が表情を歪めた。
呪霊は粉々の破片を双眼に受け、苦しそうな呻き声を上げている。

「あっ……鬼怒川!鬼怒川!?おい!」

眼前で膝から崩れ落ちたこよみの身体を、小野はすんでのところでその腕の中に受け止めた。
小野がこよみの顔を見下ろす。こよみは気を失っていた。四肢から完全に力が抜け、全く反応を示さない。
生気すら感じない真っ白な顔。その唇の端と鼻孔から、血が流れ落ちていた。
辛うじて呼吸はあるが、苦しさを表現する機能すらも全停止したかのように、無感情な表情だった。

支えを失った身体は体重以上に重たく感じる。
人形同然のこよみの身体は水濡れのように重く、小野は怯えと動揺も相まって、こよみを抱きかかえたままその場に膝をついた。
未だ、その顔を床に伏したままの呪霊を後目に、女が靴音を鳴らしながらこよみと小野に歩み近付いてきた。
ガツン!と勢い良く振り下ろされた右足は、こよみの項垂れた身体の、下肢を容赦なく踏みつけようとしていた。
小野は狙いに気付き、咄嗟のところでこよみを横抱きにして後ずさった。女は冷え切った表情で小野の表情を見つめた。
鬼の形相だった。小野はゾッと肩を震わせ、それを見た女は燃えるような怒りに表情を歪め、だが余裕を取り戻したかのように、口の端を釣り上げて見せる。

「……かわいそうにねえ。弱いなりによく頑張ったけど、結局何も守れないであなたは死ぬのよ」

女の視線は小野ではなく、こよみの相貌に向いていた。
その眼光には哀れみも慈悲もなく、ただ怒りと憎しみに燃えていた。
女にとって、本来の力量差を考えれば、この状況は想定外であった。それは、今の状況を知る由もないこよみも同様に。

女は平静さを取り戻したかのように、さっぱりと歪みを取り去った余裕の表情を浮かべ、仕切り直しとばかりに小野の表情を見据えた。
小野はこよみをしっかりと両腕に抱えたまま、じりじりと後退した。
背後は壁。小野は非術師で、こよみは既に戦線離脱の状況。誰が見ても、もう打つ手はなかった。

呪霊の巨躯が女の隣に並び、女は腕を組み微笑む。
小野は、ずるりと肩の力が抜けるような心地だった。それでも僅かに残った理性が、こよみの身体を放そうとはしない。
女が手を挙げるのと同時に、呪霊が前足を上げた。もう、攻撃を防ぐ手立てはない。
小野はぎゅっと固く目を閉じると、こよみの身体を敵から遠ざけ守るように、腕に抱え直した。自身の背と壁の間に、こよみの小さな身体を挟みこむ。

「健気ね。安心しなさい、どうせ一緒に死ぬんだから」

女のその言葉の直後、呪霊の雄たけびが小野の耳に届いた。

――鬼怒川、せっかく守ってくれたのに、何もできなかった。ごめん……
直後に全身を走るであろう痛みを想像し、小野が身体を固くした、その次の瞬間。


女の悲鳴と、呪霊の悶え苦しむ鳴き声が、廊下に響き渡った。
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