カトレア | 03


「動かないで。それから、あまり大きな声で話さないで」

こよみが小さな声で、小野に懇願する。
口調は命令系だが声音は恐怖に震え、不安げな表情を浮かべるその顔は青い。
小野はわかった、と短く答えた。状況は理解できていないが、こよみが未知の何かに怯えていることだけはわかる。

「ごめん……ありがとう。とりあえず説明するね」
「うん」
「結論から言うけど、今、あの人たちに見つかったらまずい」
「あの人たちって?」
「…………」

こよみが押し黙る。
言い淀んでいるわけではなく、呪いのことを知らず、呪霊を目視できない小野に伝わる言葉を、脳内で組み立てていた。
そんなことなど知る由もない小野は、どこか呑気な声音でこよみに尋ねた。

「なぁ、なんで鬼怒川、眼鏡外してんの。見えなくねえ?」

は、とこよみの息が口から漏れた。
思い出したように、こよみは胸ポケットにしまい込んでいた、赤いウェリントンのフレームの眼鏡を取り出す。

「……そうだ」
「え?なに?つーかさ、なんであの人に俺ら見つかってねえんだろ。さっき絶対こっち見たのに」
「それをこれから説明するよ。はい」

言って、こよみは小野の眼前に眼鏡を差し出した。小野はまるい目でこよみを見た。

「……なにこれ」
「わたしの眼鏡。今、ちょっと細工したから、それかけてあの人を見て」
「意味わかんねー……」

ここから動いちゃ駄目だからね、とこよみが釘を刺す。
渋々、こよみの手から受け取った眼鏡の左右の蔓を両手で摘まむと、レンズを通して、大会議室に視線を向けた。

「……は…………?」

小野の視界に最初に飛び込んできたのは、依然大会議室を練り歩いている女に付き従うようにぬるりと移動する、異形の生き物の姿だった。

「なっ……、はぁ??なんだよあれ……」

無意識のうちに震えてもつれた足が、身体を支え切れず、小野はその場にべたんと尻餅をついた。
色は黒。見目の質感は、焼けただれた人間の肌のようだ。形は歪な楕円形で、下側に不自然に飛び出ているのはおそらく足だ。数は四本。
規則性のない動きではあるが交互にそれらを動かし、女の背中を追って動いている。図体が大きいせいで、四足歩行の恐竜のような迫力がある。

「黒い……動物?頭のないサイみたいな……」

右手で口許を押さえながら、小野はぶつぶつと呟く。
こよみはそれを聞き取ると、どうやら小野にも自分と同じものが見えていることを理解した。

「小野くん。落ち着いてね。これ、見える?」
「これ?……え、なんだこれ、シャボン玉みてーな……膜?」
「うん。これは、わたしが作った結界。その眼鏡は、呪力のあるものが見えるようになってるの」
「…………」
「呪力については、後で説明するから。……で、あの化け物は呪霊っていう……、」

こよみはそこで言葉を切った。
がたがたと震え出したその肩が、彼女の目の前でまずいことが起こっていることを、小野に伝えていた。
だが、いくらこよみの眼鏡のレンズ越しに彼女の視線の先を追いかけても、小野にはこよみと同じレベルで状況を察することはできないでいた。

(……あの呪霊、人間の言葉をしゃべってる。ってことは、少なくとも準一級以上……)

黒い呪霊の足裏が床に接地する度、べたべたと粘着質な足音が鳴る。
そして、女と向かい合って何やら会話をしている。小野の耳には、呪霊の発する音も声も聞こえないが、こよみは覚知していた。



* * *



こよみは普段から、赤いフレームの眼鏡を着用している。
小野に渡した眼鏡がそれである。その役割は主に二つ。
一つは視力補正のため。眼鏡の一般的な使い方である。
これは眼鏡店で購入した時に、既にレンズに備わっていた仕組みである。
そしてもう一つは、“呪霊を見えなくするため”。
この特殊とも言える使途は、眼鏡店の店員には施せない仕掛けによるものであった。
即ち、こよみの呪力操作によって顕現した使い道である。

呪術高専を中途退学して、約六か月後。
こよみは一般人としての人生を再スタートさせたが、呪霊がそこかしこに見える目は、当然そのままこよみに備わっていた。
呪霊は一様に人間に害を為すため、見えること自体は全てがデメリットではない。
だが、呪術師としての未来を自ら捨てたこよみにとっては、少々難儀だった。
日常生活そのものが、苦い思い出を突いてくる。そんな心地だったからだ。

こよみが十八歳になる年の春――彼女は半年間の勉強を経て、通信制高校の門をくぐった。
編入学のために半年間勉強をしてこよみが手に入れたのは、新たな“一般的な高校生”という身分と、少しばかり遠くが見え辛くなった視界だった。
後者は完全なる副作用。というより、不摂生の末に身に宿ってしまった業のようなものである。
日常生活に致命的な支障をきたすほどではないものの、やはり視力は良いほうが良い。こよみはそんな気持ちだった。
だがある時、こよみはふと閃いた。『眼鏡に呪力をこめて、呪霊を見えなくすることはできないか?』と。
そのアイディアの端緒は、かつての先輩である五条悟の存在だった。
呪術師にはサングラス等で目を隠す者が多い。呪霊は視線に敏感で、見ていることを悟らせないようにする役割がある。
実際のところ、五条のサングラスの役割はその本質から少々ずれたものではあるが、こよみにとっては、自らの光明となる記憶というだけで、十分ありがたかった。

呪霊から視線を隠すという役割の応用で、着用者からも呪霊を見えなくする。
リスクはある。呪霊が見えないことで、気付かぬうちに襲われてしまうかもしれない。
だが、それは非術師がいつも見ている世界でもある。

こよみは、非術師として生きていくと決めた。
高専を辞める時、七海がそうしたように。

この日を境に、こよみは呪霊を能動的に見ることを、放棄したのだった。



* * *



残念ながら、眼鏡を外せば呪霊は見える。
たとえレンズ越しに姿が見えなくとも、気配は感じるし声は聞こえる。
こよみの身体を巡る呪力量は一般人のそれとは違う。どこまでいっても、こよみには呪力を操る者としての適性があった。
それでも、こよみは非術師の社会に順応していった。過ぎる年月は人を環境に適応させる。それが、こよみには救いだった。

そんな生活も、もうすぐ七年という歳月を迎えようとしていた。
呪霊が見えなくても、自分で祓えなくても、なんとかなった。生きて健康に朝を迎える日々が、毎日当たり前のように訪れた。
時々、呪霊の気配を感じることがあっても、数日のうちにその気配は消える。
遠くない土地のどこかで呪術師が日夜、非術師の平穏な日常を守るために、その身を危険の中に投じていることを感じて、こよみは息が苦しくなる時があった。

わたしは、悪いことをしたわけではない。
逃げたかもしれない。だが、誰にもそれを責められることはないはずだ。

何度も何度も、こよみが胸の内で唱えた言葉だった。
誰にも責められない事実を、誰よりもこよみにぶつけて責め続けたのは、こよみ自身だった。



(……準一級の呪霊と、通じている呪詛師。こんなの、高専の中でも特級、……低くても一級案件に決まってるのに……)

こよみは眼鏡のレンズを介さずに、じっと目の前の光景を見つめた。
奴らはまだ、こよみと小野の存在に気付いていない。それは、小野が“シャボン玉の膜”と称した結界がきちんと働いている証だった。
高専在学時、四級呪術師だったこよみが、唯一学内で高く評価されていたのが、結界術だった。
誰が言ったか、“結界だけは一級レベル”。とはいえ、その言葉はこよみの結界術以外の能力を蔑む以上の意味などなかった。

今この場で、こよみと小野を覆い隠す結界に付与された性質は二つ。
一つ目は、対象――この場では、黒い呪霊と呪詛師の女――から、結界内を見えなくする。
二つ目は、結界内で発した“肉声”は、対象に聞こえない。

メリットは、姿と声を“隠す”ことに限定している点。防御の特性がないため、隠す力は一級品に洗練される。
呪詛師の女の等級は不明だが、仮に呪霊の等級が準一級以下であれば、この結界が看破されることはないだろう。
デメリットは、文字通り“隠す”ことに絞っていることで、攻撃を防ぐ手立てがない点。
そして、もし相手の等級が一級より上であったり、このまま長時間結界を張り続けることになったら、やがて結界の効力は切れる。

結界が機能している間に敵がここから去るか、こよみの呪力が尽きるのが先か。
もしくは、敵の目的を探り当て、真っ向勝負でやり過ごすことが可能か判断し、対処する他ない。

「あの女の人、営業二課に入った人だ。半月くらい前に」

こよみがちらりと横目で小野の顔を見る。
その口調はどこか呑気で、状況のまずさの全てを捉えているわけではなさそうだ。
だが、小野が目を逸らさずにじっと見据える視線の先を辿ると、異形の化け物に行き着く。米神に冷や汗が滲んでいることに、こよみは気付いた。

「…………」

敵の狙いはわからない。
この会社に潜入した意図が、何かあるのかもしれない。
こよみが最初に三級程度の呪霊の気配を感じ取ったのは、半月ほど前のことだ。
二人の眼前の呪詛師の女が行動を始めたのが同じタイミングだとして、あれほど強力な呪霊を引き連れて社内をうろつく状況は見過ごせない。
このまま放っておいたら、こよみと小野の近しい人物の中から、確実に負傷者が出る。

(とにかく、今はどうにかやり過ごして、奴らの身分を特定するんだ。被害が出る前に高専に通報して……そうすれば、きっとなんとかしてくれる)

こよみが口に手を当てて息を潜めながら考えを巡らせる横顔を、小野は静かに見下ろしていた。
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