カトレア | 02


2017年、五月某日。
朝礼で上長が、何やら言い淀みながら言葉を発した。

「昨夜、営業二課の係長が交通事故で亡くなりました」

こよみは胸の中で、心臓の鼓動がペースを乱すのを感じていた。
会ったことのない人だと頭では理解している。だが、海の向こうの国の出来事ではないというだけで、身体の芯に氷水を浴びせられたような心地になった。
亡くなったのは営業職の五十代の男性。
こよみの立っているオフィスビルから道路を一本隔てた場所で、飲酒運転の車の轢き逃げに遭った……という説明であった。

「…………」

不幸としか言いようのない話だと思った。
だが、こよみはどこか釈然としない心地だった。
ここ数日、呪霊の気配を感じていた。場所は当該オフィスビル周辺。
判然としないその気配は強まったり弱まったり、また東西南北あらゆる方向から覚知することができた。
平均して、その呪力量は三級程度。数は分散はせず、気配は常に一か所。あてもなく移動しているといった様子である。

(三級呪霊が一体、知能が低い、……それなら高専が把握していても、祓除の優先度は低い)

見も知らぬ営業二課の係長の法要の日時を耳では聞き取りつつも、脳では呪霊について考えを巡らせながら、こよみは細く溜め息を吐いた。


鬼怒川こよみは、呪力を察知することや操作することに秀でていた。
それは戦闘への適性とは真逆の方向へとベクトルを伸ばした。とりわけ、結界術はこよみの十八番と言えた。
一方で、その代償と言わんばかりに、前線で敵を倒すにはあまりにも無力であった。原因はこよみの生得術式ではなく、戦闘への適性のなさに由来している。
都立呪術高専の学生だった頃、こよみはその身に宿る潤沢な呪力量と優秀な呪力操作性に不釣り合いな程の臆病で常識的な人間性から、“宝の持ち腐れだ”と陰口を叩かれた。
ぐうの音も出ない正論だと、当時十六のこよみは感じた。

――陰口という陰湿な性質のものになどせず、正面切って言えば良い。どうせ自分は何も言い返せないのだから。

それでも、消えぬ心の傷と同じように、こよみに生来宿る呪力と無駄に敏感なセンサーは衰えることはなかった。
もう呪術界と関わることはないというのに、不便な体質であると、こよみは常々考える。
こよみの視界は勝手にグロテスクな見目の呪霊を映し出すし、その他の感覚器で覚知できない呪霊ですら、先走って気配で察する。
それでも、幼い彼女の身を守ってきた、ほとんど無意識のうちに発動する結界術だけは感謝せざるを得ない。
ここ数年はそれもすっかり鳴りを潜め、忘れかけてすらいたが。
時折呪霊の気配を覚知しては、数日のうちに消え失せる。自身の呪霊センサーの故障などではないことを、こよみはちゃんと理解していた。

――ああ、またどこかで、呪術師の方がわたしたちを守ってくれたのだ。

呪術界に背を向けたこよみの唯一の後悔は、そういった立場の人たちとの関わりを自ら断ったことで、お礼を言う機会をすっかり失ってしまったことだ。



* * *



数日後、六月最初の土曜日。
一人きりのオフィスに、こよみの叩くキーボードの音だけが響く夕方のこと。
ガチャリとドアノブをひねる音が、オフィスの空気を揺らした。

「お疲れ様、土曜日なのに出勤……?」
「鬼怒川?お疲れ、いやそれお互い様じゃん」
「そうだけど。わたしは月初は毎月のことだし……小野くんは?」
「商談。営業先が今日しか時間とれねーって言うからさ、あー疲れた」

あまり中身の入っていない薄い革製の鞄を、こよみの斜向かいの無人のデスクに放り投げると、小野はそのまま椅子を引っ張り出して勢い良く腰を下ろした。
そこは総務部の課長の席なのだが、今はデスクの主はいないのだから咎める者もない。
営業一課のオフィスは総務部と同じ階ではあるが、もっと奥の窓際一帯である。自分のデスクまで歩を進めないあたり、小野はこの後仕事をするつもりはないらしい。

「鬼怒川は何時からやってんの?」
「二時くらい。わ、もうこんな時間なんだ。もう少しで切り上げるよ」
「総務も大変なんだな。飲み物買いに行くけどなんか要る?」
「え?あ、じゃあわたしも行く。ちょっと身体ほぐしたい」

そう言って椅子から立ち上がったこよみは、歩き始めていた小野の背中を見つめながら両腕を頭の上に上げ、ぐっと背筋を伸ばした。
茶色のドアの前で振り返って待つ小野のもとへ一歩を踏み出そうとしたその時、ひゅっと背中に薄ら寒い気配を感じ、こよみは咄嗟に反対方向を向いた。

「どうかした?」

こよみの米神に冷や汗が伝う。
怪訝そうな表情の小野に再度向き合うと、こよみは早足でドアに駆け寄り、小野の隣に並んだ。

「え、なに」
「……なんでもない。ごめんね。行こう」

早鐘を打つ心臓とは裏腹に、こよみは自身に言い聞かせるようにそう呼び掛けた。
ドアノブをひねり廊下に出ると、右方向にエレベーター、その正面に自動販売機がある。
こよみは一人、脳内でぐるぐると考えを巡らせ、爪先を左方向へ向けた。小野の眉間の皺が深くなる。

「鬼怒川、自販機こっちなんだけど」
「ごめん。そっちは危ない……こっち来て、早く」
「はぁ?」
「いいから!ごめん、後でちゃんと説明する!」

小野はいつになく必死な声音で、迷いなく訴えを向けるこよみに気圧され、無言で表情を和らげた。
そして、ごめんと再度続けたこよみの横顔に「なんで謝んの」と呟きながら、歩き始めたその背中を追った。

こよみは事務員としての仕事はきっちりとこなし、きちんと線引きができるほうだ。少なくとも、小野はそう考えている。
会計や経理、入社の手続きといった事務作業に、グレーゾーンという領域は基本的には存在しない。書面の金額や、就業規則通りが是。判断基準はそこにある。
だが、鬼怒川こよみという一人の人間に関して言えば、非常に曖昧で波のある気質である。あえて悪く表現するならば、優柔不断で流されやすい。
時折言葉の端々に滲む、そのはっきりしない物言いは、彼女の自己肯定感の低さからくるものだろうか。
物腰は柔らかく、愛想も良い。だが、誰に対しても強い態度を見せない。優しいと言えばその通りだが、些か気弱と言わざるを得ない。
それでも、そんな人間は世の中にごまんといる。小野はそれを知っているから、こよみを頼りないとか弱いとか思うことはないし、同僚として親しみも感じている。
この会社でこよみが気持ちよく仕事ができるなら、本人がこのままを望むなら、自分は何かを言う立場にはない。

そんな一方的な評価と関係性を踏まえた上で、こよみの新しい一面を発見した――歩みを進めながら、その小さな背中を見つめて小野は思う。

「鬼怒川、そんなでっかい声出すんだな」
「え……、そう?」

自分はといえば、緊迫感のある空気は苦手だ。
どうしてこよみが冷や汗をかいているのかはわからないが、“説明する”と言われた手前、今は邪魔だけはしないようにと、小野はそんな呑気な言葉を発した。

「ん?給湯室?」
「うん、とりあえずちょっとここに」
「はいはい」

扉のない、流し台とポットだけがあるその小さな空間に、二人は静かに入室した。

(ここなら廊下にすぐ出られるし、一番大きな会議室の正面。……これでやり過ごすしかない)

給湯室の最奥は、冷蔵庫と流し台に挟まれて狭くなっており、大人二人がギリギリ隣り合って立てる程度のスペースしかない。奥は壁だ。
こよみは小野の身体を壁にぶつかる直前まで進ませ、通せん坊をするようにその手前に立った。視線は廊下に向いている。

(やっぱり、呪霊の気配がする。なんで急に?瞬間移動ができるとか……?)

絶えず緊張した様子のこよみの背中に、小野がそろそろ説明を求めても良いのではないかと口を開きかけた、その時。
エレベーターの到着を知らせる音が、二人の耳に届いた。続いて、カツン、とヒールが床にぶつかる音がする。

「…………」

こよみの肩が僅かに跳ねるのを見て、小野は状況が掴めないなりに、ひとまず息を潜めた。
足音がこちらに近付いてくる。こよみは細心の注意を払いながら、息を殺し、両手を胸の前に突き出す。
小野は、こよみが何をしているのか、全く理解できなかった。
だが、ぶるぶると小刻みに震えるその手が、彼女の身体を支配する恐怖を伝えていた。

「…………」
「………………」

誰も、何も話さなかった。
コツコツと一定の感覚で鳴る靴音は、おそらく女性のハイヒールから発せられるものだ。
こよみと小野はその場から一歩も動かずに、廊下の方向を注視していた。
やがてその姿が見えた。給湯室の中を一瞥したのは、すらりと身長が高い、仕立ての良いジャケットを身に着けた一人の女だった。
女はまるで何も見なかったかのように足を止めることはなく、やがて足音が徐々に遠ざかる。
とはいえ、突き当りには壁しかないので、こよみは一ミリも気が抜けないでいた。

「…………っ!」

こよみが息を吸い込む音が小野の耳に届く。

「……なぁ、しゃべっていい?」
「……は、あ、うん。平気……。……ね、その前に小野くん、教えて」
「え?うん、何?」
「今、廊下を通った大きいの、見えた?黒くて丸い……」
「は?今?女の人しか……」

内緒話をするように、冷蔵庫の前でひそひそと言葉を交わす二人。
こよみは「そっか、わかった……」と答えて俯く。小野は首を傾げて再度廊下に視線を向けた。
いつの間にか、廊下を隔てて正面の大会議室の扉が開け放たれていた。その向こう側、口の字の形に配置された長机の脇を、先刻の女が闊歩している。

――見えていないということは、差し迫った危機はない、と判断すべきだろうか。

本来呪霊を目視できない一般人に覚知できる状況は、有り体に言えば“今際の際”というやつだ。
こよみはごくりと生唾を飲み込んだ後、小野の頬のあたりを見つめた。
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