ありふれたせかいせいふく | 02


「ねえ、そこのきみ。怪我はなかっ……」

人当たりの良い穏やかな表情と声音で――と、少なくとも夏油傑は心がけていた。
尻餅をついていた少女を気遣う言葉を選んで近寄ったはずが、少女は夏油が自分に話しかけていることを悟った瞬間に、素早く立ち上がった。
そして、脱兎のごとく、夏油に背を向けて全力で走った。
つまるところ、逃げた。

「…………」

漫画のように、少女に手を伸ばしかけたポーズでその場に立ち尽くす夏油の背後で、五条は腹を抱えて大爆笑していた。

「ちょっ、やべー、めっちゃウケる。警察に駆けこんでねーかな、あのガキ」
「悟……私は何かまずいことをしたか?」
「お巡りさんがきたらそういうことになるわな」
「それはまずいな」
「何ショック受けてんの?あー、やべ、その顔硝子に見せたい。写真撮ろうぜ」
「ふざけるな、あの娘を追いかけるぞ」

とぼとぼと自分の一歩先を歩き始めた夏油の背中に重い空気を感じ取り、五条は笑いが収まるタイミングを完全に見失った。
その一分後、「いい加減にしろ」と言いながら夏油に強めに脇腹を殴られ、五条はようやく笑うのをやめた。



* * *



少女は、とある土産店に逃げ込み、商品棚の影に隠れていた。
ランドセルを胸の前で抱きしめ、顔を伏せ、身体を小さく縮める。少女は怖いものを見た時、決まってそうした。

「こよみちゃん。そんなところにいないで、奥の座敷に上がりなさい。お尻が冷たいでしょう」

こよみと呼ばれた少女が顔を上げる。
こよみを見下ろし笑顔を向けていたのは、土産屋の店主だった。こよみの祖母でもある。

「おばあちゃん。今日も空に怖いのがたくさん飛んでいたよ」
「そうかい」
「だけど、今日はもっと大きなお化けが出てきて、そいつらを全部食べちゃった」
「そりゃあ、いいお化けもいたものだね」
「…………」

こよみは押し黙り、祖母に背中を押されるままに、店の奥の畳敷きの小部屋に歩を進めた。
ランドセルを部屋の隅に放り、膝を抱えてその場に座りこむ。身体の震えはいつの間にか止まっていた。

「あら、いらっしゃいませ。学生さん?」

虚ろな視線をどこへともなく向け、耳に入ってくる祖母や店頭の観光客の声を単なる音として受け流す。
そうして数時間をこの場所で過ごし、夕方になったら家に帰る。こよみの毎日は、その繰り返しだった。
平穏そのものの生活だった。あくまでも、傍から見れば。

「こよみちゃん。あなたにお客さんだよ。こんなイケメンのお兄さんたちとどこで知り合ったの?」
「おばちゃん、なんか感性が若いねー。俺ファンになりそう」
「すみません、お母さん。ありがとうございます。あ、やっと見つけた」
「あなたたちみたいな、若くて明るいお客様のおかげですよ」

部屋の引き戸を開け顔を覗かせた祖母の影から、先刻のでかい男二人が人懐っこい表情で、こよみを見ていた。
こよみは、空の化け物を見た時と同様に、再びサーッと血の気が引く思いがした。



* * *



彼らの眼前から全速力で逃げたのだ。後ろめたくないほうがどうかしている。
こよみはたらりと汗が背中を伝うのを感じながら、祖母の土産店の前に備え付けられた木のベンチに座って、ぎゅっと拳を固く握りしめた。

「急に訪ねて、怖がらせて悪かったね。転んでしまったようだったから、怪我はないかと思って」

夏油がこよみの隣に座り、穏やかな声音でそう尋ねる。こよみはこくんと無言で頷いた。
「そう、それならよかった」と言葉を返す夏油の相貌を、こよみは緩慢な動作で見上げた。
夏油はこよみと視線が交わると、穏やかに笑みを深くした。
ベンチには座らずプラプラと二人の前を自由に歩き回っていた五条は、そんな夏油を無遠慮に指さしゲラゲラと笑った。

「傑、それどういうキャラ設定?」
「うるさい悟。協力する気がないなら黙っててくれないか」

こよみは夏油と五条の顔を交互に見上げた。
どうやら座っているほうの黒髪の男は、歩き回る男に対しては、怒っているというよりは呆れている様子である。
五条と不意に視線がかち合う。五条が先に、興味がなさそうにそっぽを向いた。

「……あの、さっきは逃げてすみませんでした」

自分に用がありそうなのも、話がスムーズに通じそうなのも、こっちの人だ。
こよみはそう見当をつけ、距離をあけて座る夏油のほうへ身体を向けると、ぺこっと頭を下げながらそう口にした。
夏油は目をまるくした後、ふっと破顔して見せた。

「いやいや。どう考えても、私たちのようなのが急に目の前にいたら驚くよね」

こよみは返事の代わりに、ふるふると首を横に振った。
怖かったのも逃げたのも事実だが、どちらかと言えば空の異様な光景に、気が動転してしまったのが原因だ。
化け物が化け物に食われるところなど、パンデミック映画レベルのインパクトである。
夏油と五条はそこに偶然居合わせただけで、自分たちのせいで少女を怖がらせたと誤解させてしまい、不運ですらある。
こよみはそんな風に考えていたのだが、その一つも言葉にできないでいた。
もちろん、そんなこよみの胸の内など知る由もない夏油は、こよみの否定の反応を、彼女の気遣い程度に捉えていた。

「じゃあとりあえず、自己紹介をしてもいいかな。私は夏油傑。あのサングラスは五条悟」
「夏油さん、五条さん……。わたしは、鬼怒川こよみです」
「こよみちゃんだね。よろしく頼むよ。ほら、悟。お前も挨拶しろ」
「あぁ?ったく、わかったよ。えーっと、もっかい名前聞いてもいい?」

ぼりぼりと後頭部を掻きながら近寄ってきた五条に、こよみは再度名前を告げた。
心底やる気が見えない男だが、サングラスの下の顔はそれほど怖くはない。

「鬼怒川こよみちゃん、ね。りょーかい、よろしく」
「はい。よろしくお願いします」
「しっかりしてんだな。小学生でしょ?俺らも高一のガキだしさ、別にそんなちゃんとしなくていーよ」
「……そうですか?」

こよみの真ん丸な目に見つめられ、五条はサングラスの位置を右手で直した。
この娘は呪霊が見える――それに関しては間違いない。あの怯えっぷりからして、おそらく祓う手立ては持ち合わせていないのだろう。
そういう子どもは程度の差こそあれ、多少は周囲の人間関係に何かしら問題を抱えている。
どちらが“傷つける側”になっているかは当人たちにしか解り得ないが、五条の目には、目の前の少女はあまりにも無垢な存在に思えた。
この礼儀正しさは、こよみが身に着けた処世術の一つかもしれない。周囲から理解されないことへの反発心と、そこへどうにか自分を馴染ませようと努力した結果備わった能力。

「いや、マジで。俺もあっちのでかいのも、旅行しに来たようなもんだし」
「……まぁ、そうだな。こよみちゃん、私たちにこの土地のことを教えてくれないか?」
「そうそう。そんで、俺らも教えるからさ。きみにしか見えてない、変な生き物のこととか」

夏油と五条の言葉を聞いた瞬間、こよみの瞳がきらりと光った。
雲と、再び湧き出した呪霊の隙間から差した一筋の太陽光が、こよみの両目の縁の涙を反射して、閃光のように輝いたのだった。
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