聞き間違い | 20


京都校の事務員から、数ページにわたる報告書が、メールで届いた。
メールに添付された『百鬼夜行報告書(京都)』というタイトルのファイルをダウンロードし、その場に居合わせた教員・補助監督数名に書面で手渡す。
百鬼夜行は、前日――12月24日――の日中〜夜に渡って呪霊を放つ敵方の作戦であり、こちらの使命は迎撃及び呪霊祓除。
報告書は速報の様相といった形で、ひとまずは当日の状況がまとめられているのみだった。

「個人の戦績なんかは、まとめている最中のようです」
「それはそうだろうね。まだ参加した人間の報告書も集まりきってはいないだろう。怪我人もいるだろうし」

こよみの背後に立った家入が、書類を受け取りながらぼやく。
目の下のクマが少々濃くなったように感じ、こよみは家入の顔を見上げながらゆるく眉尻を下げる。

「今朝、僕も歌姫と電話して聞いたよ。一級呪霊も結構な数いたそうだ」

五条が言う。
こよみは血の気が引く感覚がした。
夏油傑の術式『呪霊操術』について、五条から聞いたことがある。
夏油と対象の呪霊の間に大きな力量の差があり、かつ、夏油が高位であれば、支配下に置くのは容易い。
そうでない場合は相手が降伏するか、主従関係が成立するかどうかが重要である。
夏油が特級の呪詛師であることはこよみも知るところであるが、特級の力量は数値化不能の青天井だ。
彼が高専を離反してからのことは知らない。どれほど力をつけているのかも。
一級を相当数従えている彼は、少なくとも一級以下の呪術師と相まみえるなら、術式なしでも善戦するのだろう。それが、こよみには非常に恐ろしかった。

「人的被害……昨日時点での死亡者数か。今後増えそうだ。あまりあてにならないね」
「……東京校より、数字的には少ないですね」
「奴らの本当の狙いは憂太だったんだ。京都は大規模なデコイで、ミスリード、ブラフ」

五条が書類を手に、こよみと家入の隣に立った。

「鏖殺の命令に従う以外は好き勝手に動く呪霊の相手をするだけなら、まだ戦況は良かったんじゃない」

こよみは唇を噛み、声のない溜め息を細く吐き出した。
近しい人間の死や大怪我を目の当たりにして、『良かった』などとは到底考えられそうもなかった。
それはもうずっと、長い間、学生時代から変わらない思いだ。
一般企業に就職し、一般社会に適合し――そんな経験を経ても尚、どうして自分は、これほどまでに厳しく残酷な世界に身を置こうとしたのか。
こよみの胸の内には、『辞めたい』という感情に埋め尽くされるような感覚はない。

「鬼怒川さん。昨夜、私に直接、七海さんから電話がありました」

こよみの肩を後ろから指で叩き、振り返った彼女に、伊地知がそう声を掛けた。

「えっ……本当ですか」
「はい。人的被害のところにもお名前がないでしょう。ご無事です」

言われて、こよみはハッとしたように書類に視線を戻す。
判明している死亡者の一覧には、名前と役職が列挙されている。数自体は非常に少ないが、重傷者もいるはずである。家入の言う通り、これから増えていくのだろう。
痛ましい気持ちは消えないが、それでも、前を向くしかない。
生きている人間と、残された人間のために、補助監督は存在している。

「…………ご無事で、何よりです……」

小さな声で呟いたこよみの声を聞き届けた伊地知が、彼女の隣でゆるく微笑む。

「ぜひ、ご本人に伝えてあげてください。十五時頃、高専に到着される予定だそうですよ」
「はい。……ありがとうございます」

死亡者リストに、こよみの知る名前はない。
だが、そこに添えられた『補助監督』等の表記を見るにつけ、胸の中にこみ上げる悲しい痛みがある。
それらを指でなぞり、喉の奥にせりあがる切ない熱を隠しきれずにこよみは目を閉じ、書類を抱きしめて俯く。

「えっ、こよみなんで泣いてんの?」

五条が軽い調子で尋ねるのにも、こよみは構っていられなかった。
今日だけは、今だけは、許してほしいと思った。
この痛みにも、いつかきちんと慣れる。慣れてしまう。ひとの命の重さを、忘れてしまう日が来る。

涙が出るのは、痛みを覚えている証だ。



* * *



時刻は午後二時半。
こよみは厚手のカーディガンを身に着け、大きな竹箒を両手に持ち、守衛室の前にいた。
いる、というよりは、行ったり来たりと落ち着きなく動き回っていた。
守衛室の窓から頬杖をつき、こよみの挙動を見つめる中年の校務員が、少々呆れたようにからからと笑う。

「鬼怒川さん。せっかく集めた落ち葉が飛んでいっちゃうよ」
「あっ、ごめんなさい。ゴミ袋ください」

こよみとは顔見知りの校務員のおじさんでもある島田は、はいはいと気安げに返事をして、ゴミ袋を窓越しにこよみに手渡してやる。

「ありがとうございます、島田さん」
「いや、人を待ってるなら、守衛室に入っていればいいだろ?あんまり俺の仕事を取らないでくれ」

苦笑いを浮かべるその顔を見つめ、こよみは目をまるくする。
守衛室から校門までの数十メートルは、ほんの数分前まで乾燥した落ち葉で埋め尽くされていた。
それが今は、こよみの掃き掃除の成果でもある、白い石畳が顔を出している。

「サボってるわけにもいかないんで、今日は大目に見てください」
「こんだけ働いてくれたのに、文句のつけようもないよ。ありがとう」
「とんでもない!むしろ、いつもお掃除ありがとうございます」

ゴミ袋を守衛室の裏側に置き、こよみは簡素な扉を開けた。
島田はこよみの手から竹箒と塵取りを受け取ると、ストーブの前の丸椅子を親指で示す。
こよみはかぶりを振ってから、また寒空の下へ繰り出した。

「お気遣いありがとうございます。大丈夫です。お掃除してたら身体あったまっちゃって」
「そうかぁ?顔が真っ赤じゃないか」
「あー、えっと、これは昨日、散々泣いたからで」

こよみは照れたように、空っぽの右手を頬の辺りにもっていく。
鼻もまぶたも、誰から見てもわかる程度には赤く、鈍く重たい感覚があった。
肌を刺すように冷たい冬の風も、今のこよみには熱を冷ますのに心地が良かった。
とはいえ、鼻まで覆い隠すためのスヌードを持ってくるべきだったと、白い息が白い空に立ち昇るのを見ながら、こよみは後悔していた。
事務室のこよみのデスクの下に、お気に入りのそれは、物も言わずひっそりと置かれている。

「で、誰を待ってるって言ったっけ」
「あ、言ってなかったですっけ。七海さんです」
「あぁ、七海くんか。若いのにいい男だよね、あの子は」

なんの邪推も揶揄いもない声音で、島田は言った。

「そうですよね……」

こよみはゆるく微笑みながらそう応えた。

「顔を合わせたら必ず挨拶をしてくれる」
「はい。ご丁寧な方ですよね」
「七海くんに同伴する補助監督はみんな、いつも仕事しやすそうにしてるよ」
「誰にでもお優しいですもんね」
「最近、よく同じ紙袋を抱えてる。なんか洒落た字が書いてあるなぁ」
「それ、たぶんですけど、お気に入りのパン屋さんですね」

こよみがくすくすと笑う横顔を、島田は微笑ましく眺めていた。

「七海くんのこと、好きなんだなぁ、きみは」
「……みんな好きでしょう?七海さんは、すてきですから」

守衛室の外側、面会簿の置かれたカウンターで、内緒話をするように、二人は笑い合った。
そのほんの数秒後、高専の校門――最も内側に位置する鳥居の下に、人影がひとつ現れた。
真っ直ぐに伸びる背筋、清潔感のある淡いグレーのジャケット。こよみが待ち焦がれていた人物。

「あっ」
「うん?どうした?」
「七海さん、帰ってきました!怪我もなさそう」

ぱっと身体を起こしたこよみが、弾む声でそう言った。
七海はこよみの姿に気付くと、僅かに驚いたように、片手でサングラスを外した。
こよみは高い位置で手を振って、七海の傍へ駆け出していく。一歩、また一歩。

「なんだ。誰よりも先に出迎えるほど、大好きなんじゃないか」

島田が、苦笑しながらぼやいた。こよみの背中が、ぐんぐんと遠ざかっていく。
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