聞き間違い | 21


「寒いでしょう。こんなところで何を」

こよみがあと三歩という距離で立ち止まったのを見計らい、七海が口を開いた。
そこに呆れの感情はない。ただ単純に、七海は疑問を口にしたに過ぎなかった。

「……七海さんがそろそろ戻るって思ったら落ち着かなくって、待っていました。すみません」
「いつから?ずっと外で?」
「ごめんなさい」
「答えになっていませんよ」
「言わなきゃダメですか?」
「ええ。答えによっては職務怠慢です」
「厳しい……。三十分前から、落ち葉を掃き掃除しながら。待っていました」

七海は歩みを進めない。
こよみは正面から向き合ったまま、これは答えるまで逃がしてはもらえないと判断し、ぼそぼそと白状することとなった。

「……まぁ、仕事をしていたなら、いいでしょう」

七海が小さなため息と共に、そう言葉を漏らす。
呆れながらも、その声音は優しかった。こよみは顔を上げて、七海の相貌を見上げた。

「ご無事でよかったです。おかえりなさい」

鼻の天辺も、目の周りも真っ赤なこよみの顔を、七海は数度瞬きをしながら見つめた。
そして、おもむろに周囲を見回す。石畳を覆い隠す落ち葉が減っている以外は、特に代わり映えのない、いつもの平和な風景だった。

「……少しだけ話しますか。歩きながら」
「え?」
「あなたさえよければ。そっちではなく、こちらへ」

七海が踵を返す。
彼の身体が向かう先は、守衛室の方向ではなく、ハリボテの寺社仏閣を後目に続く、高専の敷地内の細道だ。
こよみはどきどきと高鳴る心臓を抱えながら、無言で七海の隣に並んだ。
七海は一瞬だけこよみを見た後、狭い歩幅で歩き始めた。



* * *



“京都はどうでしたか?”
その質問を口に出したいと思いながら、こよみは迷っていた。
言葉だけ聞けば、休日に京都旅行をした人に尋ねる内容そのものだ。
風情があったとか、古都の雰囲気が良かったとか、料理がおいしかったとか。そういった良い感想が返ってくる質問であれば、誰もが迷わず口にするだろう。
だが七海は仕事で京都に赴いている。
大規模な呪霊テロを迎え撃つために京都に派遣された呪術師の一人として。

(き、訊けない……)

返ってくる言葉の想像もつかないばかりか、上手なリアクションができる自信がない。
こよみは無言で、歩幅を合わせてくれる七海の横を、とぼとぼと歩き続けた。

「…………あなたも、無事でよかったです」

先に口を開いたのは七海だった。

「え?」
「伊地知くんから、それから五条さんからもある程度聞きました。夏油さんが高専に来たと」
「あっ……ああ、そうですね」

こよみの声は存外呑気なもので、七海は立ち止まって彼女の顔を見下ろす。
呆れる様子はないが、どこか不服な色を宿していた。

「怖くはなかったのですか」
「……、そういうことを考える余裕がなくて。ずっと、運ばれてくる人たちの治療に当たる家入さんの補助をしていました」
「……それは、重要な役割を果たされていたんですね」

七海が、思いもよらない言葉を聞いたように目をまるくしている。
こよみは七海のその反応の方が余程意外に感じ、場を和ませるかのように、ゆるく表情を崩した。

「現場で亡くなった方も、治療が間に会わず亡くなった方もいました。わたしの目の前で。……怖かったです。でも、現場で見るのとは違いますね」
「……と言うと?」
「ああ殺される、痛いだろうな……っていう、そういう生々しさとは、隔絶されていました。隣にいた家入さんの存在も、大きかったかも」
「…………」
「知っている方がたくさんいたら、また感じることは違うかもしれません。でも、わたしがやることは変わりません」
「……補助監督の、仕事ですか」
「はい。記録、連絡、弔問、今後のための戦績のリストアップ……。やることが多くって、目が回りそうです」

こよみの腫れた赤い目が、七海の目には痛々しく映る。
それでもその奥の光は、逃げを打つ様子もなく、道に迷う気配もない。
生きてそこに立つ一人の呪術師である七海を、ただまっすぐに見つめていた。

「亡くなった方には敬意を。遺された方には、温情と思い出を。生きている方には……笑顔と感謝を」
「……はい」
「これ、わたしのオリジナルなんですけど、合っていますか?」
「ええ。おそらく」
「良かった。……生きている人をサポートできることは幸せですね。みんな、一瞬だけでもわたしに笑ってくれる。それが嬉しいんです」

こよみが控えめに足を一歩前に踏み出したので、七海も続いた。
その表情は吹っ切れたように晴れやかだ。

こよみは最初から、七海一人だけに拘泥していたわけではなかった。
特別な存在として、気がかりではある。それは事実だ。
だが、と七海は思う。
真っ赤に腫れ上がるこよみのまぶたも、疲れの滲む顔色も、広く平等に、彼女が守りたい人々や場所に降り注いだ証だ。
かつて、自らもそうだった。心に芽生えたのは純粋な、自分を必要とする誰かのために生きたいという思い。
非術師であり、大勢の人々であり、仲間であり、その中の一人がこよみだった。

だから、手を放した。お別れを伝えた。
どこか遠く、知らない土地で、お互いに想い合うことを、胸の内で相手に誓った。
言葉にはしない。
大切だから、邪魔をしないように決めた。

七年の時を経て、もう一度その道が交差した。
七海とこよみの間にあったのは、それだけのことだった。

迷って、考えて、気付いて、決めて、その繰り返しの果てに、再び出会った。

「……死亡者リストを見ました。東京も京都も」
「そうですか」
「補助監督も大勢亡くなったんですね」
「はい」
「七海さん、おっしゃいましたよね。補助監督だって危険にさらされる場面はあるって」

七海は再度、はいと返事をする。

「……今回のことで、よく、わかりました。その上で、七海さんの言葉の重みも、ちょっとだけ……」
「…………」
「わたしの身の危険を案じてもらって、嬉しいです。後ろめたくなんて思わないでください。それは七海さんが優しいからです」

こよみは迷いなく笑う。
踏みつけた落ち葉が音を立てた。彼女の吐く息が白いことが目について寒々しい。
早く建物内に戻るべきだと七海の理性が警告するが、目を逸らすことができなかった。

「……わたしは、その優しさだけで、十分です。どんな立場でも、七海さんの隣にいられるだけで、いいから」

交わってしまった道を、振り返ることがある。
どうして。
今からでも引き返せる。
ここは危険だから。
その全ての言葉を、二人は飲み込んでしまう。一緒にいられる今を、肯定したかった。

「鬼怒川さん。私からも一つだけ……伝えておきます」

七海が口を開いた。こよみははいと答えて、笑顔のままその相貌を見上げた。

「夏油さんが高専を強襲したと聞いた時、最初に思い浮かんだのは、あなただった」
「……、…………」
「肝が冷えました。無事でいてほしいと直感した。伊地知くんに報告の電話をした際に、あなたの安否を聞きました」
「……そう、だったんですか」

七海の言葉が重ねられる度に、こよみの心臓が高鳴った。

「あなたは強い。多くの人間の無事を願い、死を悼み、現実を知って尚、前を向いた。偉そうに言うつもりはありませんが、正直……見直しました」
「……七海さん、わたしの仕事は、全部これからのことですよ。それを言うなら、七海さんは今までに、多くの人を守ってきたでしょう?」
「あなたは今が一歩目なのですから、それでいいんですよ。私が伝えたいのは、あなたが既にしてきたことです」
「……はい……」

「出迎えていただき、笑顔を見せていただき、ありがとうございます。改めて、一緒に仕事ができることを、嬉しく思います」

こよみの唇が震えた。
七海が、僅かに頬を緩めて、ほんの少しだけ微笑んだ。

「これからも、よろしくお願いします」
「……はい、……はい……っ!光栄、です」
「……何もかもこれからだっていうのに、泣かないでください。余計に腫れてしまいますよ」

七海の指が、こよみの頬にふれた。
熱い体温が、小さな小さなその場所でだけ混じり合う。
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