聞き間違い | 19


――看護師の資格、取らないとまずいかも。

目の前も頭の中もグルグルと回るような感覚の中、こよみはそんなことを考えていた。
まるで悪夢のような時間だった。これが現実であるなら、一人でも多くの人に助かってほしいと思った。
幸か不幸か、これは紛うことなき現実である。それを忘れないようにするための、一種の逃避行動だった。わたし、これが終わったら看護師の専門学校に行かないと――そんな感じの。

「そんなの別にいーよ、今だけだし。AED使ったり救急車呼んだり、救命活動に免許なんか要らないでしょ」

こよみのぼやきに、家入はあっけらかんとそう答えたのだった。

家入の使用する反転術式の処置は、とてもこよみにはできない芸当、高等技術である。
いくら呪いの被害への処置だとして、反転術式が呪術のひとつだとしても、家入硝子自身は正真正銘、医師免許を所持している医師なのだ。
続々と運ばれてくる怪我人を一瞥し、家入は瞬時に目視のみでトリアージを行い、その場で反転術式を使って治癒。
呪いによって受けた傷はそれで塞がるか、欠損部分があれば蘇生が可能ではある。
だが、それですぐに患者が目を覚ますわけではないし、化膿した傷口を放置しては呪いと無関係の感染症に侵される可能性もある。
そもそも、限られたスペース、一台しかない診療台に対してとっくにキャパオーバーの患者数。
家入一人で彼らを運ぶのはとても限界がある。なかなかどうして、こよみは小さな身体なりによく働いた。

「これがAEDとか119番に電話することと同等なわけないですよ!!」
「まだまだ元気そうだね鬼怒川、結構、見込みあると思うよ」
「なんのですか!?いつでもぶっ倒れそうですけど!?」

家入の処置済みの、気を失ったままの大柄な補助監督男性を背中に背負ってベッドに運びながら、こよみがぎゃんぎゃんと叫んだ。
こよみは、いわゆるランナーズハイと同様の状況であった。血が苦手だとか言っていられる状況ではないから、ヤケクソを起こしている。

「鬼怒川、看護師の資格取って医務室勤務にならない?」
「さっき“資格なんて別にいーよ”っておっしゃってましたよね?」

こよみの返答に、家入がにやりと微笑む。何を考えているのか、こよみにはよくわからなかった。
処置を待つ患者は徐々に減り、意識もあり軽傷の者が数人残るだけになった頃、こよみはようやく家入から「お疲れ、あとはもういいよ」と言い渡されたのだった。

こよみはぱっと顔を輝かせると、すぐ戻りますと言って医務室を勢いよく飛び出していった。
家入がその背中を見つめ一瞬首を捻った、僅か十分後。
こよみがペットボトル入りのお茶を大量に買い込み、それらの入った袋を両手に下げて、医務室に戻ってきたのだった。

「お疲れさまです、皆さん。本当にご無事で良かったです」

散々泣いたせいで真っ赤に腫れぼったくなった両目で、こよみは笑顔を浮かべて、明るい声で全員にそう宣言した。
供給元は自動販売機だ。高専入口付近の自販機置き場、三つのうち二つの自販機の「ホットの緑茶」「ホットのほうじ茶」を、こよみは買占めによって空っぽにした。
比較的軽傷で、医務室の入口付近のベンチで治療の順番を待つ顔見知りの補助監督たち一人ひとりに、こよみはお疲れさまですと声をかけ、お茶を配って回ったのだった。
そうして、最後の一人に、未だ目を覚まさずベッドに横たわる患者たちの分のお茶を袋ごと手渡し、「これはあの方たちに……お願いします」と言って頭を下げた。

「家入さんも、お茶どうぞ!」
「ちょうど飲み物が欲しかったんだ、ありがとう。そこに置いてくれ」

こよみは家入の指示した場所にボトルを置き、ふうと細く息を吐いた。
ひと段落したのだと感じると、疲労感が身体に戻ってくるのだから、奇妙なものだと思う。

「……さて、この後はきみの仕事だ。亡くなった関係者の記録を、後でまとめて渡す。そこから先は伊地知に聞くといい」

家入がこよみの背中に声をかけた。こよみは一瞬動きを止めた後、彼女の顔を振り返ると、はいと返事をする。

「今日は助かったよ。私の補助役の枠は空けておくよ」
「看護師ですか?」
「そんな大層な役割じゃなくてもいい。私は、医療従事者は直接手を施せる機会がある。補助監督はそうはいかないこともある」

こよみは押し黙り、じっと家入の顔を見つめ返した。家入は穏やかに微笑み返す。

「正直見直したよ、鬼怒川。やったことがないことに挑戦できるのは、大したものだ。ありがとう」
「……それは家入さんの、的確な指示があったからですよ」
「はは。まぁ、それはそうかもね。だけど、お茶は指示してない。その笑顔だって」

プラスチック素材の薄手の手袋を外し、家入はボトルを手に取った。
パキッと軽い音を立てて蓋が開く。その手元を見つめるこよみに、ひらりと手を振る。

「少しの時間だけど、一緒に働けてよかったよ。また今度飲みに誘うよ」

チェアから身体を起こした家入は、ボトルを置いてその場に立ち上がった。
目を覚ました患者の元へ歩き進むと、こよみを振り返り、再度手を振って見せる。
もう出ていけという合図だろう。こよみは頭を下げると、医務室の出入口に向かっていった。



* * *



事務室の扉を開けると、未だ誰も戻ってはいなかった。
こよみは自身のデスクまで歩いていくと、タブレット端末を手に取った。
連絡事項は特に入っていない。溜め息を吐いて、タブレットを元の位置に戻そうとすると、音を立ててチャットに通知が入った。

「わわっ」

慌てて両手に持ち直すと、パスコードを入れて再度ホーム画面を表示する。
高専の専用チャットに、一件の未読メッセージ。送信者は伊地知だった。

『作戦終了につき、これから高専へ戻ります。五条さんと一年生四名は一緒にいるようです。取り急ぎご報告まで』

がたんと音を立てて、こよみの身体がデスクと揃いの椅子に沈み込む。
一気に、身体の力が抜けてしまった。伊地知が無事であること。人的被害は報告次第ではあるし、それによっては、また自分は泣いてしまうかもしれない。
それでも、ひとまず、待機組であるこよみへ、近しい人間の無事を報せようと考えてくれた、伊地知の気遣いが嬉しかった。
あたたかいお茶を、今度は急須で淹れて出してあげたい。そう思い、こよみは席を立った。
同時に、がらりと前触れなく事務室の引き戸が開く。こよみは気取られそちらに視線を向けた。

「あ、なんだ、こよみだけ?」
「……あ……」
「ま、そりゃそうか。怪我人は硝子んとこだもんね。きみたちは行かなくていいの?」

緊張感のない声音でぼやくのは五条だった。
体格の良い彼の後ろからも、姿は見えないものの、賑やかな声がする。

「さっきすれ違った補助監督が、医務室は大渋滞だって言ってたぞ」
「けど憂太はさっさと行ってこい、私らの前じゃ強がるからな」
「ツナマヨ」
「後でちゃんと行くから。真希さんと狗巻くんも一緒だよ」
「ああ、パンダは学長のところだもんな。学長、いつ戻るんだろうな」
「それを訊くためにも先に事務室に……あっ、鬼怒川さん」

こよみの名を呼んだのは乙骨だった。こよみの顔を見てへらりと微笑む。
つられて、彼の後ろから顔を覗かせた三つの影が、こよみの姿を見てそれぞれ反応をする。

「あ、こよみ。呪具の申請書、出してほしいんだけど。あと、すぐ使える眼鏡くれ」

真希が手を挙げてこよみに請う。
身に纏う衣服は彼女のものと思しき血液で真っ赤に染まっている。

「明太子……、高菜?」

狗巻がこよみの隣に並び、ひょっこりと彼女の顔を覗き込んで言う。
優しく、心配げな表情だった。その声は掠れて痛々しい色を帯びている。

「こよみ、まさみちがいつ戻るか知りたい。連絡入ってるか?」

片腕から綿が飛び出した状態のパンダが、狗巻と反対側からこよみに声を掛けた。

「鬼怒川さん、あのーっ……こんな時にアレなんですけど、制服の注文票をください。明日以降でいいので」
「いや、ほんとにそれはいつでもいいよね憂太」
「だって、黒い制服頼めって言ったの先生でしょ。僕すぐ忘れちゃうから、覚えてるうちにと思って……」

眉尻を下げて、呑気に微笑む乙骨が、申し訳なさそうな控えめな調子で、こよみにそう言った。
状況にそぐわない、至って日常的なその依頼事項に、思わず五条がツッコミを入れた。乙骨が振り返って小さな反抗心を声にする。

「すじこ!」
「え、なに?って、わあっ!?どうしたんですか!?」

目をまるくした狗巻が急に声を上げ、呼ばれるように再度こよみと向き合うように振り返った乙骨が、驚いてそう言った。
ぼたぼたと大粒の涙が、こよみの両目から溢れ落ちていた。こよみの足元に、ぱたぱたと音を立てて零れていく。

「なんだよ、急に泣くなよ」
「目腫れちまうぞ。って、もうガッツリ腫れてるな」

ちっとも似ていない四人が、珍しく揃いの困ったような表情で、こよみの周囲を取り囲む。
こよみは正面に立った真希と、その隣にいた狗巻の身体に、目一杯腕を伸ばして抱き着いた。

「真希ちゃん。呪力込めた眼鏡ならいくらでもあるからね」
「お……おう」
「狗巻くん。喉のお薬、買い置きしてあるよ。でもその前に、一緒に医務室」
「……しゃけ」

二人から離れたこよみが、順繰りにその顔を見上げる。
真希と狗巻が、微笑みながら首肯した。

「パンダくん、学長からはまだ連絡がないの。でも、伊地知さんがもうすぐ戻るから、きっと一緒だと思う」
「そーか。わかった」
「大変だったね。痛かったね」
「痛くはないけどな。憂太が治してくれようとしたから」

パンダの腕から漏れ出る綿についた泥を、こよみが指で触れ摘まみ取る。
パンダの視線は、乙骨に向いていた。こよみはその視線につられて彼を見遣る。

「……乙骨くん。制服のサイズは履歴を見ればわかるから、申請書は今回はいいよ」
「本当ですか?ありがとうございます」
「制服、破けちゃってるね。痛いところは?」
「あ、ええと。まぁ、あちこち……」

こよみは一歩、乙骨に近づくと、苦笑を浮かべる彼の制服の袖にゆるりと触れた。
逞しく、非常に強大な呪力を感じる。彼が戦い、夏油を退けたのだろう。
特級被呪者、否、今の彼は特級呪術師。顔や露出した腕に残る痛々しい戦闘痕は、命懸けの経験を雄弁に物語っている。
本当は力いっぱい抱き締めたかった。だが、この身体のどこに大きな傷があるのか、こよみには判断がつかない。
痛がりながら笑う彼の表情が、涙の向こうに浮かんだような気がして、こよみは両手で、乙骨の手に触れるだけに留めることにした。

「……みんな……無事でよかった。本当に、よかったっ……」

乙骨が困ったように、周囲の優しい友人と頼もしい教師の顔を見回す。
やがて、無言のまま、あたたかい手がこよみの手を握り返した。

「ただいま、それとありがとう、鬼怒川さん」
「おかえりなさい、みんな。五条さんも、おかえりなさい」
「うん。ただいま、こよみ」

五条の声が、いつもより数段優しかった。
潤んだ視界の向こう側に、五人の笑顔が花のように、静かに浮かんだ。
prevnext

≪back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -