聞き間違い | 18


12月24日、百鬼夜行当日。
日没を待たずに、呪術高専東京校全域に、帳が下りた。

「なっ、なんで……!?」

事務室で一人きり、デスクに向かっていたこよみは、あっという間に暗闇に包まれた窓の外に視線を向け、その場に立ち上がった。
音を立てて、チェアが背後に吹っ飛ぶ。そんな小さな事に構っていられる心地ではなかった。
ひどく強大な呪力の残穢を、建物の外に感じる。

(一級、ううん、まさか特級……!?)

こよみはデスクの書類を引っ掴み、素早く内容を確認する。
作戦名、百鬼夜行。
12月24日――日没と同時に決行。
新宿、京都への呪霊の強襲。目的は非術師の鏖殺。戦力は各地へおよそ千体。
これらは全て、敵陣営――夏油傑より宣言された内容だ。当然、ミスリードの可能性も視野に入れた上で各地での作戦を考えている。

(配置、これだ。……予定通りなら、学校には、乙骨くんと真希ちゃんが……)

等級の高い呪術師や現場担当の補助監督は全員、郊外へ配属となっている。
ただでさえ人手不足の現状、高専に残っているのはせいぜい戦力外の者のみだ。
真希なら並の呪術師や呪霊相手であれば善戦するだろうが、特級ともなると話は変わってくる。
もし万が一、夏油の狙いが高専にあり、この場所に来ているとしたら。

「鬼怒川」

漆黒のインクをぶちまけたような空を窓越しに見上げ、こよみは校内の廊下を駆けていた。
自身の名を呼ぶ声に、ぴたりと足を止める。女性の声だった。

「…………家入さん……」
「どこへ行くつもり?きみの仕事はそっちにはないはずだよ」

家入硝子は、事務室の扉の前からこよみを呼び止め、そう言葉を続けた。
靴音を鳴らしながら歩み寄ってくる家入の顔を見上げたまま、こよみは肩を上下させ、浅い呼吸を繰り返していた。

「……じっとしていられなくて」
「子どもじゃないんだ。今きみがすべきことは、自分の仕事をすることだ」
「今、この高専にいて、事務室に仕事があるっていうんですか……?」
「少なくとも、きみが外に出てできることはないよ。無駄死には損失だ、だったらせめてじっとしているんだね」

直後、こよみの唇が震えた。家入が黙ってその表情を見下ろしている。

「……外に、ここに来ているのは、夏油さんですか?」
「ああ、そうだよ。……そうか、報告が来ないのは当然だね」

一呼吸置いて、合点がいったような表情の家入が続ける。

「正面玄関の警備員と補助監督数名が殺された。間違いなく夏油の仕業だろうね」
「……!」
「報告できる状況の者がいないんだ、知らなくても無理はない」

ぼたぼたと大粒の涙が、こよみの頬を伝って足元に滴り落ちた。
それを追いかけるように、こよみの全身から力が抜けた。膝から頽れ、冷たい廊下に両手をついた。

「……そんな」

――泣いている場合じゃない。
それが頭でわかっていても、こよみには“今、自分がすべきこと”がわからないままだった。
家入はこよみのすぐ正面にしゃがみ込むと、至近距離でこよみの両目をまっすぐ覗き込んだ。

「こんなことに慣れる必要はない。だけど、泣いた後は立ち上がらないといけないよ」
「…………」
「確かに、今は現場もパニック状態で、とっても報告なんか上がってこないだろうね。だから、鬼怒川。私を手伝ってくれないか?」

その言葉に応えるように、こよみが顔を上げた。
血が集まった両目が赤く、だが確かに、きらりとその奥の一点が輝いている。

「これから私は忙しくなる。怪我人がわんさか運ばれて来るだろうからね」
「……怪我人?」
「そう。私は前線で敵を倒すことができないけど、それはここに、高専の医務室に、私の仕事があるからだ」

家入が真剣な面持ちで、それでも穏やかに頬を緩めて、僅かに顔を傾げる。
「洋服が汚れるよ、ほら立ちな」と言いながら、こよみの両手を取ってその場に揃って立ち上がる。
家入の手のひらはあたたかかった。廊下の硬質で冷たい温度が侵食したこよみの手が、じわりと解かされていく。

「きみだって同じ。これからたくさんの怪我人や惨たらしい死体やらを迎えることになる」
「……わたしが?」
「ああそうだ。しんどいだろうけど踏ん張りなよ。それが補助監督の仕事だ」

こよみは音を立てて鼻をすする。
涙が喉の奥を流れていく味がした。

補助監督になって、たったの二か月足らず。自分ができないことも含めて、その仕事の大方を理解したと思い込んでいた。
こよみなりに、様々な立場の同僚と、交流を重ねてきたつもりだった。呪術界を知り、補助監督という役割より深く理解するために。
報告書を上げる役割を引き受け、毎日両手では足りないほどに集まってくるそれらにくまなく目を通しながら、能動的に学び取ったつもりだった。
もちろん、それらは決して徒労に終わることはないだろう。
だが、周囲の優しさに覆い隠されてきた、最も醜悪で目を背けたくなるような現実が、一歩超えた先にはある。
それを知らなければ、こよみの『行ってらっしゃい』にも『おかえりなさい』にも、本当の意味での熱が宿ることはないのかもしれない。

こよみは、同期を喪った経験から、何もかもを理解をしたつもりで、ずっと目を背けていた。
あの日の身体を引き裂かれるような痛みを忘れたわけではない。
だが、同じレベルで思い出すことは、長年が経過した今では、もう不可能だ。
誰かの死を悲しく思う気持ちを、全く同じ経験として処理することはできない。
上回ることも下回ることもなく、それを決めることも、何かに当てはめようと考えることにも、意味などない。

それでも確かに、こよみの胸は痛む。涙が流れる。
きっとこれから、出会ったことのない人にも大切な人にも等しく訪れ、こよみの前に降り注ぐ『喪失』の一つひとつが、こよみの心をぐちゃぐちゃに痛めつけるだろう。
目を背けずに向き合うことが、補助監督の――こよみの仕事だ。

「……家入さんも、最初は、泣いたりしたんですか?」
「ん?そんなの、当たり前だろ。きっと五条も、伊地知も、もしかしたら夏油も。七海だってそうだよ」
「じゃあ……、立ち上がったんですね。皆さんも」

家入が医務室へ向かう廊下を歩み進みながら、後ろをついてくるこよみを振り返った。

「きっとできるさ、きみにも、ね」

こよみの涙は、いつの間にか止まっていた。
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