聞き間違い | 17


変えられぬ現実を前にして、できることは準備だけだ。
こよみは戦闘員として現地に行くことはできない。
自分の無力を嘆いても仕方がないことはわかっている。

「あれ?五条先生。鬼怒川さんも」

突っ立っていたこよみの固まった肩が、その声ではっと解される。
こよみが顔を上げ声の主を見たのと、五条が口角を釣り上げてひらひらと手を振ったのは同時だった。

「や、憂太。おはよう」
「おはようございます。何を飲んでるんですか?」

こよみと五条に声を掛けたのは、乙骨憂太だった。
乙骨がこよみの近くまで歩いてくると、人懐っこく微笑んで、こよみの手の中のボトルを見つめる。

「おはよう、乙骨くん。ホットカルピスだよ」
「ホットカルピス?ああ、売ってますよね。僕、買ったことないです」
「嘘でしょ憂太。買ってあげるから飲みな!」
「えっ?なんで鬼怒川さんまでそんな『信じられない』みたいな顔するんですか!?」

五条が一気にテンションを上げ、自販機に躊躇なく小銭を投入する。
こよみも爛々と輝く瞳で、乙骨の両目を覗き込んだ。

「もったいないよ!美味しいんだから!」
「ええ……?わかりました、お二人がそう言うならチャレンジします」

五条が買ったホットカルピスを、こよみが手早く引っ掴んだ。
ほかほかと熱を発するボトルを乙骨の手の中に押し込むと、押し付けられた形の乙骨は存外嬉しそうに笑っていた。

「……憂太はほんと良い子だねえ」
「五条さんは生徒にぞんざいに扱われるのに慣れすぎですよ……」

しみじみと語る五条が、片手で目元の包帯を押さえて見せた。
だがこよみも、乙骨がいい意味で呪術界に染まっていない“良い子”なのは同意するところだ。

「そういえば、憂太もこよみも、百鬼夜行当日は高専で待機だよね」
「はい」
「こよみ、初めての大きな仕事だね。かわいい生徒たちのこと、しっかり監督よろしく」
「……はい」

乙骨は僅かに首を傾げつつ、手の中のボトルを開封した。
こよみはこの瞬間まで、七海のことで頭がいっぱいだったが、守るべき生徒たちもいる。
むしろ、そちらが最重要事項、こよみの役割であり、責任であり、仕事だ。不安ばかりでは駄目なのだ。

「あ。……甘くて美味しいですね、ホットカルピス」
「でしょ?憂太、あんまり食べ物とか冒険しないタイプ?」
「そうですね……確かに、鬼怒川さんの言う通り、チャレンジしないのって、もったいないかもしれないですね」

乙骨の感想に、五条が楽しそうに応対するのを、こよみは微笑みながら見ていた。

「僕らホットカルピス教の信者だからさ、憂太もみんなにおすすめよろしく」
「ええ?もう入信なんですか、僕」

乙骨が苦笑する。たじたじになりながらも、楽しそうだ。
呪術界という新しい世界を知ったのは、彼もまたそうであると聞く。こよみはひっそりと、乙骨の言葉を反芻していた。
そうだ。チャレンジしないのはもったいない。



「自分の仕事を思い出しました。すみません、甘いことばかり言って」

教室に向かった乙骨の背中に手を振りながら、隣に並ぶ五条に、こよみはそんな言葉で胸の内を明かした。五条はこよみを見下ろして言う。

「心配するのは良いことだよ。信じて待つこともね」
「はい。おこがましいですけど……七海さんも、心配することは許してくれました」
「あはは、そんな話したの?そんなの七海の許可なんかいらないでしょ」
「……それだけ、わたし、七海さんに対しては逃げ腰なんです。情けないです」
「それって、それだけ大切なんでしょ。そういう自分のことも認めてあげなよ、もう少しさ」
「……ありがとうございます」

「こよみは、信じてあげな。それだけでも七海の力になるよ」

ぬるくなったボトルを握りしめて、こよみは隣の五条の顔を見上げた。

「五条さんも、当日は気を付けてくださいね。……心配はしてないですけど」

五条が包帯の下の両眼をこよみに向ける。
こよみは穏やかに笑んでいた。

「それって、誰のための言葉?呪術界の未来?生徒たち?それとも、こよみ自身?」
「意地悪ですね。五条さんへの純粋なエールのつもりです」
「気を悪くした?ごめんね、僕ってば性格悪いからさ」
「別に平気です。わたしたち、同じホットカルピス教の仲じゃないですか」

こよみの眼差しが真剣だったので、五条はふっと息をひとつ吐いて、肩を竦めた。

「僕のことも心配してくれたっていいんだよ、こよみ」
「そうですね……当日にお腹壊さないかとか、遅刻しないかとかは心配です」
「うわ、そっち方面はリアルだから、この話やめよう」
「あはは」

「僕は、慣れなくていいと思う。こよみのペースでいいよ。僕も、きっと七海も、そのほうが嬉しい」

五条は頭を後ろに向け、自販機の横のリサイクルボックスに、空のボトルを放り込んでいた。
その横顔を、こよみは依然として見上げていた。ゆるく弧を描く唇が、五条がどこか上機嫌なことを教えてくれた。

「あと、ありがと」
「はい」

等級の高い呪術師は、皆、素直じゃないような気がする。こよみはそう考える。
七海は「尊敬されることはあっても心配されることはない」と語った。
特級かつ、自他ともに認める最強の呪術師。五条悟を心配する人間など、きっと皆無なのだろう。
五条がそういう“役割”の存在だとして、彼の身体は一つだ。
大きくて頼りがいのある背中と、逞しい手のひら。それを近くで見ても尚、こよみは夏油の隣にいた五条の楽しそうな笑顔を懐かしく思う。
二人でいた頃、二つあった背中は今は一つだ。
心配など、するに決まっているのだ。

五条が拠り所とする場所を、自分は、ほんの少しだけでも守れるだろうか。
事務室を綺麗に掃除することや、隣でジュースを飲むことが、彼の心の温かさに繋がりはするだろうか。

こよみはそんな風に考えながら、前を歩く五条の後ろを、黙ってついていった。



* * *



12月23日。
街はどこもクリスマス一色で、どんな大型商業施設でも小さな店でも、足を踏み入れると、クリスマスソングが出迎え役だ。
今年、呪術高専の関係者は、クリスマスイブにデートの計画など、一様にありはしないだろう。

七海から直接手渡された『出張申請書』に視線を落としながら、こよみは高鳴る心臓を落ち着かせようと、意識して深い呼吸を繰り返していた。

「後から提出でも良いと……伊地知さんに聞きましたが……」
「あなたと、少し話がしたくて。ちょうど時間も空いたので、用意しました」

正面に立つ七海のストレートな言葉に、こよみは顔が熱くなるのを感じ、顔を上げられないでいた。
出張の内容・目的欄に整然と記された内容は、百鬼夜行の対応及び呪霊の祓除・迎撃。
京都に出発するのは、23日19時発の新幹線。つまり、この後の予定だった。前泊のホテルは京都駅から程近い、全国展開のシティホテルである。
明日――12月24日当日は、七海は京都校所属の呪術師と合流し、任務に当たる。

「……」

はくはくと、こよみの唇が開いたり閉じたりするのを、七海は見つめていた。

――行ってらっしゃいと、言わなくては。
見送りと出迎えを、笑顔で行うこと。こよみが自らの大切な仕事と位置付けた行動。
こよみが何かを言うと判断ししばし待った七海だったが、それが音声になる気配がないので、依然として顔を上げないこよみのつむじを見下ろしながら口を開いた。

「鬼怒川さんは明日は、高専で待機ですよね」

こよみは落ち着かない様子で瞬きを繰り返しながら、おもむろに顔を上げた。

「はい」
「高専なら安全でしょう。夏油さんも、あなたを襲撃する理由はないでしょうし」
「…………」
「不安ですか?」

こよみの手の中で、出張申請書の端が僅かにひしゃげる。二人の視線が交わった。

「高専の呪術師の方々が迎え撃つことを、夏油さんも承知の上での強襲じゃないですか……」
「……そうですね」
「わたしよりよっぽど、七海さんや五条さんのほうが平気じゃないってわかります。……なのに、わたしへの心配なんて……」
「あなたが私の身を案じてくださるように、私があなたを心配するのは、自然なことですよ」

七海のその言葉を聞いたこよみの両眼が、みるみるうちに涙に濡れた。
こよみははっとして七海から視線を逸らすと、自身の袖口を固く閉じたまぶたに押し当てた。

「……はい。自然でも、普通でも……嬉しいです。ありがとうございます」
「私のほうこそ。鬼怒川さん、明日は多くの呪術師が戦いに出ます」
「はい」
「行ってらっしゃいを皆さんに伝えるんですよね。しっかりと、ご自分の務めを果たしてください」
「……はい」
「あなたは補助監督で、事務員で。戦いに赴く者たちや私は、呪術師ですから。お互い、明日も変わりない一日になるように」
「はい……、はい。……わたしは、わたしの役割を、果たします。明日も、ここで」

こよみが、背筋を伸ばして七海の相貌を見上げた。
七海がほんの僅か、口角をゆるく釣り上げた。こよみの心臓が音を立てて跳ね上がる。

「……七海さん。行ってらっしゃい。気を付けて」
「はい。行ってきます」

こよみが涙に濡れた声音と表情で笑った。
七海の心拍も、ほんの僅かにペースを乱した。
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