聞き間違い | 13


重たそうなまぶたが、容赦なくこよみの両目に追い打ちを掛けるのを、七海は静かに見つめていた。
こよみはその視線に気付いていない。酒に背中を押された眠気に抗いながら、カシスウーロンのグラスを握りしめ、グラスを伝い落ちる水滴を眺めていた。

「怒ったり泣いたり忙しいね、こよみは」

五条が壁に凭れながら言った。
顔を上げないこよみの様子をしばし観察しながら、七海は気が付いた。
誰も新たな話題を振らないので、こよみの少々荒れた姿と声音と、話の余韻がこの場に残っている。
こよみは視線が自分に集まっていることをうっすらと察しつつも、顔を上げられないのだろう。それは眠気からなのか、取り乱した反省からなのか。

「もうちょっと自分の仕事に胸を張れれば違うんだろうけどね」
「鬼怒川さんは優秀ですよ、本当に。補助監督の仕事をはじめたばかりの頃の私より、覚えが早いと思います」

家入と伊地知が、慰めるように言葉を零した。
常識的な感性を持ち合わせる二人はともかく、五条がこよみに目をかけている理由は、正確にはわからない。
自身に向く視線がどうであれ、呪術界の重鎮に常に囲まれる存在でありながら、五条はこういった場を気に入っていて、こうして顔を出す。
五条にとってこよみは、間違いなくまっすぐに、信頼に値する人間なのだろうと――そんなことを、七海は考えていた。

五条なりに、嬉しいのだろう。そしてこよみを、心から歓迎しているのだろう。
彼女の手腕や使い道とかそういったことからではなく、もっと純粋に、安心して傍に置いておける、信頼できる存在として。

「…………ありがとうございます。……全然、まだまだです。わからないことばっかり」

ゆっくりと顔を上げて姿勢を正したこよみが、張りのない声でそう言った。
アルコールで紅潮した頬と薄く涙の膜が滲む両目で、ぐるりとその場の全員の顔を見据えた後、眉を八の字にして、ゆるりと微笑む。
弱々しくもまっすぐ伸びる背筋と、何か吹っ切れたようなその表情は、七海の知らない顔だった。

「なんでも聞いてくださいね。隣の席なんですから」
「はい。…………ありがとうございます」

こよみは伊地知のその言葉に、嬉しそうに笑みを深くした。
だが、どうにもすっきりしない言葉尻を引きずったまま、ふと七海の顔を見上げた。二人の視線がぶつかる。

「…………」

七海の目には、こよみが一瞬だけ唇を動かしたように見えたが、次の瞬間、そのまま閉じ合わされる。
七海から視線を外す直前のこよみの両目から、急速に、明るい色が消えた。七海には、そんな気がしていた。

(七海さんを、笑顔で送り出したいのに。……平気でできるなんて薄情で、できないのは、迷惑な好意が、邪魔するからなのかな)

テーブルの下で握り合わせた手を、こよみはぼんやりと見つめながら考えていた。
この場の全員の厚意を、しっかりと感じている。ありがたく、嬉しいと思える。
七海の顔を見ると、他の誰に対しても平気でできることが、できなくなる。蓄えていたはずの勇気が、途端に萎んでしまう。
こんな宴席でも、喧騒の中に紛れ込ませてでも、七海は他人の思いに真剣に向き合ってくれる人だ。それを知っているからこそ、こよみは言葉が出なかった。
話したいことがたくさんある。だが、失敗を恐れるあまり、ひとつも声にならない。
この場に相応しくないからとか、明日ならできるはずとか、そういう話ではない。今のままの自分では永遠にできない。

理由はわからないが、七海が自分を見ている。ずっと。
こよみはそれだけは確信していた。身体中に走る焦燥感で、酔いも眠気も、いつの間にか忘れていた。



* * *



宴会がお開きになったのはその数分後のことだった。
あっという間に、七海とこよみは二人きりになってしまった。

時刻は23時15分。
高専の車の運転席に座った七海が、今しがた後部座席から出て行った伊地知をバックミラーで確認し、ロックを下ろす。
助手席で物言わぬ貝のように大人しくしていたこよみはハッとしたように顔を上げて、あの、と口火を切った。

「よろしくお願いします。すみません、遠いのに」
「遠いからこそ、きちんとお送りしたほうが私も安心です」

紳士的ないらえに、こよみは「……はい」と返事をした。
七海がちらりとその横顔を見遣る。申し訳なさそうな声音に反し、どこか嬉しそうな表情だった。
心臓が僅かに疼く。その表情の理由を問いたいと自覚した直後、七海はそんな邪念を無理やり頭から振り落とした。無言で、無表情のまま。
こよみにそんなつもりは全くないだろう。ただ、隙だらけな彼女への言いようもない感情が沸きあがるだけだ。
それがこよみのせいではなく、自分の心に紐づいていることは、七海にもわかっていた。
逆に言えば、こよみに由来するものだからこそ、自分の感情は無駄に大きく巡る。

こよみに見えないように顔を背け、七海は小さく息を吐いた。
五条の運転が仮にどんなに未熟者のそれであろうと、七海にとっては、別にどうだってよかった。

「私もあなたと同意見ですよ」
「……へ?」
「ご機嫌な人と一緒に仕事をしたいと言っていたでしょう。さっき」

こよみが顔を上げ、ゆっくりと運転席の七海の横顔を見た。
赤信号でサイドブレーキを引き上げた七海が、応えるようにこよみの顔を見た。穏やかな表情だった。

「仕事に私情を持ち込むべきではない、本当にその通りです。仕事はチームでするもの、全体のパフォーマンスを落とす懸念点は解決すべきですし、それが私情ならセーブするのが大人として当然のこと」

すらすらと言葉を紡ぐ七海に、こよみは呆気に取られた。
僅かに口を開けたまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「たまたま虫の居所が悪かったとか。友達じゃないから自分が傷つく必要はない、だとか」
「はい……」
「鬼怒川さんは、対人トラブルを自分のせいにしがちなんでしょうが、そんなことはないと割り切るべきです」
「…………」
「できますよ。だってあなたはちゃんと、原因が相手にあることをわかっているんですから」

こよみは呆然と、七海の横顔を見つめていた。
再び発進した車内で、七海はもう正面を向いている。それをいいことに、こよみはずっと、七海の涼やかな目元を、じっと見上げていた。

「…………飲み会の時、七海さん、話題に入ってこなかったから、てっきり興味がないものかと」
「あぁ。ちょうど、食事が来ていましたからね」
「あ。あの出し巻き卵、美味しかったですよね。家入さんのお勧めだっていうから、わたしも食べました」
「そうですか。お腹はいっぱいになりましたか」
「はい。大丈夫です」
「随分酔っていたようですが、弱いんですか、お酒」
「いいえ、頭はすっきりしています。わたしは顔に出やすくて……でも、今日はみっともないところをお見せしました」
「存外、飲めるんですね。今日は楽しめましたか」

七海の淡々とした質問の数々に、こよみは視線を自身の膝に下げたまま、答え続けた。
ドキドキと心臓が高鳴る。宴席であまり話せなかった分を取り返すように、心地よいテンポで言葉を交わし合う。

(まるで、ずっとこうやって話がしたかったみたい。そうだ、わたしはずっと、ちゃんと、七海さんと話したかった)

こよみはそう自覚するも、七海も決して、面倒くさそうに相手をする表情には見えない。

「今日は……すごく楽しかったです」

また赤信号で、二人を乗せた車はゆっくりと停車する。
七海が顔を僅かに傾け、こよみの顔を見た。
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