聞き間違い | 14
こよみの腹の虫が控えめに空腹を訴えた時、幸か不幸か、七海がそれを聞き届けてしまった。
「コンビニ、寄りましょうか。ちょうどそこにあるので」
「え!?あっ、あのわたしのお腹なら黙らせますんで!大丈夫です!家までもうちょっとだし」
「では、私が明日飲むコーヒーを買うので、鬼怒川さんは車で待ってていただいても」
結局、こよみはまんまとコンビニでドーナツを買ったし、七海は明日飲むと言っていたホットの缶コーヒーを運転席で開けていた。
七海に「飲み会の食事で満腹になったか」と尋ねられて、こよみが大丈夫だと答えてから、僅か10分後の出来事である。
こよみはお腹の音を七海に聞かれたことも相まって恥ずかしさで消えたくなっていたが、当の七海は、こよみの懸念は何も気にしていない様子だった。
(うう、スマートでかっこいいなぁ。結局、明日のコーヒーなんて買ってないし)
複雑な胸中を抱えたまま、こよみは顔を上げられずにいた。七海が横目でこよみを見る。
「食べないんですか、ドーナツ」
「え、あ、えっと、……高専の車に食べかす落としちゃまずいかなと」
「……では、帰ったら食べてくださいね、……いや、女性は気にするんでしょうか」
七海が腕時計を胸の高さまで上げてぼやく。日付が変わるまであと20分だ。
こよみは七海が気にしている内容がなんだかおもしろく思えて、小さく笑った。
「わたしは気にしません。お腹すいてると寝れないので……。世の女性のことは知りません」
七海は「そうですか」と短く言葉を返し、車のエンジンをかけた。
こよみは慌ててシートベルトを締め、視線を上げるついでにもう一度七海の顔を盗み見た。
(なんか楽しそう。……笑われちゃったかな、……まぁいいや。役得)
幸か不幸かと言えば、“幸”だったな、などと。
こよみは密かに結論付けていた。
「前職、色々と大変だったんですね。以前は表面的な話しか伺いませんでしたね」
「そうですね……あ、いえ、半年前は、むしろわたしが七海さんに色々聞きたくて」
こよみの自宅への道をゆっくりと進みながら、話題は再度、こよみの前職の話に移っていた。
半年前、こよみは七海から、呪術師に出戻った話を聞いていた。彼は証券会社での苦労話を愚痴ったりはしなかった。
だが、強烈で痛快な一言を残していった。七海の愚痴をまとめた一言が、ズバリ『労働はクソ』である。
こよみは、一般企業での人間関係や力量不足に悩む中で、七海のその言葉を密かに心の支えにしていたのだった。
「でも、証券マンや呪術師に比べたら、わたしの悩みなんてきっと甘ちゃんで……」
「仕事の内容や役割がそれぞれ違うだけで、そこには違う形で苦労が伴います。楽な仕事なんかありません。人にはそれぞれ許容力の差もありますし」
七海の言葉に、おそらくこよみへの気遣いの意図が大きくは含まれてはいないのだろう。
あくまでも一般論としての語り口を、こよみは静かに聞いていた。慰めや下心を含んだ言葉でないからこそ、逆に説得力がある。
こよみは、昔から七海のそういうところが好きだった。誰に対しても公平なジャッジを下す。
自らの正義感にのみ従い、誰かに取り入ろうとしない彼だからこそ、常に信頼できた。
「どこの職場にも必ず、何か問題がある。……ですが結局、呪術師でもそうでなくても、悩みは大きくは変わらないんでしょうね」
「……、そう……でしょうか……?」
「私はそう思います」
ハッキリと言い切った七海の発言の真意に、こよみは考えを巡らす。
呪術師は特殊だ。広く一般には理解されず、選ばれた人間しか適性がない。だからこそ、呪術界は偏屈で歪んだ人間の魔窟。
そんな世界に身を置く人間の悩みが、一般社会で生きる人間と同じ――こよみには、容易く結びつくとは思えなかった。
「職場のあの人が苦手だとか、自分が嫌いだとか。適性があるだのないだの、おそらくどんな仕事でも多かれ少なかれ感じることです」
「……そう、ですね」
こよみは同意して頷く。
いつの間にか、こよみの自宅アパートの隣駅が見えてきたことに気付き、こよみは気取られ窓の外の風景に視線を向けた。
「鬼怒川さん」
「え、あっ、はい」
「私はあなたが高専に戻ってきたことを知った時、複雑な気持ちでした」
急に呼ばれたことに驚き、こよみは胸の中で心臓が跳ねるのを感じた。
そうして、七海が続けた言葉に再度驚く。七海らしいストレートな言葉だった。心臓が落ち着くタイミングは完全に見失った。
「補助監督だって危険にさらされる場面はある。そして、近くにいるからこそ見えてしまう」
こよみは黙ったままだった。
これは、わたしの話だ。そう思ったら、言葉を挟めなかった。
七海は構わず言葉を続ける。
「あなたがどこか私の知らない場所で、幸せに生きていてくれたら、私はその方が心を乱されずに済むと思いました」
「……」
「高専であなたの姿を見た時、真っ先に感じたのは、あなたに危険な場所に出る役割が回されないでほしいという思いでした。あなたの志を邪魔するようで、私は後ろめたく感じた」
七海はハンドルを握ったまま正面を見ていて、こよみの向ける視線と交わることはない。
理路整然と、淡々と、平熱のまま紡がれ続ける言葉の数々。それでもこよみは、心を掻き乱されて体温が上がる感覚があった。
七海はどうして、それを今、自分に向けて言うのだろうか。
“後ろめたい”から、何なのだろうか。
七海は理由を言わない。その気持ちに伴う、彼自身の動揺も悟らせない。
懺悔でも反省でも、ましてや何かをこよみに望むわけでもない。ただ七海は平然と、自身の心の声を紡ぎ続けた。
「出戻りと言う立場は私も同じです。……きっと、理由は似たものではないかと」
七海の言葉の一つひとつに、嵐のように、こよみの心が揺さぶられる。
間違いなく全て、七海がこよみに伝えるために組み立てている言葉で、想いだから。
こよみに危険な場所に出る役割が回されないでほしいのは、危険な目に遭ってほしくないからだろう。明快で七海らしい言い方だと、こよみは思う。
それでも、そこに根差す彼の心情を正確には読み取れない。それは七海ではなく、こよみに問題があった。
自らの過去の行動への不甲斐なさと、それを起点とする自己肯定感の低さ。自分は七海とは違う。その思いが消えない。
「五条さんに、指摘されました。あなたが私と話す時、ずっと何か焦っている、緊張していると」
「っ、あ、あの……」
「私に何か遠慮しているなら、きっと考え過ぎです。私のことは気にしないで、あなたの思いを全うしてください」
「…………七海さん……、あの」
疑いようのない激励であったと、頭では理解している。
それでもこよみは、ひやりと頭のてっぺんが冷たくなるような心地があった。
こよみの声が震えていることに気付いた七海は、頭を傾けてこよみの表情を伺おうとした。
「…………突き放さないで……」
暗闇の中で、白い顔のこよみの両眼と視線がかち合う。
思いもよらないいらえに、七海は数度瞬きをした。
正面の信号が青になったことにも、気付かなかった。