聞き間違い | 12


「あ、起きた?……髪すごいよ、鬼怒川」

両肘をついたまま、重たげに頭を上げたこよみに、正面に座っていた家入がそう声を掛けた。
こよみは覚醒し切らない頭で瞬きを繰り返す。女性から見て『髪がすごい』、それはまずいのではなかろうかと理性がようやく働き始めたこよみは、両手で自身の髪に触れ、指を通し整え始めた。

「あ。こよみおはよー。七海と伊地知が来てくれたよ」

五条のその声と内容が、どんな目覚まし時計よりもアラームよりも、一瞬でこよみの脳に効いた。
こよみはほとんど無意識にその場で後ずさり、背中を壁に、膝をテーブルに打ち付けた。その衝撃で、家入の手元のグラスの、琥珀色の水面が波打つ。

「痛そうな音だけど大丈夫?」
「は、はい…………」

お笑い芸人のようにずれた眼鏡が、こよみの鼻に辛うじて乗っかっている。膝がじんと痛むが構っていられない。
こよみの視線の先で、伊地知が苦笑を浮かべている。その隣に座る七海は無表情だった。
こよみの右隣に座る五条はからからと笑いながら、「第二ラウンドだよ、こよみ」と言いながらドリンクのメニューを差し出した。

「お待たせしたね、七海も伊地知も。注文しようか、飲んでいいよ」

やっとか、という意味を込めて七海が大げさに溜め息を吐く。
その隣で伊地知が苦笑いの顔のまま、はてと首を傾げた。

「私が皆さんを車でお送りする役目ですよね……?」

伊地知がそう言うので、状況を掴み切れないこよみはぱちぱちと瞬きを繰り返した。
その疑問に応えるように、すかさず五条が口を開いた。

「僕が引き受けるよ。この飲み会の言い出しっぺだし。こよみ、今日は伊地知たちと一緒に高専の車が来てるから、そういうことで」
「え!?いえ、わたしは電車で……」
「鬼怒川、五条は酒が飲めないからさ、気にすることないよ。今夜は言葉に甘えな。一人で帰すのちょっと心配だし」

家入がふっと微笑みながらこよみに言う。医者に心配されてしまった。ばつが悪い。
まさか失態でも晒したのだろうかとこよみは記憶の糸を手繰るが、どう考えても既に寝落ちという醜態を晒している。
抵抗というか、感謝と遠慮を示したいところだったが、こよみは家入にじっと見つめられたのちに白旗を上げた。

「……はい。ありがとうございます…………」
「…………五条さんが運転する車……」
「伊地知、なんか言った?」
「いえ何も」

無言の五条に顔を近づけられた伊地知は冷や汗を流しながら「珍しいなと思っただけですよ!」と白状させられていた。
「あ、店員さんすみませーん」と五条が手を上げながら声を掛ける。愛想の良さそうな女性店員がメモとペンを手に近付いてきた。

「私は獺祭を一合。鬼怒川、どうする?」
「えーと……カシスウーロンで……」
「僕はマンゴージュースで」

やたらと体格のいい目隠しの男性がマンゴージュースをオーダーする姿に、こよみは店員の反応が気になり、思わずじっと見上げてしまった。
店員は「マンゴージュースですね〜かしこまりました〜」と、とびきりの営業スマイル付きで繰り返す。さすがプロである。

「私は生中で。七海さんはいかがされますか」
「ノンアルコールビールでお願いします」

「え?」という反応が被った。伊地知とこよみの声だった。
店員が去った後、七海が五条の顔に視線を向けながら口を開いた。

「五条さんの運転する車など、私も信用できません」
「人聞き悪いなー、七海。まぁ、確かに僕最近、全然運転してないけど」
「じゃあ今夜は、七海が私らのこと送ってくれるわけ?」
「はい」

頬杖をついてにやにやと笑いながら問う家入に、抑揚のない声で七海がいらえをする。
脳天に雷が落ちた――こよみにはそんな感覚があった。恐れ多い。そして、この中で一番自宅が遠いのはこよみである。
必然的に、七海と二人でドライブする時間が、この後待っている。
こよみは、汗が背中を伝っているような気さえしていた。

「七海さん、それでしたら私が……」
「伊地知くんはいつもそういう役回りですし、たまには飲んでください」
「い、いっ、一級の方にそんなこと、していただくわけには」
「あなたは主賓でしょう。時間外ですから等級は関係ありません。どうぞお気になさらず」

この人に答弁で立ち向かうのは無理だと、こよみは混乱のさなかで感じていた。伊地知へのフォローまでしている。
七海のまっすぐな視線が伊地知へ向かい、そののちにこよみを射抜く。その真意はいつだって、わかりづらい。
気遣いも優しさも、七海にとっては標準搭載だろう。それが同僚に向くのは自然なことだと、頭ではわかる。そこにそれ以上の理由などない。きっと。
こよみは暴れまわる心臓に言い聞かせるように、何度も繰り返し、そんなことを考えていた。



* * *



「わたし、どんな時でもご機嫌な人がいちばん尊敬できると思うんです……っ」

カクテルで酔っているのか、この場でちやほやされて(主に五条に)乗せられているのか、こよみの呂律がおかしくなってきたのは30分ほど後のことだった。
どうやら、こよみは酔いが顔に出やすいらしい。火照った頬と湿った瞳に、どこか間抜けな声の調子。
本人が語っている内容は至極真面目で、そのアンバランスさに、五条はずっと返事をしてやりながらも爆笑していた。
七海と伊地知はその光景に、「おふざけに巻き込まれてかわいそうに」といった感じの表情を向けている。
根が善人の二人は、基本的には話題の邪魔をしない。かといって、目に余れば止めに入る準備だけはしている。

「へー、そりゃまたどうして?」
「仕事ですから、私情は挟まないでほしいです。プライベートで何があったかなんて、仕事の場じゃ関係ないじゃないですか」
「うんうん」
「そりゃ、言ってくれたら多少は気を遣いますけど。お互い様ですし。でも、言わないのにわかってほしいっていうのは、甘えだと思って」
「つまりこよみは、“察して優しくしてよ”っていうのが嫌なんだ」
「そう!そうです!さすが五条さん」

話題は『こよみの前職について』だったはずが、いつの間にかその中心は『こよみが思う、嫌だった仕事仲間』に切り替わっていた。
もはや隣同士に座る五条とこよみの応酬でしかなかったが、腹が減っていた七海と伊地知はこれ幸いと、仲良くガッツリと食事をしていた。

「誰にだって色々ありますよ。でもそんな中でみんな仕事してるわけです。“察してほしい”は本当に、地獄の入口だと思います」
「なんか言葉のチョイスが強いけど、言いたいことはよくわかるよ」
「鬼怒川も色々経験してきたんだね。けど、なんでそんな熱くなるわけ?なんか嫌な思い出でもあるの」
「家入さん〜……そうなんです、聞いてくれます?」
「うん聞く聞く」

白い指で枝豆を剥きながら、適当な調子で家入が返す。
七海と伊地知も、食事の片手間に聞く分には同調のし甲斐がある話題だったので、黙って耳を傾けていた。
もし最初から飲み会に参加していたらウンザリしそうなものだが、五条も家入もなかなかどうして、こよみの気持ちに寄り添うようなリアクションを打つ根気がある。七海は内心で、素直に感心していた。

「先輩のあたりが強い時があって。後から周りが教えてくれたんですけど、彼氏と大喧嘩した翌日だったらしいんです」
「うわ。もう修羅場の予感。そんでそんで?」
「共同で進めてた企画の締切当日だったから、仕方なく話しかけたら『ねえ。空気読んでもらっていい?』って言われたんですよ」
「……そ、それはまたキツイですねぇ」
「でしょう!?知らないよって話ですよ」

思わず口を挟んでしまった伊地知に、こよみは半泣きの表情を向ける。

「……最初、意味がわからなくて、空気読んでどうすればいいのかすごく悩んで……。わたし、何かまずいことしちゃったかなって、ずっとへこみました……」

水滴の滲むカクテルのグラスを握ったまま、こよみは顔ごと真下に向けた。
思い出して泣いたりへこんだり、心底無駄な行為だと、七海は考える。だが当のこよみはそれなりに真剣らしい。
伊地知も人の良さ故に、同情的に眉尻を下げる。
さすがにここで「昔のことを今言ったところで」と口を挟むのはあまりに無粋と判断し、七海は黙ったまま口を閉ざした。
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