聞き間違い | 11


指示された居酒屋の引き戸を開けると、若いアルバイト店員の威勢のいい声が飛んだ。
店の奥の座敷の個室で、七海と伊地知の目的の宴会が行われていた。

「あ、二人ともお疲れ。遅いじゃん、こよみ寝ちゃったよ」

五条が手を振りながらそう言った。
テーブルには枝豆の皮や搾った後のカットレモンが載った食器が山積みになっている。
そのテーブルの端に、すやすやと寝息をたてる頭が載っかっていた。
側頭部を下にした体勢で、こよみが寝落ちていたのだった。

「七海、伊地知、お疲れ。とりあえず座んなよ、夕飯まだだろ、何頼む?」
「お二人もお疲れ様です。どうもありがとうございます」
「お疲れ様です。主役がこれでどうするんですか、飲ませ過ぎでしょう」

五条が個室の端に積まれた座布団を放ってくるので、伊地知は家入の言葉に応対しながらそれを受け取った。
掘りごたつに脚を入れて示された位置に座ると、七海はこよみを見ながら口を開いた。気持ち良さそうな寝顔を壁のほうに晒している。
こんな騒がしい場所でよく寝れるな、という考えが頭をよぎるが、音声になるには至らない。

「人聞きが悪いな、そんなに飲ませてないよ。疲れが溜まっていたんじゃない?」
「いやいや、硝子に付き合って結構飲んでたじゃん。それ、強いお酒なんでしょ?」
「鬼怒川が飲みたがったからね」

否定しない家入と、特に気遣っている様子でもない五条に、七海は溜め息を吐いた。
どれだけ羽目を外したのか、それとも単にそれほど酒が得意ではないのか。
こよみとこういった場に来るのは、ここにいる全員が初めてだ。責めても埒が明かない。そもそも、こよみも自己管理ができるはずの大人だ。

「ま、気分が悪そうな感じでもなかったし、しばらく寝かせておくのが良いでしょ。ほら伊地知、メニュー」
「あぁ、ありがとうございます。ええと……」
「ねえ七海。こよみと何かあったの?最近だか半年前だかに」

家入が伊地知に注文を促すので、隣に座る七海も品書きに視線を向けた。
だが、空気の読めないタイミングで五条が質問を飛ばしたので、七海はイラッとしながら顔を上げざるを得なかった。

「なんですか、藪から棒に。心当たりはありませんが」
「ほんとに?こよみ、なんか気まずそうじゃん」
「その話、注文の後でもいいですか」
「駄目」

五条の声音が思いの外真剣だったので、伊地知も気取られて顔を上げた。家入は、向かいの席から頬杖をついて、静観している。

「結構酔って饒舌だったんだけどさ、七海と前に何かあった?って訊いたら、そこだけは上手くはぐらかすの」
「それは、あなたが面白がってるからでしょう」
「真面目な話だよ。僕にも結構本音とか悩みとか言ってくれるんだけど、案外、境界線はきっちり引いてる。大人になったよね、こよみも」
「そんなこと、私に言われても、知りませんよ」
「何それ、冷たいじゃん。高専の時から仲良かったんでしょ。半年前も、食事に行ったって聞いたよ」
「…………」
「ま、いいや。七海がそういう態度だと、内容は野暮な話かもしれないしさ」

五条が肩を竦める。大人の男女二人が揃って口を噤むような話題を、わざわざ掘り下げる趣味はない。

「こよみの性格なら、もしかしたら呪術師とか補助監督とか、そういう立場とか適性の話なんじゃないかって思ったんだ。そういう方面なら、僕でも相談に乗れるかなって思ったんだけど」

五条が言葉を続け、ぼやく。
あてが外れた悔しさというよりは、もっと人情深い、そんな表情をしていた。七海も伊地知も、少々意外に感じて、まじまじと五条の顔を見つめてしまった。

「……五条さん、鬼怒川さんのこと、気にかけていらっしゃるんですね。意外です」
「伊地知、後でマジビンタね」
「ええ……」

伊地知がさりげなく五条と距離を取ろうと動く。五条は楽しそうに笑うばかりだった。
七海は品書きに視線を落としたままで、ページをめくるでもなく固まっていた。次の言葉を組み立てるのに、時間がかかっていた。

「……“大人になった”などと言いましたが、あなたと鬼怒川さんは、先輩と後輩でしょう。ずっと、同じような目線だったのでは」
「いや、お互いあんまりその意識はないかも。こよみが高専一年だったとき、僕五年。学生として絡んだことって、全然ないよ」
「……では、どういった経緯で、鬼怒川さんは高専に入学されたんですか?」
「あぁ。僕と傑が一年の時、任務でこよみの地元に特級呪物の回収に行ってさ。こよみが小学生の時。それが初対面」

伊地知も一旦注文を諦めたように品書きを置き、疑問に思っていたことを尋ねることにした。

「こよみは呪霊が見えるけど、それが何なのかわからない状況だったよ。だから説明した、きみはおかしくないって」
「なるほど……」
「で、自分にできることを見つけたい、学びたいって言って高専に来た。そこから先は知ってるでしょ」

五条が手元のウーロン茶のグラスを掴んだ。
伊地知は頷きながら聞いていたが、五条が一呼吸置いた瞬間に落ちた沈黙に、何の反応も示せなかった。
同期を喪ったこよみの胸の痛みは、当人にしかわからない。高専を辞め、故郷に帰った後のこよみのことは、伊地知は知らない。
今こうして同僚となった鬼怒川こよみは、誰にでも元気な笑顔を向ける明るい表情しか見せない。

「高校生と小学生じゃ、やっぱり感覚的には大人と子供だと思うよ」

五条がグラスをテーブルに置いた。溶けかかって小さくなった氷とグラスがぶつかって、からりと音を立てた。
七海は黙ったままだった。七海にとっては、当時のこよみの立場は同じ学生で、正真正銘、先輩後輩だったのだ。
五条とは、彼女を映し出す視界そのものが違うのかもしれないと考えていた。

「……鬼怒川さんは、酔って、なんと言ったんですか」

七海が五条の相貌に視線を向けた。
五条は「んー?」と言いながら目を合わせた。

「主にはあれ、ほら。百鬼夜行」
「……ああ」
「こよみ、傑のこと、わりと慕ってたんだよ。初対面の時から」

想像に難くない。七海はそう思った。
夏油は2007年のあの日までは、崇高な理想を信じて疑わない、いわゆる優等生だった。
そして、その思いに伴う実力を持っていた。

「傑が呪詛師になったことを知って、表面だけ聞いただけでもショックだったって。それで、当日の僕たち関係者の配置とか今日配られたでしょ」
「……ええ」
「伊地知が新宿、七海が京都。棘とパンダも現場。呪術師や補助監督の現場での動きや行動、そういうの、現実味を帯びて目の前に降って湧いたのは、こよみにとっては、今日が初めてだったわけ」

「……、補助監督、向いてないですよね。彼女」

五条が不意に顔を上げ、じっと七海の顔を見つめた。
伊地知は七海のその言葉に、どきりと心臓が跳ねるのを感じた。
家入は会話に耳を傾けつつ、時折話し手に視線を向け、ボトルで注文したウイスキーを、マイペースにグラスに注いでいる。

五条はゆるく微笑み、口を開いた。

「そっか。こよみ、七海にそれを言われるのが怖いんだね、きっと」

七海が、弾かれるように顔を上げた。

「……は?」
「七海、ずっとこよみと仲良かったでしょ。高専出た後一般企業に入ったのも、出戻りっていう立場も似てる」

五条は穏やかな表情を浮かべつつも、その声音にはからかうような調子はない。

「それをどう考えてるかは七海たちの勝手だし、僕らの知ったことじゃない。だけど想像はできる。こよみは後ろめたいんじゃない?七海に肯定されて高専を辞めた自分が、またここにいることが」

七海が五条を見つめたまま、思案するように瞬きを繰り返していた。
ふと訪れた静寂に、伊地知がゆっくりと口を開いた。

「私も呪術師の道を諦めて補助監督になったので、わかる気がします。皆さんが肯定してくださるから、今の私がいる」

七海は伊地知を見て、そうしてまた五条に視線を戻す。
怒りではないが、不可解な感情が胸に宿っている自覚があった。
こよみの行動に対して、自分が何か言える立場ではない。それでも、それがすんなりと腹の底に落ちてこない。
仮に自分の思いや行動や、こよみに伝えてしまった言葉が、彼女の思いの障壁になるとして、その事実に対して、肯定でも否定でもない感情が沸いてくる。
こよみの心情に思いを向けると、自分が一人で息巻いて決めつけて、身勝手としか言えない。
だが、こよみが七海に向けている感謝や信頼や、もっと別の何かに、全く背を向けてしまうのは、惜しいと感じてしまう。

「……私に鬼怒川さんの思いを否定する権利があるとでも?それは私の出戻りを否定することと同じです」

それでも、身勝手な自分をすんなり肯定する域には達していない。七海は胸の中のもやもやを振り落とすように、そんな言葉を選んだ。
五条はゆるく微笑んだまま応えた。

「七海、権利とかじゃないよ。こよみは僕に“補助監督になるのは危険だからやめろ”って言われたって迷うと思う。だって、止めるのは厚意からだろ」
「……私は止めたいわけでは」
「でも心配なんでしょ。頭で、そんなのこよみの自由だってわかってても、すんなり背中を押せるわけじゃない。でもこよみは高専時代に一度進路を変えた。本人は逃げって思ってるかもしれないけど、それは、こよみが信念を通すことができるからだよ」
「…………」
「ねえ七海。こよみはもう大丈夫だよ。一人で決めるし進める。自分の言葉の責任も取れる。でも七海にだけは、少し違う思いがあるんじゃないかな」

居酒屋の店員が空のグラスを下げ、ご注文はお決まりですかと伊地知に声を掛けているのが、七海の視界の端に映る。
同時に、耳の中にがやがやと騒がしい居酒屋の喧騒が飛び込んでくる。理解はしていても、話を逸らしたいとどこかで考えていても、七海は五条の言葉を否定することも聞き流すこともできないでいた。

「七海も気付いてるだろ。先月高専に戻ってきた日から、こよみは七海の前で、ずっと緊張してる。ずっと間違えないように気を付けてる」

だからさ、と続けながら五条がにんまりと笑う。

「教えてよ、半年前にどんな会話したのかさぁ」
「……人が真剣に聞いていたのに、結局それですか」

店員が、ジョッキを両手に抱えて去っていくのが見えた。
いつになったら注文できるのだろうかと七海は溜め息を吐く。
五条の表情から察するに、もう真面目な話は終わりらしい。七海は気遣わし気な表情の伊地知の前に、ドリンクのメニューを差し出した。
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