聞き間違い | 10


「鬼怒川。今夜は予定は空いているか」

問われ、こよみは振り返る。そこには家入硝子が立っていた。
事務室で彼女の姿を見ることは新鮮で、こよみは目をまるくしながらも、愛想良く「家入さん、お疲れ様です」と笑って応えた。

「お疲れ様。よく頑張ってるみたいだね」

家入は柔らかい雰囲気と口調で、こよみを労ってくれた。
呪術高専の教職員は男性の割合が多い。そんな中で時折顔を合わせる女性として、そして校医として、こよみは家入のことを認識していた。
五条と同期の彼女は、こよみが高専在学時には既に五年次であり、顔を合わせる機会に恵まれたのは片手で足りるほど。
しかし、呪いの人的被害を治療できる医師としての彼女は呪術界においても非常に重要人物であり、こよみも在学中から家入のことを知っていた。

7年の時を経てこうして仕事仲間となり、家入は珍しい女性の同僚として、それなりにこよみを気にかけていた。
10年以上呪術界に身を置いている家入にとって、周囲の人間は曲者揃い。
家入自身の所感として、彼女の周りには伊地知や七海といった常識人もいるにはいるし、五条の同期ともあり曲者に慣れている自覚はある。
それでも、こよみのような純朴な善人ポジションの同性の同僚は、やはり貴重だ。
補助監督は入れ替わりの多い職種であるし、普通に仲良くする分に不快感はない相手であると判断し、家入は彼女なりに、こよみに愛想良く接している。

「いえ、周りの皆さんが親切なので……でも、ありがとうございます」
「うん。それで、さっきの質問だけど」
「今夜ですか?はい、空いてます」

こよみのほうも、最初こそ家入のような“呪術界のすごい人”とお近づきになることに恐縮の気持ちはあったものの、家入本人がフレンドリーなので、いつしか“ステキな同僚女性”に考えを改めた。
もっと手前の単純な思いは「同じ職場の人と仲良くなれるのは嬉しい」くらいのものである。
もちろん仕事仲間なので、そのあたりの境界線はあって当然ではあるが、必要以上に警戒や遠慮は無用だろう。
退勤後の予定を聞かれるのは、何かのお誘いかもしれない。こよみはニコニコと笑いながら、家入の次の言葉を待った。

「よし。じゃあ、今夜私と五条と、三人で飲みに行こう」
「え?」
「まだきみの歓迎会もやってなかったしな。どうだ?」

家入がゆるく口角を上げ微笑みながら、こよみに尋ねる。
こよみは嬉しさと申し訳なさが綯い交ぜになった心地で、おろおろと口を開く。

「いえそんな……その、今はバタバタでしょう、皆さん……」

自らの歓迎会という名目であれば尚更、はい行きますと答えるには抵抗があった。
昨日も今日も、そしてきっと明日も、高専内はバタついている。
少なくとも今は――『百鬼夜行』が終わるまでは――羽目を外す時間などないはずである。
毎日事務室で仕事をしているこよみは、この状況が身に染みている。ピリついているのだ。
だからこそ、家入と五条というメンバー選抜なのかもしれないが、五条はふざけている風なだけで実際は呪術界の超大物だ。それを差し引いても、かつての親友が、百鬼夜行の首謀者であるという、変えられぬ現実。
もし、百鬼夜行までに何かが起こったとして、一介の新人補助監督をおもてなししていました……なんて言い訳になるはずがないことくらい、こよみにも容易に想像がつく。

「まぁね。そのせいで、今年は忘年会も飛んだ。だから誘ってるんだ、三人だから小規模にはなるけど」

全然「だから」じゃないですが。
座ったままのこよみが家入の美しい顔を見上げて固まっていると、家入はふっと笑った。

「鬼怒川、今、色々考えてるでしょ。そういうの、置いときな。私も五条も飲みの席が好きなんだ、そこにきみを招待しているだけだから」
「だ……だけど……」
「そういう気持ち、悪くはないけどね。でも、見極めも重要だと思うよ。ずっと気を張っていても、仕事のパフォーマンスが低下するだけ」
「…………」
「前向きな諦め、落としどころ、妥協。鬼怒川はそういうのを覚えるべきだね」

黙ったままのこよみに、家入は言葉を続けた。

「そういうわけだから、今夜は定時で上がって。私と一緒に飲み屋行くよ」
「えっ、あ、そういう結論!?」
「自分で決められないことは、誰かに手を引いてもらうんだよ。責任はそいつに押し付ける。それでいい」

「私がきみ一人のことで責任を負えないとでも?」と家入が楽しげに言ったので、こよみはもう、何も言えなくなってしまった。



* * *



おや、と伊地知が声を漏らす。
同時に、運転席の前方にセットされた伊地知の高専用携帯電話が震えた。その表示名は“家入硝子”。

「電話ですか」
「はい、家入さんから」
「出たほうが良いんじゃないですか」

後部座席から掛けられた声に、運転席でハンドルを握ろうかというタイミングだった伊地知は素早く振り返る。
家入から伊地知へ、ひいては補助監督に電話がかかってくることは比較的、珍しい。
その事情も加味したうえで、何か入用だとしたらすぐに対応すべきではないかという意図で――後部座席に掛ける七海は進言したのだった。

「そうですね。すみません、少しお待たせします」
「問題ありません」

この日の七海の送迎役は伊地知だった。
任務帰りの七海を無事に高専に送り届けること、それが本日の伊地知の最後の業務だ。
伊地知が電話を折り返しただけ、七海の退勤時間も後ろにずれ込む。だが、七海も伊地知や他の関係者同様、家入の立場はよく理解している。
誰かさんと違って、社用携帯にイキイキとイタズラ電話をかけてくるような人間ではない。故に、緊急事態の可能性もある。

「はい、伊地知です」
『あ、伊地知ー?僕だよ、僕〜』

“誰かさん”の声が電話口に響く。
伊地知はぴしりとその場で固まった。
五条悟が、電話口でやけにイキイキしている。面倒くさい。そう直感したものの、無視して後で追求されるわけにもいかない。そっちのほうが面倒だ。
伊地知がぐるりと七海を振り返ると、七海は色々と察したようで、同情的な表情を浮かべて深く溜め息をついた。

「……五条さんですね。どうかしましたか?」
『うん。あのさ、七海もまだ一緒にいる?』
「ええ、一緒ですが……、そちら騒がしいですね。五条さん、どちらにいらっしゃるんですか」
『飲み屋。日本橋』

言われて、伊地知は腕時計に視線を落とす。定時を大幅に過ぎていた。
五条が居酒屋にいること自体はおかしなことではない、が。わざわざ家入のスマホから電話を掛けてくる意味はなんなのだろうか。

『面白いもの見れるから、七海と一緒に来て』
「はぁ……、どういう意味でしょうか?」

五条の無茶ぶりは今に始まったことではないし、とりあえず顔を合わせているわけではないのだから、自分たちにはまだ都合の良い選択肢が残されている。
そんな思いで、伊地知は密かに断りの文句の候補をいくつか頭でシミュレーションしながら、五条の出方を伺うことにした。
どうやら自分も巻き込まれそうだと察した七海に小声で促され、伊地知はひとつ頷いてからスピーカーフォンに切り替えた。居酒屋の喧騒をBGMに、五条の声が続いた。

『今、硝子とこよみと僕の三人で、こよみの歓迎会やってんだけどね。こよみが酔ってて超ウケる』

瞬間、沈黙がその場に横たわる。
言われてみれば、会話の内容までは拾えないものの、家入とこよみの声が遠くから聞こえてくる。
わざわざ家入のスマホを借りて電話をしてきたのは、五条への警戒心が強い伊地知と時間外労働を嫌う七海双方に、家入の信用を借りて電話に出させる作戦だったのだろう。
蓋を開けてみればなんともくだらない内容ではあるが、巻き込まれていたのはこよみも同様の状況なのかもしれない。もはや気の毒である。

「…………あの、鬼怒川さんは一応私と七海さんの後輩というか同僚でもあるので、もう少し彼女の名誉に配慮というか、なんというか」
『僕と硝子の後輩兼同僚でもあるでしょ。とにかくさぁ、今夜一人で帰らせるのもちょっと心配なレベルだから、足があるほうがいいと思って』

伊地知は、こよみの酒への耐性は知らない。五条や家入への耐性も。
ひょっとしたらパワハラ案件なのかもしれない。この時点で、伊地知の頭の中では“こよみは五条とそこそこ仲良しである”という情報は抜け落ちていた。
七海は渋い表情で、エンドレスに溜め息をついている。その呆れなのか怒りなのかがどこに向いているものなのかは、伊地知には想像もつかない。

「……ええと、そういうことなら仕方ないですね……」
『あ、もちろん歓迎会ちょっと顔出していってよ。人数増えたらこよみ喜ぶよ』
「ちょっと待ってください、七海さんにも聞いてみますので……」
「話はわかりました。私も構いませんので伺います」
『お、七海も聞いてたんだね。オッケー、なるはやでよろしくね』

次の瞬間には、通話終了の電子音が鳴り響いていた。
後部座席に背中をつける形で体勢を戻した七海が、何度目かわからない溜め息をつく。

「七海さん……いいんですか?」
「まぁ、仕方ないでしょう。伊地知くん、荷物など大丈夫であれば、このまま向かいましょう」
「あ、いえ……そうですね……」

呆れた表情の七海をバックミラーで確認しつつ、伊地知は指定された居酒屋の住所をカーナビに入力した。
てっきり「補助監督という立場の人間たるもの」というような話が飛び出すかと思いきや、七海の表情はそれほど不機嫌に歪んではいない。

(まぁ、七海さんは他人の退勤後の時間にまで口を出す人じゃないしな……)

伊地知はそう考えを巡らせながらも、自分たちも既にすっかり時間外労働中であることに気付く。
そんな状況下で強制的に呼び出された宴席など、面倒の極みだろう。たとえ、こよみや家入に罪がなくとも。
後輩思いの優しさなのか、形だけでも上司を立てる惰性なのか、はたまた。
なんにせよ、この夜の予定は決まってしまった。伊地知はカーナビの指し示す経路を確認しながら、アクセルを踏んだ。
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