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 苗字が店に来なくなった。昨秋のいつかの時も一週間ほどパタリと現れなかったことがあったが、今回は非ではない。長さにして一ヶ月である。一ヶ月なんてこれから先何十年と続くであろう人生の中では本当に瞬き程度の時間なのかもしれない。だけど、色を失ったように味気のない日々は苦痛以外の何物でもなく、仕事中も家に帰ってからも浮かぶのはいつだって苗字の姿だった。

 気の抜けるような「こんにちは」という声は今日もなお耳に届くことはなく、入り口のドアが開く度に期待の眼差しを向ける動作もいい加減虚しく思えてきてしまう。どんな事情や理由をもってこの現状に至ったのかは俺には見当も付かないのだが、電話なりメールなり確実に苗字へ繋がる連絡手段を一通り試してみたにもかかわらず返信が一切無いということは……つまり、そういうことなのかもしれない。

「名前ちゃん、最近見かけないけどどうしたんだろうね」

 更に一週間が経過したこの日、カウンターで黙々と開店準備に取り組んでいると隣に立っていたマスターが不意に口を開いた。どうしたのかは俺だって知りたいし、なんなら俺たちの心配を他所に今この瞬間苗字が何食わぬ顔でここに来てくれたって全然構わない。しかし、いくら待ったところで都合良くドアが開くなんてことは早々あるわけがなく、言葉に詰まった俺は「さあ」と短く返事をし、日によって異なった味を楽しむことのできる“本日のコーヒー”というメニューの為の豆を調合する作業に取り掛かった。これはマスターから一任されている仕事の一つであり、店の顔とも言える一杯を生み出すには気温と天候までをも考慮した上で豆の種類や割合を決めなければならず、自ずと集中力だって必要となる。毎日雑念に気を取られっぱなしの自分にとって、この時間は一日の中で唯一心の波を穏やかにしてくれる貴重な瞬間であった。

 調合が終わると次は豆を挽く作業が待っている。その後は厨房で童磨と仕込みをし、店内清掃、資材の確認等、やることはまだまだ山積みなのだが、まずこの中でも特に優先順位の高い仕込み作業を行いたいと思っても肝心の童磨がまだ店に来ていない。厨房は俺よりもあいつの管轄だ、下手に手を出すのも気が引ける。さてどうしようかと腰に掌を当て考えていると店の電話が鳴り、俺はそのまま受話器を手に取った。

「あっもしもし?義勇さん?」

 声の先にいたのは童磨だった。遅刻するという旨の電話ならば間に合っているし、それよりも早く来てくれないことには仕事が滞って開店どころの話ではなくなってしまう。

「遅いぞ、今どこにいる?」
「そんなことより大変なんですって!俺、さっき偶然名前ちゃんに会ったんですけど…」

 その言葉に、身体がピクリと反応する。今、名前って言った?しかも、偶然会ったって?馬鹿みたいに大きく動き出した心臓も、喉を通ると震えあがりそうな声も、滑り落してしまいそうな受話器も、全て悟られないようしっかり手に力を入れ直す。

「いいですか、驚かないで聞いて下さいね」
「ああ、わかったから早く言え」

 何でもいいから苗字のことを知りたい、そう思っていた俺だったがそれは大きな間違いだったと後から気付くことになる。

「名前ちゃん、四月から海外に行っちゃうんですって」
「……なんだって?」
「しかも一年は帰って来ないみたいですよ。なんか急な話ですよね〜…って義勇さん聞いてます?」

 もしもーし?と声は続くが、最早内容なんて頭に入ってくるはずもなく。本日二度目の衝撃に、いよいよ辛うじて手にしていた受話器もするりと地へ抜け落ちていってしまった。




◇ ◇ ◇





「海外研修、ですか」
「うん、苗字さんにはこの春から1年間海外支社で働いてもらおうと思ってね」

 今から一か月前、年が明け仕事始め翌日の出来事だった。退勤の準備をしていると「あ、いたいた!苗字さんちょっといい?」と部長に声を掛けられ、嫌な思い出がデジャブのように蘇る。あの時急いでいた私に面倒極まりない仕事を振って来たことは今でも忘れていないし、どうせ今日だって同じような案件に違いない。ああもう、せっかくこれから喫茶店に行って夕食にしようと思っていたのに…。

 あからさまに肩を落とす私だったが、その後なぜか部長には会議室に来るように命ぜられるわ、いざそこに足を踏み入れるとなぜか部長の他に専務まで私のことを待ち構えているわで脳内が自然と悪い予感で埋まっていく。年明けすぐに呼び出されるということは、年末にでも何か重大なヘマをやらかしてしまったのだろうか。自分では何も思い当たるところはないのだけれど、まあ強いて言えば忘年会のカラオケの席で部長の歌を聞かずにずっと同僚や先輩たちとガールズトークに花を咲かせていた、それぐらいだというのに。じゃあ他に何があるかと頭を巡らせていると、

「苗字さんごめんね、急に呼び出してしまって。いきなりだけど苗字さんって海外研修に興味ある?」

 専務のキビキビした声が届く。そして話は前述の台詞へと戻るわけだ。専務曰く、常々の勤務態度と社への貢献度を加味した結果、是非私を推薦したいという話だった。研修の期間は一年間で、もしこの話を受けるとなると来年度分の引継ぎの関係で早め早めに動く必要がある。よって、考える猶予は長くても一週間足らず。この間、私は自分の進むべき道を決めなければいけない。

「苗字、コーヒーのおかわりはいらないか」
「……」
「苗字?」
「……!は、はいっ何でしょうか!」

 気持ちを切り替えるために訪れた喫茶店でも、専務からの提案がどうしてもこびり付いて離れない。…いや、離れるどころかむしろ悪化していく一方だ。帰りに冨岡さんが何か言いかけていたけど、今の私に続きを聞く勇気なんて無く。言葉を遮っては勢いに任せて店を飛び出し、足が動く限り夜の街をひたすら走り抜けた。

 実は、考えなくとも最初から答えは決まっていたのだ。入社して間もない頃、ある先輩が海外研修は入社一年目の社員の中から選ばれる、とても名誉なものだと話していたのを未だに覚えているし、来年自分もその一人になれたらいいと心のどこかでずっとずっと思っていた。そして、見事夢が叶った。これはもう一週間なんて期間を設けなくても返事は一つしかありえないと、自分でもわかっていた。それなのに。

「……、っ」

 行き場のない気持ちが涙となって次々込み上げてくる。私は馬鹿だ。誰もが羨むであろう話を、大好きな店のコーヒーを理由に返事を保留にしてしまっているだなんて。

 …ううん違う、勿論コーヒーは好きだ。好きだけど、でもそれ以上に私の気持ちを全力で引き留めている存在がある。それは──

『苗字』

 頭と心に浮かび上がる一人の姿。私は彼のことをよく知っているし、前まではどこか憎いとさえ感じていた人物だ。でも、無造作に束ねられた長い髪の毛や深海のように限りなく広がる藍色の瞳、スッと長い繊細な指先に、私の名前を呼ぶ少しだけ低い声…今はそのどれもがこんなにも恋しいと感じてしまっている。まだ始まってすらいない恋を、長年の夢と同じ土俵に擦り合わせて考えるだなんて、我ながら馬鹿げていると思う。しかし、ここまできてしまった以上もう誰にも止めることができないのだ。

この“気付いてしまった恋心”は、もう、誰にも。




◇ ◇ ◇





 専務と部長に前向きな返事をしてからは、本当に怒涛の毎日だった。朝の打ち合わせで私の海外行きの話が発表されると、上司は悲鳴を上げて喜び、仲の良い同僚は急な引継ぎにもかかわらず全て快く対応してくれた。そのおかげで仕事上の不安はほとんど無く、空いている時間を見つけては有休消化を兼ねてパスポートの申請や英会話に通ったりと、気持ちとは別に準備は着々と進んでいく。本当は喫茶店にも行ってマスター達にもきちんとお別れの言葉を述べたかった。けど、あそこに足を踏み入れた途端、一ヶ月かけてようやく確立した揺るぎない心が一瞬にしてバラバラになってしまいそうで。だから、皆さんには申し訳ないけど何も言わずこのまま旅立とうと思う。

「あれ〜名前ちゃん?」

 しかし、その決意虚しく。この日、午前中に英会話レッスンを予約していた私は予定よりも少し早めに教室に向かっていたのだが、横断歩道を渡り切ったところで横から甘い声が掛けられる。駅から歩いてきた私とは反対に、これから駅に向かうであろう童磨さんが小走りでこちらにやって来た。

「やっぱり名前ちゃんだ!久しぶりだねえ、元気だった?」

 懐かしさを感じて思わず笑みが零れる。一先ず元気だということと、これから英会話を習いに行って来ることを手短に伝えると、「へえ〜意外」と相変わらず愛想の良い笑みを返される。

「どっか旅行でも行く感じ?」
「あ、いえ。旅行じゃなくて転勤です」
「転勤?」
「はい、四月から一年間海外で研修を受けることになりまして」
「えっ……うそ、ほんとに?それ義勇さんとか知ってるの?」
「?知らないと思いますけど……」

 目を丸くしたり、困惑したような表情に変わったりと今日の童磨さんは忙しい。雲のようにつかみどころのない人だと思っていたけど、この様子だと私の言葉に少なからず動揺しているようだ。しかし、私も童磨さんもこの後の予定のことを考えるとゆっくり立ち話をしている余裕はない。どこかぎくしゃくした空気のままどちらともなく話を切り上げると、

「それじゃあ名前ちゃん、春から大変だと思うけど頑張ってね!」

 最後に激励の言葉を残し、童磨さんは横断歩道をひらりと渡って行く。ひゅうと吹いた冬の風は、冷たさだけではなく頬に僅かな痛みも残す。私は、ズルい真似をしてしまった。偶然童磨さんに会ったのをいいことに、自分がお店に行けない代わりに童磨さんの口から皆にこのことが伝わればと、そう考えてしまったのだ。一年後、日本に戻って来た日には蟹よりも豪華なお土産を持ってお店に行こう。だから今は失礼極まりない自分をどうか許してほしかった。




◇ ◇ ◇





 その夜、英会話と仕事を終えた私は帰りの満員電車に揺られ、最寄り駅に到着する頃には自然とため息が一つ漏れた。疲れたと感じる暇もないほど毎日は待ったなしに過ぎていく。それが原因か否かはわからないけど、誰かに軽く背後からぶつかられただけで肩にかけていた荷物を派手に落としてしまう、それぐらい意識も散漫になってしまっていた。

「あ、ごめんなさーい」

 その拍子に手帳や携帯、財布までもが滑り出てきてしまっても、ぶつかった当人は大して悪びれる様子もなく、口先だけの謝罪をしてはスタスタと歩いてどこかへ行ってしまう。もう一つ小さく息を吐き出してから、私は仕方なしに散りばめられた私物を拾いにかかる。携帯と財布を手に収め、あとは少し離れた場所にある手帳のみ。けれど私よりも早く、通りすがりの親切な人がそれをひょいと拾い上げる。

「すみません、ありがとうございま…」

手帳を受け取ろうとした私の手と、差し出す男性の手がピタリと止まった。

「……苗字」

 久しぶりに聞く声に、鼻の奥がスンと痛くなる。冨岡さん。私がずっと会いたくて、会いたくなかった人。互いに利用している駅は一緒なんだ、こうしてばったり会ったって何もおかしいことなんてないのだけど、出来ればそんな偶然私が発つまでは起きないでいてほしかったのに。

「久しぶりだな」
「そう、ですね」

 ようやく手帳を受け取るが、後の言葉が続かない私は視線を足元へ滑らせる。冨岡さんは今、どんな顔をしているんだろう。何を考えているんだろう。自分の鼓動の音だけがやけに大きく響く。

「……それじゃ、また」

 長い沈黙に耐えられなくなった私はそう言って踵を返すが、咄嗟に手首を掴まれた以上先に進むことなど不可能で。

「どうして俺を避ける?」
「……避けてなんか」
「嘘をつくな」

怒りに任せた声に、全身が射すくめられる。

「それに海外ってなんだ、まさか黙って行くつもりだったんじゃないだろうな」
「……」
「……俺は、」

 空気がゆらりと揺れた。それは私の目に雫がじわり溜まったせいか、或いは冨岡さんの声が震えたせいなのか。

「そんな大事なこと、童磨からじゃなく苗字の口から直接聞きたかった」

 お願いだから、そんなことを言わないでほしい。私だって、本当は自分から伝えたかった。笑ったままお別れをしたかった。でもそれが無理となると出来ることなんて限られてくるというもの。

「……わかりました」

 多分、これは最後のチャンスなんだと思う。冨岡さんとさよならをし、自分の気持ちを捨て去る、最後のチャンス。

「今から、ちょっとだけ話をしませんか?」
(2020/08/07)

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