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 苗字が話をする場所として選んだのは、自身の住む部屋だった。中に足を踏み入れると、そこに広がるのは距離が近くなる毎に感じていた爽やかな香りと、中途半端に荷物が詰め込まれたいくつかの段ボール。間も無くこの部屋どころか日本を発ってしまうという話が視界を通じてより一層現実味を帯びてくる。

「散らかってますけど、適当に座って下さい」

 台所の方からペットボトルの茶とグラスを二つ持って戻って来た苗字は、小型のテーブルを挟んで俺の向かい側に腰を下ろす。

「本当に行くんだな」
「はい。この部屋ももうすぐ引き払って、後はホテルで生活しようと思ってます」
「……そうか」

 それから先がうまく出てこなくて、会話は早くも途絶えてしまう。会えない内は「今日は一段と冷えるな」とか「今度うちの店の近くに苗字が好きそうな雑貨屋がオープンするらしい」とか、本当に些細なことでも話したいことで溢れていたのに。そして手渡されたグラスに手をつけた時、初めて自分がひどく飢渇していることに気付いた。

「短い間でしたけど、色々お世話になりました」

 表向きは単なる別れの言葉でも、どこか余所余所しさを感じてしまうのは俺の考え過ぎだろうか。そんな辛気臭い挨拶はやめてくれ、と投げかけると苗字は目を伏せて小さく笑った。

「でも私、冨岡さんにはすごく感謝してるんです。初めて会った時から今日まで、本当にお世話になりっぱなしでしたし」
「……」
「って、そんな昔の話覚えてるわけないですよね」

 懐かしい記憶が波紋のように緩やかに浸透し、それから時間をかけてゆっくりと色を成していく。悪いが忘れたことなんて一度もなかった。あの日雨でびしょ濡れになりながら店にやって来たことも、コーヒーを飲みながらさめざめと泣いていた姿も、帰り際に見せた些か笑った顔も、全部。全部。もしかすると、俺の一方通行な恋煩いはこの時既に始まっていたのかもしれない。

「……覚えてると言ったら、どうする?」

振り絞って出た言葉に、苗字の肩がぴくりと動く。

「……またまた」
「嘘じゃない、本当だ」
「……ひどい雨でしたよね」
「そう、だな」

それっきり口を閉ざす苗字だったが、多分考えていることは俺と一緒だ。

「……思えば、あの時から俺はずっとお前のことばかり考えてた」

 聞こえて来るのはドクドクと脈打つ自分の心臓の音と、「え……?」と驚きの色を持つ声。ここまで来た以上、感傷に浸っている暇も無ければもう後戻りだってできない。肺に酸素を取り込み、苗字としっかり視線を合わせる。

「どこに行こうと関係ない。……苗字、俺はお前が好きだ」

 元々存在感のある瞳が、こぼれ落ちそうなほど大きく見開かれる。言ってしまった。遂に自分の気持ちを苗字当人に打ち明けてしまった。うまく伝わっただろうかとやや不安になる俺だったが、長い沈黙を経てから苗字がポロポロと涙を流すのを見て自ずと返事を察してしまう。嫌にしても、まさか泣くほどだったとは……。ちょっとでも可能性を感じていた俺が浅はかだった。とりあえず涙を拭く用にと、鞄の中からポケットティッシュを取り出そうとした時。

「冨岡さんはズルいです」

相変わらず涙はそのままに、苗字は呟くようにして口を開いた。

「今までずっとお店に行かなかったのも、連絡がきてもわざと返信しなかったのも、あれもこれも冨岡さんを忘れるためだったのに……。これじゃ全部水の泡じゃないですか」

 俺を忘れるためって……それはつまり、もしかして。ようやく見つかったティッシュを片手に、苗字の隣にストンと座り込む。独りでに高まっていく感情はどうか自惚れだとか勘違いの類のものではないと信じたい。

「顔を上げてくれないか」
「……すみません無理です」
「……頼む」

俺から受け取ったティッシュを何度か顔に押し当て、ようやく濡れた顔が露わになった。

「……あんまり見ないで下さい。恥ずかしいんで」
「嫌だ」
「なんですか“嫌だ”って」
「しばらく会ってなかったんだ、これぐらいいいだろう」

 罪悪感を逆手に取り、だんだん赤くなっていく苗字の顔を矯めつ眇めつ眺める。そして頬に手を添え、目の下に残っていた透明な粒を指先でなぞると、

「……!」

 何か勘違いをした苗字がぎゅっと目を瞑った。ゴクリ、と一度喉を上下させる。悪いが俺だって男だ。どんな時も理性に打ち勝てるほどできた人間でもないし、そもそも据え膳食わぬはなんたらかんたらという言葉だってあるぐらいだ、今は黙ってそれに倣おうと思う。

 そう覚悟を決め、少しずつ顔を近付けると唇が終着地点である柔らかい感触にそっと合わさった。初めてでもないのにこんなに緊張しているのは、きっとそれは相手が苗字だから。なんとなく呼吸もうまくできなくて、重なっていた部分を離してはそのまま強く引き寄せる。遠慮がちに名前を呼ばれたのはそれから少し経った後。どうした?と返すと苗字の身体が僅かに固まった。

「私が日本に戻ってくるまで、待っててくれますか?」
「……?待つ以外に選択肢があるとでも?」
「だって一年ですよ、一年。その間喫茶店にモデルみたいに綺麗で良い匂いがするお姉さんがやって来たらどうするんですか」
「どうもしない。俺には可愛くて良い匂いがする苗字がいる」
「?!な、何言って……!」

 ワナワナと身体を震わせる苗字の耳元でもう一度好きだと伝えると、俺の背中に回した手にも力が入る。

「……私だって、大好きです」

 気持ちが通っていない時と今では時間の流れ方が面白いほど違って見える。多少の障害が生じたとしても、きっと俺と苗字なら苦もなく乗り越えていけるんじゃないかって。根拠はないが不思議と確固たる自信がここにはあった。

「海外でもメールくらいはできるんだろ?」
「メールだけじゃなく電話も普通にできると思いますけど……」
「そうなのか」
「そうですよ」
「じゃあ何が問題だったんだ?電話もメールもできるんならわざと俺を避けたりしなくたって良かったんじゃ、」
「それは……私の気持ちの問題と言いますか」
「……?」
「……出発前にできるだけ未練を残したくなかったんです。好きな人のことなんて、特に」

 ここからだと耳元までしか見えないのだが、薄紅く染まっているのはそこだけじゃないことも火照ったような身体からして何となく察してしまう。春になるまではたくさん苗字に触れたいし、向こう先会えなくなる分までの時を二人で刻んでいきたい。身体を離し、再度口付けを交わしたところで、その方法は一つの案として脳内に突如現れる。

「……なあ苗字」
「……はい」
「俺と一緒に暮らさないか」
「……はい?」



◇ ◇ ◇





 仕事を終え、家路に着くと時刻は20時を少し過ぎた辺り。恐らく俺の方が早いだろうという予想は見事的中していて、部屋中の電気をつけた後は台所に立って食事を支度に取り掛かる。手のひらサイズのノートを広げ、段取りに沿ってメニューを一つ一つ完成させていく。あと数分で炊飯器の炊ける音も聞こえて来るはず、と思いきや。ガチャリ、と玄関のドアが開く音の方が僅かに早かった。

「おかえり」
「あ……た、ただいまです」

 当初の予定通り、二月下旬に部屋を引き払った名前は引っ越すまでの間俺のアパートで暮らすことになったのだが、慣れないせいか帰宅した時はこうしていつもおかしな日本語を添えている。名前が手洗いやうがいをしている間、テーブルに作った料理を並べていると後ろから驚嘆の声が轟いた。

「うそ……えっ、これ義勇さんが作ったんですか?!」

 今日のメニューはグリルチキンのトマト煮、ミモザサラダ、ポトフの三品。どれもそんなに難易度は高くないものの手が込んで見えるし第一見栄えが良いと童磨が教えてくれたのだが、名前の反応からしてもその言葉に嘘はなかったらしい。ここに入居してからほとんど飾り同様だった台所も、ひょんなことから始まった同棲生活によってようやく日の目を浴びるようになった。「なかなか様になってるだろう」と誇らしげに言うと、名前はちょっと悔しそうに口を尖らせる。

「義勇さん、前に料理できないって言ってませんでしたっけ」
「二人で住むとなってからは毎日童磨から教わっているからな」
「そんな、義勇さんも帰りが早いわけじゃないんですし大変だったら無理しなくても……」
「実は前々からマスターに料理も覚えた方がいいと言われてきたんだ、別に無理などしていない。…それより、米はこれぐらいでいいか?」
「あ、もう少し少なめで」
「これ以上痩せたらどうする。いいから食べろ」
「えー……じゃあ何で聞いたんですか」
「もっと増やした方がいいかという意味で聞いたんだ」

 こうして食事を進めながらも、自然と会話も互いの仕事の話だったり、つけっ放しでたまたま目に入ったテレビ番組の話だったりと流れるように進んでいく。そして少しの空白が生まれた時、名前は「あっ」と何かを思いついたような声を出した。

「義勇さんって明日お休みでしたっけ?」
「ああ、そうだが」
「私も明日はちょっと早く上がれそうなんです。夕方からになっちゃうんですけど、二人でどこか出かけませんか?」
「そうだな。じゃあ会社を出る頃連絡してくれ、迎えに行くから」
「へ……?む、迎えに……?」

 名前の手から箸がするりと抜け落ちる。何かまずいことでも言ってしまったかと軽く振り返ってみても、思い当たるのは会社まで迎えに行くということぐらいで……。名前にとってはそれが嫌なことに該当してしまったのだろうか。

「もし嫌ならどこか近くで待ち合わせでも構わないが……」
「違っ……、嫌ではないです。ただ、」
「ただ?」
「……職場までわざわざ来てくれるだなんて、私ってすごく幸せ者だなぁと思って」
「……流石に海外までは行けないけどな」
「もう、茶化すのはやめてください」

 一緒の時間が減っていく分、こうして思い出はどんどん増えていく。それは名前が微笑んでくれた顔だけでも大事な欠片となり、明日の約束だって振り返った時にそれはもう輝かしい1ページになることだろう。

「……ふふ。明日が楽しみです」
「だな」

幸せなのは、俺だって同じだ。
(2020/09/02)

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