この土日はとにかく最悪だった。冬だっていうのに高温のサウナに入っているかのような息苦しさと熱のせいでベッドからまともに動くことができず、寝ても覚めても生きた心地がしなかったのはまあ普通に考えて金曜日の一件が原因であることは明らかだった。

 今振り返ってみても、あの時自分はどうしてあんなことをしたのか不思議でならない。というのも、俺が住んでいるのはA町で苗字の家とは真逆に位置している。だから本来なら駅でそのまま別れるのが普通なのに、わざわざ嘘をついてまで逆方向に住んでいる苗字を送っていこうとした理由って何なんだろう。

 もっと言えば、童磨との関係に余計な口を挟んだのだってそうだ。苗字の言う通り、確かにそんなの俺には全く関係のないことであるはずなのに、あの日苗字がやけに粧し込んでいたのは童磨と会うためだったと知ってからまるで煮詰まったブラックコーヒーのような黒くてブスブスとした感情が身体中を支配していったのだった。

 寝返りをしてゆっくり目を閉じてみる。……このまま一眠りをし、目を開けたらもう一度金曜日の夜に戻っているなんてことが無いだろうか。そしたら絶対苗字には声を掛けないし、傘だって貸さ………いや、傘くらいは貸してやってもいいか。もしあいつが風邪を拗らせて店に来なくなったらまず童磨がうるさいだろうし、コーヒー1杯で1時間は粘る嫌な客だが一応店の売り上げには貢献しているわけだし。

 そんなどうしようもないことを考えながら枕元にあった体温計を手に取り、熱を計っているとピピッという電子音より先に玄関からピンポーンとチャイムが狭い部屋に響く。どうせ新聞か何かの勧誘だろうと無視して体温計に意識を集中させたが、それも束の間。

「あのー……すいません。苗字ですけど……、」

 ……今、苗字って聞こえた気がしたけどそれは単なる俺の聞き違いだ。第一苗字が俺の家を知っているはずがないんだし、そもそも何の用事があってここまで来るというのか。しかし幻聴だと思い込んだ声はまだ続く。

「突然押しかけてごめんなさい。冨岡さん、具合大丈夫ですか?」

 ガバッと上半身を起こし、ドアを見つめながら瞬きを繰り返す。……嘘だ。こんなの悪い冗談に決まっている。信じ難いこの状況に頭では否定しつつもそっとドアに近付き、覗き穴から外を確認してみるとそこには本当に苗字の姿があって。差し入れを持ってきたからドアの所に掛けておく、という苗字の言葉を遮って、俺は勢いよくドアを開けた。

「!冨岡さん……」
「……なんで」

 なんで、お前がこんなところに?
 そう言いかけたが苗字の顔を見た瞬間、心臓が締め付けられるほど痛くなってそこから先がどうしても出てこない。

「えっと……今日喫茶店に行ったら冨岡さんが風邪で休んでるって聞いて、それなら差し入れを持っていこうと思って。あ、ここの住所はマスターに無理を言って教えてもらいました」

勝手な真似をしてごめんなさい、と謝られたが俺にとってそんなのどうでもよかった。

「それは別に構わない」
「……ありがとうございます。でも安心してください、仕事柄個人情報は必ず守るとお約束しますので」

 まだ少しぎこちなく笑いながら、苗字は持っていた袋を俺に差し出す。チラリと見えた中にはペットボトル飲料やコンビニ弁当等すぐに食べられそうなものが色々詰まっていた。

「これ、マスターと私からの差し入れです。よかったら食べてください」
「……あ、ありがとう」

 受け取ろうと一歩踏み出したその時。目の前がサーッと暗くなり、俺は咄嗟に苗字の肩を掴んだ。

「ちょ……大丈夫ですか!?」
「……悪い。急に立ち眩みがして」
「とりあえず横になった方がいいと思いますよ。ほら、そのまま掴まってて下さい」

 肩を組んだまま、「ちょっとだけお邪魔しまーす……」と遠慮がちに足を踏み入れる苗字の身体は俺なんかより全然細くて、お前こそ大丈夫なのか、毎日ちゃんと食ってるのか?と心配になったが、それを上回るような温かい気持ちに俺は戸惑いを隠せなかった。狭い部屋が故少し歩いただけでベッドに到着してしまい、当然だが苗字は俺から身体をゆっくり離していく。

「冨岡さん、お腹空いてないですか?もし迷惑じゃなければ最後にキッチンお借りしたいんですけど」
「え……」
「な、なんですか?」
「苗字、料理できるのか?」
「あはは、自慢じゃないですけど料理は昔から全然ダメで。だからせめてこれを温めてから帰ろうと思います」

 レトルトのお粥をヒラヒラさせながら自嘲気味に笑ったかと思えば、苗字は一度目を伏せてから何かを決心したような顔でこちらを向く。

「……この前は失礼なことを言ってすいませんでした」
「……いや、苗字が謝る必要はない。俺の方こそ余計な口出しして悪かった」

 すんなり言葉が出てきたことに、自分が一番びっくりしている。喫茶店では俺には目もくれず、店の奥にいる童磨のことばかり見ている苗字にはなぜか文句の一つでもぶつけたくなってしまうのだが………って、これだと何だか俺が苗字に気があるかのような言い方じゃないか。第一、あいつは客だぞ?それ以上でもそれ以下でもない関係はこれからも苗字が店に通い続ける限りずっと続いていくのであって、その関係を崩していいのは俺ではない。と、ここまできて俺はあることに気付いてしまう。
……もし苗字が童磨と付き合うことになったら、苗字はもう店に来なくなるんじゃないか?いや、今だって童磨目当てで通っているわけだから来なくなって当たり前なんだけども。
──なら、俺に出来ることはこれぐらいしかない。

「苗字」
「?はい」
「童磨はよくわからない男だが、仕事に関しては真面目だし、接客だって俺より遥かに上手い。見習わなければならない所もたくさんある。だから、仕事第一の苗字とは多分合うんじゃないかと思う」

 この前は童磨のことを悪く言ってしまったが、苗字が安心して付き合えるように後押ししてやるのが正解なんじゃないか、って。そう思ったのである。

「悪いけど俺が言えるのはこれぐらいだ。あとは付き合ってから苗字自身が色々知っていけばいい」
「……あの、冨岡さん?」
「どうした」
「私、童磨さんとは付き合いませんし、これから先もそんな予定ないですけど……」
「……は?」

 いや、驚いたら誰だってこんな反応になるだろう。これだけ俺があれこれ考えたのになんだ付き合わないって。

「苗字、この間あいつのこと好きだって言ってただろう」
「そうですけど、でも……デートをしてみて気付いたんです。自分の本当の気持ちとか、あと、冨岡さんが言ってた言葉の意味とか……」
「……そうか」
「って冨岡さんは病人なんですからいいから横になってください!しっかり休まないといつまで経っても風邪治りませんよ!」

 コロコロと表情を変える苗字を見て、自然と息が溢れた。何で自分がこんなにも安心しているのか、そんなのは大した問題じゃない。目の前には苗字が座っていて、これからも店で苗字に会うことができる。それで十分じゃないか。

「あ……ごめんなさい、すぐにお粥用意しますね」

 思い出したかのようにレトルトのお粥を持った苗字はスッと立ち上がり、そのままキッチンに向かうのかと思いきや「冨岡さん、」と急にこちらを振り返って、

「……早く元気になってくださいね。私、冨岡さんが淹れたコーヒーを飲まないといまいち調子出ないんですから」

そう言って今度こそキッチンに行く苗字に目が釘付けになる。
……なんというか、その。今のは反則なんじゃないか?

(2020/06/07)

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