去年の今頃、俺は何とも不思議な出会いを果たした。
それは秋晴れと呼ぶに相応しいほど天気の良い日で、いつものように早めの時間帯に外の掃き掃除をしている時でも、澄み切った空気とカラッとした日差しが何とも肌に心地良かった。
「冨岡さん、おはよう。今日も良い天気ねぇ」
隣に店を構える和菓子屋の店主が箒を手に表へとやって来る。そうですね、とだけ答える俺に、初老の女性である店主は相変わらず人当たりの良い笑みを浮かべている。人と会話をするのは嫌いだが、祖母を思い出させる彼女との会話はそんなに嫌じゃなかった。
「マスターはお元気?」
「はい」
「そう、それは良かったわ。人間元気が一番だものね」
「はい」
こうして時たま世間話を挟みながら掃除をしていると、店主が思い立ったかのように口を開く。
「冨岡さん、秋の空は七度半変わるって言葉知ってる?」
「?いえ、初めて聞きました」
「秋の空はとても変わりやすいっていう意味の言葉なのよ。だからもし外に出たりするときは十分気を付けてね」
亀の甲より年の劫と言うべきか。あれほど穏やかだった天気も午後に入ると次第に雲行きが怪しくなっていき、14時を回る頃にはいよいよ本降りとなってきて俺はじっと窓を眺めた。
マスター、さっき買い出しに出て行ったけど大丈夫だろうか。まぁ用意周到な人だからきっとこうなることも予測しているとは思うけど。
「いらっしゃ……」
カランコロンと入り口のベルが鳴り、俺はグラスを拭く手を止めて顔を上げた。……そして、硬直した。予想していた通り、ちゃんと傘を持って出て行っていたマスターは足元以外ほとんど濡れていなかったのだが、問題は隣にいる女だ。
全身びしょ濡れな上に、蒼白い顔、サイズの合っていないスーツ。…マスターの意図はわからないが、この女は怪しい。全てが怪しすぎる。俺の本能が全力でそう呼びかけていた。
「義勇、このお嬢さんに何か温かいものを」
「は?」
「私はタオルを持ってくるから」
「ちょ、マスター……!」
そのまま二階へ上がっていくマスターを引き留めることに失敗した俺は、しぶしぶその女に目を向ける。すると女は今にも泣きそうな顔をして俯くので、そうなると分が悪いのはこちらの方だった。……仕方ない。観念した俺は重い口を開いて声をかけてみる。
「コーヒーか紅茶」
「えっ?」
「どっちか選べ」
「…えっと、じゃあ、コーヒーで」
この感じだと、おそらくまともに食事だってしていないのだろう。そう思った俺はコーヒーと、今朝のモーニング用だった食材を適当なプレートに盛り付けて女に提供する。……頼むマスター、早く戻って来てくれ。どうもこの空間は居心地が悪すぎる。迫りくる焦燥感と戦いながらチラチラと二階の方を見ていると、「っう、」とすすり泣く声が聞こえて俺は唖然とした。は?こいつ、何で泣いて……?!
話を聞くと、女曰く今は就職活動の途中だがなかなか内定が貰えず、苦戦していてもう嫌だ、とのことだった。
「……」
俺は考えた。というのも、俺は元来女という生き物が苦手なのだ。表面上は虫も殺さないような顔をして、腹の中では何を考えているのかわからない。過去に付き合ってきた女も例外ではなかった。料理が得意と言いながら米の炊き方すら知らなかったり、子供が好きだと言いながらいざ泣いたりゴネたりしている子供を目の前にしたらあからさまに嫌そうな顔をしたり……。そんな嘘偽りだらけの交際は長く続かず、痺れを切らした俺は数か月もしない内に一方的に別れを切り出す、それがお決まりとなっていた。
『──じゃあこっちだって言わせてもらうけど、義勇さんって全然喋んないし、何考えてるかわかんないし、一緒にいても全然楽しくなかった!あなたみたいな人こっちから願い下げよ!』
関係の終わりにはこういった憎まれ口が必須だったが、そういうお前らは今まで俺と腹を割って話したことが一度でもあったのだろうか。最後まで自分のことを棚に上げてベラベラと口を動かす女を見て、俺は思うのだった。やっぱり女は苦手だと。
……しかし、今はどうだろうか。
初対面であるにもかかわらず胸の内を一言一言必死に吐き出す姿に、俺は少なからず妙な感覚を覚えたのだった。それは自分の中にある正義感から派生したものかもしれないし、或いは全く違うものかもしれない。それでも、とにかく自分も応えないと、という一心から俺の口数は自然と増えていった。
結局、その後も女はわんわんと泣き続けるし、タオルと着替えを持って戻って来たマスターには俺が泣かせたのではと勘違いされるしで色々面倒ではあったが、心の中に残っていたのは確かな充足感だった。
見知らぬ女にアドバイスをするという、人生で初めての経験をしてから数週間後。たまに自分の言動はあれで良かったのか振り返ったりもしたけど、あの女が店に来ないということが全ての答えなのだろう。だから、もう考えることはやめにした。別にあいつがこの先どう生きて、どんな仕事に就くかなんて俺には最初から関係ないことなのだ。
客足も途絶えた昼下がり、そろそろ休憩に入ろうかと思った矢先。店のドアがゆっくり開いて、「……あ」どちらともなく声が漏れた。
「どうも、こんにちは」
前回とはだいぶ違う印象だが、こいつは多分……いや、間違いなく数週間前に会った女だ。
「あの、この前はありがとうございました。コーヒー、すごくおいしかったです」
「……別に、礼を言われるようなことはしていない」
「実は私、これから最終面接なんです。だから、願掛けとしてまたコーヒー貰ってもいいですか?」
憑物が落ちたかのようなスッキリした表情に、一瞬、ほんの一瞬だけ言葉を奪われた。
「用意するから座って待ってろ」
これが願掛けになったかはわからないが、この女、苗字名前が某企業の採用通知を持って現れたのはそれからまた数週間後の話で、社会人として働くようになってからは朝なり昼なり関係なく頻繁に顔を出すようになった。それはいい、いいのだが、問題は三ヶ月前から童磨がうちの店で働き出してからだ。
それまで苗字はカウンターの隅っこに座っていたくせに急にど真ん中(しかも俺の目の前)を好んで選ぶようになったし、おまけに女の目をして延々とキッチンを眺めているので俺としても非常に仕事がやりにくい。何なら寒気だって走る。はあ、これだから女ってやつは……。
「あれー義勇さんどうしたんですか?なんか顔怖いですよ?」
「……」
「あっはっは、もう無視しないで下さいよ〜傷つくなぁ」
そして、今日に至る。元凶はお前だと目で訴えかけるが、童磨には全く伝わっていないようで、傷つくと言った直後に鼻歌を歌い始めたこいつもなかなかの曲者だと思う。
「そろそろ名前ちゃん来る頃かな〜?ねえ義勇さん?」
「さあな」
「……義勇さんにだけ特別に教えちゃいますけど、ここだけの話、俺ちょっと名前ちゃんのこと気になってるんです。可愛いし、真面目そうだし。あ、あと変にスレてないっていうか」
「……」
「だからそのうち狙っちゃおうかな〜なんて、」
「何が言いたい」
「え?」
「さっきからお前は何が言いたいのかと聞いている」
「……うーん、要は名前ちゃんが俺のものになっても文句言わないで下さいねってことです」
意味がわからない。どうしてわざわざそんなことを口に出す?それに、文句って何のことだ?含みのある笑みを浮かべている童磨と無言の対峙を続けていると、「こんにちはー」と間が抜けた挨拶をしながら苗字が顔を出した。
「あ〜名前ちゃん!今ね、ちょうど名前ちゃんの話してたところなんだよ」
「えーそうなんですか?」
「ねえねえ、前から気になってたんだけどさー名前ちゃんって今彼氏とかいるの?」
「ええっ?!や、やだ、童磨さんってば何ですかいきなり……!」
「童磨、そんなの見てわかるだろう。失礼なことを聞くな」
「あのー冨岡さんが一番失礼ってわかってます?」
「ねー名前ちゃんどうなの?いるの?いないの?」
「えっと……いないです、けど」
頬杖をついた童磨がぐっと身を乗り出し、苗字に顔を近づける。
「じゃあさ、名前ちゃん、今度俺とデートしてよ」
公私混同もいいところだ、と口を挟みかけたが、「え……」と頬を赤らめる苗字を見たら何も言えなくなってしまう。
突如流れ出した気色の悪い空気に、俺は顔を顰めることしかできなかった。