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「名前ちゃんが初めてこのお店に来てから、もう一年になるね」

 喫茶店のマスターである産屋敷さんにそう言われて、ふと店内に飾ってあるカレンダーに目を向ける。…本当だ、あれからもう一年も経つんだ。あの時のことを思い出すと今でも胃がキリキリと痛くなるし、油断していると冷や汗すら出てきてしまう。

「当時は学生だった名前ちゃんも今じゃ立派な社会人か…。私も歳を取るわけだ」
「何言ってるんですか〜マスターは全然お変わりないですし、それに立派だなんてそんな…」
「ああ、全くもってその通りだな」
「はいいい?!それ冨岡さんが言うセリフじゃないですから!」
「どうだい名前ちゃん、仕事は楽しい?」
「はい!残業続きで毎日ヘトヘトですけど、それでもやっぱり楽しいです」
「残業が多いのはここで油を売っているからだろう。それを飲んだら早く仕事に戻れ」
「なっ……!」
「こら義勇、失礼なことばかり言うんじゃない」

 事実、冨岡さんの言う通りだった。ウェブライターをしている私は、決まった勤務時間を設けない所謂フレックス制で働いている。だから出勤も退勤も思いのまま、昼休憩だって取り放題なのだ。まあ、裏を返せばこうやって昼休憩を長く取っているだけ仕事が終わるのだって必然的に遅くなるんだけど。今日は童磨さんがお休みのようだし、食事が済んだらすぐに帰る予定がここに来たらなぜか長居したくなってしまうのだ。

 思えば、初めて来た時や通い始めの時は冨岡さんがここまで嫌な人だという印象は無かった気がする。いや、むしろぶっきらぼうな態度の中にも一握の優しさが垣間見えて……ってなにフォローしてるんだか。




 それは、去年の秋のことだった。四月から続けている就職活動は未だに終わる気配を見せず、日に日にクタクタになっていくスーツを着て私はこの日も某企業の面接に出向いていた。決して人のせいにするわけではない、ないんだけど、去年卒業した一つ上の先輩たちは「就活なんて余裕余裕〜!」と、就活を始めて間もない段階で内定をいくつもいくつも貰っていて、だから自分もまあ大丈夫だろうという根拠のない自信を持っていた私は大した危機感を抱かないまま四月までのうのうと過ごしていた。

 しかし、景気というものは待った無しに簡単に形を変え、私が就活を始める頃には就職氷河期と呼ばれる暗黒期に突入してしまい。エントリーをしようにもまず大学名ではじかれるし、何とか面接までこぎ着けても一次面接の段階で簡単に蹴落とされる。そんな生活は半年以上続き、不採用の文字を見るたびに私の心の支柱は少しずつ傾いていった。

 何十社もの数をこなしていると、面接の途中で「あ、こりゃ落ちたな」とわかるようになり、それは今日の面接でも感じた悪い悪い予感だった。重い足を引きずりながら駅に向かって歩いていると、空から小粒の雨が落ちてきて、「うわ、最悪…」と思った僅か数秒後。雨はバケツをひっくり返したような激しいものに変わり、慌てふためく通行人を他所に、私は黙ってただその場に立ち尽くしていた。
……なんかもう、どうでも良いや。
どうせ自分なんてどの会社からも必要とされていないんだし、私がこの世からいなくなったって誰も困りはしない。だから、こうして雨に濡れようが誰も──
「……お嬢さん」
「……」
「……お嬢さん、」
「……え?」
「大丈夫かい?」

 ゆっくり視線を地面から上へと移す。いつの間にか目の前には背の高い男性が立っていて、ニコニコと慈悲深い笑みを浮かべながらこちらを見ていた。

「大変だ、こんなにびしょ濡れになっちゃって……。私のお店がすぐ近くにあるから、少し休んでいくといい」
「……えっと…いや、大丈夫です」
「このままだと風邪をひいてしまうよ。さ、早く」

 いつもの私なら見知らぬ人の声掛けなんて100パーセント無視してたし、ましてや見知らぬ人の傘に入るだなんて絶対絶対絶対ありえないことだった。…でも、この人の声からは不思議と下心や悪意といったものが全く感じられなくて。ちょうど自暴自棄だったのも相まって、私は男性が案内してくれた場所まで付いていくことになった。
 しばらく歩いたところで到着したのは一軒の喫茶店だった。「お先にどうぞ」と男性に促されるまま店に入る。

「いらっしゃ……」

 私の姿を捉えた途端、カウンターに立っていた店員さんの顔が一気に強張った。無理もない、こんな全身びしょ濡れかつ得体の知れない女が突然敷居を跨いできたら誰だってこうなるよ、うん。

「義勇、このお嬢さんに何か温かいものを」
「は?」
「私はタオルを持ってくるから」
「ちょ、マスター……!」

 にこやかな男性が姿を消すと、義勇と呼ばれたその人と再び目が合った。面接官を彷彿させるような、鋭くて冷たい瞳。私が今一番苦手としているものだった。
しかし。

「コーヒーか紅茶」
「えっ?」
「どっちか選べ」
「…えっと、じゃあ、コーヒーで」

 私の印象とは対照に、店員さんは敵意のない様子でコーヒーを準備したり、たまにキッチンの方に行ったりと忙しそうに動いている。ん?私、コーヒーしか頼んでない……よね?いつしかカウンター席にはコーヒー以外にもトーストやサラダが乗ったプレートが用意されていて、状況が呑み込めず目をパチクリさせる私に店員さんはたった一言、「座れ」とだけ言い放った。

「あ、あの、これは……?」
「今朝のモーニングの余りだ」
「いや、頼んでませんしそもそも今ってもう午後……」
「空腹時にコーヒーを飲んだら胃が荒れる可能性がある。だからコーヒーはそれを食べてからにしろ」

 …よくわからないけど、店員さんなりに気を遣ってくれているってことでいいのかな。でも、何でお腹が減ってるってわかったんだろう。言葉足らずの店員さんに戸惑いながら私はカウンター席に座り、いただきますと呟いてから食事に手をつける。……おいしい。こんなにおいしいものを食べたのって、いつ以来だっけ。トーストやサラダを夢中で食べ進め、そして最後にコーヒーを口に入れた瞬間、私の目頭はじわじわと熱を帯びていった。

「っう、」
「おい、なんで泣く…!」
「……すいません、こんなにおいしいコーヒー飲んだの久々で、びっくりしちゃって」

 店員さんもドン引きだろうなぁ、と思いながらも涙は次から次へとボロボロ流れてくる。
 それと一緒に、胸の内に溜め込んでいた言葉も自然と口から溢れ始めた。

「……就活が、うまくいかなくって」
「……就活?」
「……はい、私……昔からずっと、ライターになるのが夢で。そのためにわざわざ東京の大学に進んだのに、まだ一つも内定貰えてなくって……ははは、もう秋だっていうのに、本当、嫌になっちゃう」
「……」
「……ほんっと、もう……嫌、」

 初めて会った人にこんな醜態を晒して、私は一体何がしたいんだろう。どんな言葉を期待しているんだろう。今更ながら店員さんの反応が怖くて下を向いたまま黙っていると、いきなり一冊の雑誌が視界に入り込んできた。

「これはうちの店に置いてある求人誌だ。俺には関係ないものだから実際に読んだことはないが、毎月厚さは変わらず大体こんな感じだ」
「……?」
「仕事なんて選ばなければ山ほどある。仮に今年希望の仕事に就けなかったとしても、他の仕事をしながら来年だって再来年だってまた挑戦すればいいだけの話だろ」

 頭を殴られたような感覚だった。勝手に焦って、自己嫌悪に陥って、スーツ姿の大学生は全員敵だと思い込んで。今までずっと自分を追い詰めていたのは……もしかして、私…?

「それともあれか、お前が目指しているライターとやらは大学を卒業したばかりの人間しかなれないものなのか」
「……いや、多分そういうわけじゃ、」
「ならそうやって悲観するな。泣くのだってまだ早過ぎる」
「……ううっ」
「だから!!さっきから泣くなとあれほど──」

 この日、私は救われた。翌日からまた引き続き就活を頑張ろうと思えたのも、粘りに粘って何とかとある企業から内定を貰うことができたのも、全てはこの出会いがきっかけだと思っている。だから、私がこのお店に通うのは今でこそ童磨さんという新たな理由ができたものの、根底にあるのはいつだってマスター(と冨岡さん)に対する感謝の気持ちなのだ。




「──それじゃ、お代ここに置いときますね」
「待て、50円足りないぞ」
「……あ、本当だ」
「……」
「ご、ごめんなさい!お願いですからそんな怖い顔で見ないで下さい…!」

 本当に、出会った時のあの優しさは一体どこへやら……。答えの出ない問いに、私はただただ苦笑いを浮かべた。

(2020/05/09)

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