06

 最近、影山は変わったと日向は感じていた。バレーにおいては影山飛雄という存在を認識してからは誰よりも抜け目の無い人物である事は間違い無かった。しかし、私生活においていうと影山という人物は誰よりも抜けているというのが日向の中でのランク付けであった。誰よりもと言うと語弊があるかもしれない。自分よりも抜けているかと言われるとそこは甲乙付け難い。しかし、そんな影山が最近は抜け目無く日常生活を過ごしていると日向は思っていた。

 それはいつもの様に次の授業まであと数分となった時、次の教科が英語で、今日は辞書を使うので用意しておくようにという教師の通達を思い出し、喉がひゅん、と締まる思いがした日。

「おい日向お前電子辞書持って来るの忘れただろ」
「どうしよっ! 俺こないだも忘れて怒られたっ! 頼むっ! 貸してくれ!」
「いや俺お前と同じクラスだし。俺だって使うわ」
「あっ! そっか」

 自分のテンパり具合をクラスメイトに笑われるが、日向自身はそれに構っている余裕など無い。前の授業でも忘れ物をし、英語担当である小野先生からこっぴどく叱られたのを思い出すと今でも背筋が凍る。どうにかしてこの現状を打破しなければと必死で脳を働かせていると笑っていたクラスメイトが「そういえば3組も今日英語あるって言ってたな〜」と救いの言葉を差し出してくれる。日向はその言葉に縋るように「ほんとか!」とクラスメイトを見つめる。

「おう。確か俺らとおんなじ場所やるみたいだったし、電子辞書借りれんじゃね?」
「サンキュー!」

 その言葉を聞き終わると同時に日向は教室を駆け出し、一目散に3組へと足を向ける。3組であれば影山が居るはず。3組の中でも顔見知りである人物の顔を思い浮かべるが、日向はそこで気持ちが沈むのが分かった。影山も俺とおんなじように辞書を忘れている可能性が高い。しかし確認をする前から諦めるよりかは、ダメ元でも良いから確認をしておきたい。これが溺れる者は藁をも掴むか、などと関係のない授業内容が頭に流れてきて、それをブンブン、と頭を振って追い払う。頼む、影山……! 持っていてくれ。2割程度の希望を持って3組へと辿り着き、窓際の席に座る影山に声をかける。

「影山! 辞書! 持ってるか!?」
「……じしょ?」

 辿り着いて影山を見つけるなり声をかけると隣の席に座るみょうじと話していた顔を日向の方へと向け、日向が言った言葉をオウム返してくる。その様子を見て日向はやはりダメか…とうな垂れる。諦めが9割近くなった時、「あぁ、辞書か。持ってるぞ」と残り1割となった希望の言葉が影山の口から出てきて日向は思わず顔を上げた。

「何で!」

 まさかの大逆転劇にまずはじめに何故だという疑問が口を吐いて出る。俺と同じくらい抜けている影山が何故電子辞書を忘れずに持ってきているのだ。それが助かったという気持ちよりも先に湧いてきた。

「何でって……みょうじに教えて貰ったからな」

 そう言って辞書を差し出す影山の表情が少し得意気で日向は首を捻る。それはみょうじさんが偉いのであって、決して影山が誇る事では無いのでは……? そんな疑問へと疑問が移り変わるがふふん、と鼻を鳴らしそうな程に影山の表情は勝ち誇っていたので、口には出せなかった。

「悪ぃ! 次の時間返すから!」
「お前、自己管理がなってないな」
「んだとぉ! お前に言われたく無ぇ!」
「俺は事実、持ってきている」
「ふんぐぅ……!」
「……ふっ」
「んぐぅっ!!」

 しかし、口を開けばお互いに競い合ってしまう性分の為例に漏れず今回もああ言えばこう言う状態になりかけていた時、「日向くん、時間大丈夫?」と心配そうにみょうじから言われ日向はハッとする。次の時間まであと数分しかない状態で自分の教室を駆け出してきていたのだ。時間はもう無いに等しい。

「やっべ! 影山これ借りるからな!」

 そう言って廊下を駆け出す時に一瞬だけ影山の机が視界に入る。しかし、目線は直ぐに廊下へと向き、全速力で走って行く。間に合え、どうか間に合ってくれと祈る気持ちも虚しくチャイムと同時に入室をした日向は忘れ物で怒られる事は無くとも、結果的に小野先生にこっ酷く叱れるハメとなってしまった。

「日向! お前はいつになったらバレー以外で本気を出すんだ!」
「すみません……」

 ぺこりと頭を下げて自分の席へと戻り、教科書すら出ていない自分の机を見て、先程一瞬だけ視界に入った影山の机を思いだす。

「アイツ……教科書もノートもちゃんと出てたなぁ」

 授業開始前から教科書ノートを取り出し、万全の準備を終えていた影山の机は影山の机では無いようだと日向は疑いの気持ちが湧くが、あの席に座っていたのはまぎれもなく影山だった。アイツに一体何が起こっているんだ? と影山から借りた電子辞書を見つめてみるが、その答えは日向には出せそうもなかった。
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