確かにあったぴかぴかの傷

 走って痩せろと鯉登に言われ、杉元さんから投げ捨てられた谷垣さん。本当なら「なんてひどいことを」と言う所だけど、谷垣さんが太り過ぎているのは認めざるを得なかったので、申し訳ないけど私も見捨てさせてもらった。その谷垣さんが村に到着するのを待っている時、杉元さんから「なまえさん、もしかして狙撃兵だった?」と先ほどの続きを問われた。

「……はい。兵士かどうか、はちょっとアレですけど」
「そういやさっきも微妙な感じの言い方だったよな。なんかあんの?」
「その、」

 あ、言いたくなかったら別に無理しなくて良いから――杉元さんはさっきみたいに素直に優しい言葉を重ねてみせる。その杉元さんに微笑み、「正確には鶴見中尉殿に拾われただけで、正式な兵士ではないんです。まぁ、戦場で戦いはしましたが」と身を明かす。私は、私がしてきたことを言い逃れするつもりはない。

「私、家庭環境があまりよろしくなくて。それで、ある日ちょっとした事があって。それを助けて下さったのが鶴見中尉殿でした」
「へぇ、鶴見中尉が人助けか。ちょっと想像出来ねぇな」
「……杉元さん、鶴見中尉殿がお嫌いですか?」
「嫌いっつーか、いけ好かねぇっつぅか」

 杉元さんはすごいな。上官相手でも自分の感じるものを信じ、その感性でその人を判断出来るだなんて。私なんて未だに“嘘なんじゃないか”っていう希望的観測に縋ろうとしているというのに。ウラジオストクで言われた「キミは、もう必要ない」という言葉に、鶴見中尉殿の本音はないと今でも信じたくて堪らない。

「にしても、なんで今は軍から離れてこんなとこに?」
「怪我をしたんです。狙撃手として腕の傷は致命的でした。その怪我の治りが遅く、結果的に私はそこまで役に立てませんでした。だからですかね。戦争終わりに鶴見中尉殿と訪れたウラジオストクで、“これからはここで生きていけ”と言われたんです」
「鶴見の野郎、やっぱひでぇヤツだな」
「……いえ、そんなことありません。鶴見中尉殿には、本当に良くして頂きましたから」
「そっか……。でもさなまえさん。あの地に立った人間に、役立たずなんて居ねぇよ……」
「……杉元さんはやっぱり優しいんですね」
「そんなことはないさ、」

 杉元さんの視線がふっと逸らされる。この人は、いつも悲しい顔をしているな。こんなに優しい人なのに、この人にも深い傷が刻まれている。その傷の深さは多分きっと、私なんかよりもずっとずっと深い。

「おいなまえ。薬を買って来い」
「唾でも付けとけば?」
「なッ……! これは上官命令だぞ!」
「だから鯉登は私の上官でもなんでもないし」
「貴様ァ……月島ァ!」

 たかがクズリに噛まれたくらいで大袈裟な。杉元さんの傷を見た後に鯉登の怪我を見ると、本当にどうでも良いと思ってしまう。絡んできた鯉登を適当に躱せば、鯉登は口癖のように月島軍曹を呼び、月島軍曹と共にアイヌの家の中へと消えてゆく。その姿を見届け溜息を吐くと、隣に居た杉元さんがこの日初めて柔らかい笑みを浮かべた。

「なまえさん、鯉登少尉と仲良しだね」
「エッ!? どこをどう見て!?」
「言いたいことちゃんと言えてる」
「……わ、私は、誰にでもそうでしたよ。“女だから”とバカにしてくる男が居たら急所蹴り上げてましたし」
「ひゅッ」

 急所を蹴り上げる――その行為を想像したのか、杉元さんの喉から変な音が鳴った。その様子に笑い声をあげていると、「なまえさん、やっぱアシパさんみたい」と杉元さんの表情が緩む。アシパちゃん――あの、瞳が綺麗な女の子。私と似てるって……もしかして。

「アシパちゃんも蹴るんですか?」
「いや、そこまでは……ハハッ」

 苦笑しつつ、「でもまぁ……強い所とか。似てる」ともう1度微笑みを浮かべ写真を見つめる杉元さん。杉元さんがどれだけアシパちゃんのことを想っているかが分かれば分かるほど、私の中に罪悪感のようなものが生まれる。……尾形、なんでアシパちゃんを連れて行っちゃったの。尾形は今、何を考えてるの?

「俺たち、金塊を探しててさ」
「金塊?」
「そう。アイヌの人たちが隠したって言われる金塊があって、俺ら全員で争奪戦の真っ最中」
「そんなことが……」
「そんで色々あったんだけど、ようやく――って所で尾形の野郎が掻き乱しやがった」
「……尾形も金塊を狙ってるんですか?」
「分かんねぇ」

 静かに首を振る杉元さん。尾形が金塊を望むとは正直考えにくい。果たして尾形がそんなものに執着するだろうか。尾形とはそれなりの時間を一緒に過ごしたはずなのに、尾形のことがまったく分からない。……鶴見中尉殿のことも、尾形のことも。私には、分からないことだらけだ。

「尾形に会ったら、ぶっ殺してやる」
「ぶ、ぶっ殺……尾形、杉元さんに何したんですか?」
「俺の脳天撃ち抜きやがった」
「の、脳天ッ!? いやそれ死ぬじゃないですか!」
「普通だったら死ぬよな」
「死んでないですよ!? 杉元さん、ここに居ますよ?」
「そう。俺、死んでナーイ!」
「ギャッー!」

 杉元さんと2人して悲鳴を上げていれば、谷垣さんが巨体を揺らしながら集落へと姿を見せた。谷垣さんを迎えに行きながら杉元さんがふと溢した言葉。「俺は不死身の杉元だ。まだあんな弾では死ねない」そう言い放つ杉元さんの表情は、悲しみでも、慈愛でもない。怒りのような決意だけが浮かんでいた。



「臭い臭いッ。何を塗っているのだ!?」

 家に入るなり、独特の獣臭が鼻腔を駆け抜けた。匂いの出どころは先ほどクズリに噛まれ負傷した鯉登。どうやら患部に熊の油を塗っているらしい。その背中をじっと見つめていると、鯉登が少し頬を染めながら「見、見るなッ」と身を捩る。いや、こちとら男の裸なんて腐るほど見てきてるんだわ。それを今更恥ずかしがられた所で……。いやまぁ、良く鍛えられた良い体してるとは思うよ、鯉登くん。

「俺チカパシ。ちんちんが勃起するって意味だ!!」
「ボッキ?」

 ぶっと思わず吹き出してしまった。鯉登の上半身なんてどうってことないけど、子供から放たれる言葉にしてはいささか刺激が強い。驚き咳き込んでいれば、杉元さんがアイヌの人々は小さい子供のことを、病魔が近寄らないように汚い名前で呼ぶ風習があることを教えてくれた。なるほどと納得しつつ、続けて名前を教えてくれた女の子――エノノカちゃんの名前の由来は「フレップたくさん食べてゲ〜って全部ゲボしたから付いた名前」らしい。
 奥ゆかしい名前だなと笑っていれば、アシパちゃんもエノノカちゃんの家でフレップを食べたことを知る。

「連れの男たちが居なかったか?」
「3人居た」

 エノノカちゃんの言葉によって、再び思い浮かぶ映像。谷垣さんが持っていた写真と、杉元さんが持っている写真。そのどちらともが私の知らない人。そんな人たちと、何故尾形は第七師団を離れ行動を共にしていたのだろう。……知りたい。私も、尾形たちを追いたい。

「俺たちはこれから北上する。なまえとはここまでで別れよう」
「……あの、」
「どうした」
「……いえ、なんでもありません」

 でも。私はもう、第七師団に関わる理由がない。尾形に、みんなに、何があったのか。それを知りたいという気持ちは、最早私のワガママでしかない。そんな勝手な理由で一緒に行きたいなんて、月島軍曹には言い出せない。私はもう要らない人間なのだから。

「なまえさんも一緒に来てくれねぇか」
「えっ?」
「さっきの狙撃、めっちゃ凄かったし。それにロシア語だって話せる。そんな人が1人居てくれたら俺も助かる」
「でも……、」
「杉元、勝手を言うな。なまえはもう関係ないんだ」
「俺だってもう除隊した身だ。そっちの事情なんて関係ねぇ。アシパさんを探す人は1人でも多い方が良い」

 2人の視線が私を向く。その是非を問う視線をうまく見つめ返すことは出来ないけど、「私は……」とポツリと呟けば、2人が言葉を待とうとしてくれているのが分かった。

「軍を離れてから今日まで、皆さんがどうなったか知りたかったです。私だけがいち抜けしてしまったような気がして、気が気でなかったです。だから……もし、もし許されるなら、私も一緒に行きたいです」
「良いのではないか?」

 誰よりも早く声をあげた人物。その人はテカテカになった背中を見せつつ、「まぁなまえ1人増えた所で、戦力増強になるかは分からんが。共に旅をするとなれば、なまえは私の部下ということだ」と何が楽しいのか、声高に笑い声をあげる。

「……なまえは本当にその選択で良いのか?」
「逆に、良いですか?」
「……なまえがそうしたいのなら。この旅でのことは、全て私に任されている」
「月島軍曹……。ありがとうございます」

 あまり肯定的ではなかった月島軍曹だったけど、「分からないままなのは辛いだろう」と暗い表情浮かべながら同行を許可してくれた。……やっぱり、月島軍曹は昔からなんだかんだ言って優しい。

「月島軍曹と杉元さんのお役に立てるように、頑張ります!」
「おいッ、貴様の上司はこの私だぞ!」
「うるさい鯉登」
「キエエッ!」




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