スチェンカ

 “北へ行く”という情報だけではまだ弱い。それでも、行かないことには目的地にすら辿り着けない。とりあえず出発しようとみんなで準備を整えている時、「この犬は雇えるのか?」とエノノカちゃんに問う鯉登の声が聞こえてきた。エノノカちゃんはエノノカちゃんで、「雇えるよ」とそろばんを取り出しニヤリと笑みを浮かべている。鯉登は「当てもないのにむやみやたらに歩くなど非効率だ」とか言ってるけど。

「どうせ歩きたくないとかでしょ」
「な、違ッ、私はそんな柔な理由などではなく、」
「あーはいはい。ボンボン少尉はお金があるから良いですね」
「貴様こそ! 前は上等なリボンを付けていたではないか!」
「……。Вы можете обманутьぼったくっても良いからね
「おい、今良くないこと言っただろう。お金を巻き上げろとかなんとか」
хорошоハハッ

 鯉登は意外と核心を突いてくる。上等なリボン――。確かに、私には不釣り合いなほど可愛らしいリボンを昔は肌身離さず身に付けていた。そんなこと、よく覚えてるな。

 たくさんの物を失った私が、どうしても捨てられないもの。小ぶりだけど素材が上質なものであることを示している白いリボンと、それよりは少し大きい白いレース素材のリボン。……それと、白い羽。
 リボンを贈られた時はどちらも綺麗な白だったのに、今や片方はその白が見えないほどに汚れてしまっている。汚れることが誇りだと思って欲しいと願われ、その言葉通り拭いきれないほどの血や土で汚してきた。……これらがあるうちは、まだ何も捨てられていないのと同じような気がする。

「良し。出発するぞ、荷物を纏めろ」
「え、言い値で契約したの?」
「向こうがこれだけ必要と言うのだから、条件は呑むほかないだろう」
「鯉登って、アレだよね。純粋無垢だよね」
「べッ、別に私はなまえに褒められる筋合いなど……」
「ふッ。ハラショー」

 まぁエノノカちゃんは正当な金額を提示してきたとは思うけど。こういう所、ほんとにボンボンだなと思う反面、少し心配にもなる。ま、いざって時は月島軍曹が居るから大丈夫だろう。

「なまえ、こっちゃけ」
「谷垣さんの後ろぉ……」

 こっちに来いと私を呼ぶ谷垣さんを見て、前に感じたあの圧迫感が蘇ってくる。またあれを感じるのはちょっと……そう顔をひくつかせていれば、「いやこっちは谷垣が居る時点で重量ギリだろ」と杉元さんがピシャリと言い放った。「ごめんなまえさん。鯉登少尉たちのそりに乗ってくれるか?」と言う言葉に「分かりました!」と答えた途端、バチィッと散る火花。

「私が!」

 どちらともなく発した主張。それは「前!」という言葉まで綺麗に揃った。いや私さっき圧死しかけたんですよ。次は解放感溢れる位置に座りたい。鯉登はさっきも良い席だったじゃないか。今度は私に譲れ。

「私は上官だぞ!」
「私にとって鯉登は鯉登ですけど」
「むうッ……。つ、月島ァ!」
「鯉登少尉殿。鶴見中尉殿ならきっと譲ったと思います」
「好きなだけ前を堪能すると良い」
「うわチョロいな!」

 ンンンッ! と月島軍曹から窘められ、きゅっと本音を噤む。……この方法、鯉登相手に使えるな。月島軍曹のおかげですんなりと決まった配置。そうして走り出した犬ぞりは、先ほどとは違って冬風が容赦なく顔に向かって吹きすさぶ。その冷たさにほんの少し後悔が湧き起こったけど、谷垣さんに殺されかけるよりかはマシだろう。そう納得した時、裾の端をキュッと掴む手が目に入った。その手は私の体を掴むのを遠慮しているのか、裾というより布と呼べるような範囲しか摘まんでいない。

「いや乙女か!」
「おわッ!? ちょ、ないすっど!」
「良いから! 落ちたらどうすんの!」
「キェッ」

 手を掴み自身の腹にソレを巻き付ければ、短めの猿叫が耳元で響いた。その叫びの後、背中に湯たんぽのような熱を感じだす。鯉登って体温高めなのだろうか。この犬ぞりではありがたいなと思っているところで鯉登の手が再び浮つく。一体何なんだ? そう不思議に思っていれば、背中をバクバクと何かが打ちつけてきた。……もしかして。

「照れてる?」
「そんなことは……ッ、キエッ」

 女として見られることをひどく嫌悪し続けてきた。それは、戦力にならないとバカにされるのと同意義だと思っていたから。もう散々言われてきて、だいぶ慣れもしたと思っていたのに。鯉登のソレは、今までの扱いとはちょっと違う。嘲笑ではない。遠慮というか、配慮。そんなことされたこともないから、私だって恥ずかしくなる。ボソっと呟いた「……純粋無垢ぅ」という声は、鯉登をからかっているようでそうでない。その言葉は私の前に居るヘンケだけに届き、ヘンケは穏やかな笑みを浮かべて振り向く。……良いから前向いて、ヘンケ。その思いを読み取ったのか、ヘンケは何も言わずに前を向いてくれた。そんなヘンケのその様子を見て、私はつい泣きそうなってしまった。



 犬ぞりを走らせ辿り着いた村。アシパちゃんたちはここでロシア人のことを尋ねたらしく、私たちも聞き込みをすることになった。そこで村唯一だという酒場に足を向ければ、月島軍曹から「気を抜くな」と声掛けがあった。確かに、酒場には戦争のどさくさに紛れて脱獄した囚人が潜んでいることもよくある。あまり雰囲気は良くないだろう。

「Не приходил ли сюда вот этот человек?(この男が来ませんでしたか?)」

 月島軍曹の問いかけに誰も反応しない。やっぱりなと溜息を吐くと同時、1人の酔っ払いが「А что за дело у японского солдата в нашей деревне?(日本の兵隊がおれたちの村に何の用だ?)」と喧嘩を吹っ掛けてきた。月島軍曹はわざと訳さなかったようだけど、殺気のようなものを感じ取ったらしい。杉元さんが酔っ払いロシア人を殴り倒し、「ここはダメだ」と店を出る。こんな弱っちい人しか居ない場所に、アシパちゃんたちは何が目的で立ち寄ったのだろう。その疑問に谷垣さんと2人で首を傾げ合っていると、エノノカちゃんが大慌てで駆け寄って来た。

「イ……イヌ、盗られた!」

 まさかの足止めじゃないか。みんなで慌ててヘンケのもとへと向かえば、ヘンケは悲しそうに短く切られた紐を眺めていた。どうやらおしゃべりロシア人がエノノカちゃんたちに話しかけている間に、別の人間が犯行に及んだらしい。とにかく、ソイツを探そうと話を月島軍曹がまとめかけた時、「あッ!! “おしゃべりロシア人”だ!!」とエノノカちゃんが1人の男を示す。……アイツさっき酒場で早々に立ち去った男じゃないか? とんだヘタレ野郎だと思っていたら。ただのヘタレクソ野郎だったのか。そのただのヘタレクソ野郎が「Иди за мнойついて来い」と言うので大人しくついて行くと、そこは先程訪れた酒場だった。

「代理でスチェンカに出ろ、か」

 店主と共に待ち構えていた酔っ払いロシア人は、スチェンカに出る予定だったらしい。そして店主ロシア人はその男に大金を賭けていたので、負傷を負わせた杉元さんに代わりに出ろと要求してきた。……正直そんなことしてる余裕なんてないのに。こんなことになるなら初めから素直に答えておけば良かったじゃないかと苛立ちを感じていれば、「良いからさっさと犬返せ」と杉元さんが凄む。続く鯉登も「“すぐに返さんとそのパヤパヤ頭を3枚おろしにして犬の餌にする”とロシア語で伝えろ月島軍曹」と指示を出す。

「難しい表現の通訳は出来ません」
「Я иэруълно твою плешивую башку「なまえ、面倒だから訳さなくて良い」
「ムッ!? 月島、今面倒だと言わなかったか!?」

 私の翻訳を遮った月島軍曹は思わず本音が出てしまったらしい。それを聞き逃さなかった鯉登が突っかかるのを月島軍曹は無視し、「我々が探していた男……つまりキロランケたちは“北海道から来た刺青の男を探していた”……と」と店主ロシア人が明かした情報を訳し、話を無理矢理前に進める。そのまま“スチェンカに刺青の男も出るかもしれない”という言葉も訳せば目論み通り杉元さんが「出るしかねぇな」と動き出す。とんだ無駄骨だったかと思ったけど、アシパちゃんたちと同じ行程を辿っていることが分かったのは大きい。……というか尾形、スチェンカやったの? それはちょっと見てみたかったかも。

「出るのは杉元だけで充分じゃないか」
「そもそもお前が殴ったのが悪いんだぞ」
「あ? 連帯責任だろ」

 辿り着いたスチェンカ会場を前に、杉元さんたちがもめだす。……にしても、なんで杉元さんはみんなをスチェンカに出させたがるのだろうか。杉元さんの意固地な姿を不思議に思っている時、店主ロシア人から「Вы японцы в одиночку не можете победить русских(お前ら日本人だけではロシア人には勝てない)」――だからスチェンカに出るのは杉元さんだけで良いと嘲笑われた。その言葉によってその場に居る全員に火が点くのが分かった。――こいつは戦争だ。




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