重たい男の子

「アイヌの爺さんが住む集落はこの道を数キロ先らしいぜ」

 フレップ姉さんからいつも町に魚を売りに来るおじいさんが、初めて見るアイヌの女の子を連れていたことを聞いた杉元さんは、示された道を急ぎ足で突き進む。杉元さんからしてみればここは全く知らない土地のはずなのに、こんなにも迷いなく進んで行けるなんて。私はウラジオストクに置いて行かれた時、怖くて堪らなかった。

3дрaвcтвуйтеこんにちは
「月島軍曹、やっぱロシア語上手だなぁ」

 馬ぞりのおじいさんに話しかける月島軍曹。前聞いた時は上手い下手なんて分からなかったけど、自分自身が死ぬ気でロシア語を学んだ今ならその堪能さが分かる。きっと、月島軍曹も必死の思いで練習したのだろう。

「ハラショー! だろ。それくらい私だって知っている」
я в этом не разбираюсь下手くそ
「貴様……!」
「えッすごい。私がなんて言ったか分かったの?」
「まったく分からん。が、バカにしたのだろう。どうせ」
「すごいじゃんボンボン少尉。下手くそなくせにロシア語の才能あるよ」
「バカにしおって……!」

 月島軍曹が話を聞いている間、足を止めれば口が動き始める。そこから睨み合いを始めようとした途端、月島軍曹が「走れッ、急ぐぞ!!」と声を荒げ杉元さんより前を走り抜ける。私たちのやり取りに挟まれオロオロしていた谷垣さんに「行きましょう!」と声をかけ、全員で月島軍曹のあとを追う。どうやらあの馬ぞりのおじいさんは、アイヌの女の子が森の中へ1人で入って行くのを見たらしい。
 アシパちゃんが1人で行動するだろうか? と違和感を抱きつつも「ヒグマよりももっと凶暴な動物が居ると言っていた」という言葉にハッとする。……もしあの動物にあんな小さい子が遭遇でもしたら。違和感は心配へと変わり、森の中を必死に探し回れば「子供の足跡がある!! こっちだ」と谷垣さんの声が先導する。

「やっぱり、」
「アシパさんじゃない……」

 やっぱり。杉元さんが探している女の子じゃなかった。女の子を見つけるなり、杉元さんの表情が再び悲し気に揺らぐ。アシパちゃんは、杉元さんがこれだけ必死に探していることを知っているのだろうか。もし知ったら、アシパちゃんは嬉しいのだろうか。……きっと、嬉しいんだろうな。
 杉元さんとアシパちゃんの関係性はまだよく知らないけど、本音をぶつけ合いながらここまで来たんだと思う。杉元さんを見ているとそうに違いないと確信めいたものすら感じられる。……良いなぁ。

「そりから落ちたのに爺さんの耳が遠くて気付かれず、置いて行かれたから近道で森を通ったってことだろう」

 いちいち訳さずとも皆が理解していたアイヌの女の子の言葉。それを溜息を吐きながら鯉登が要約してみせる。それに溜息を吐いてバカにしようとするよりも先、「あなた北海道のアイヌ?」と女の子が一緒に居た男の子に声をかける。そうして続く「わたし会った。北海道から来た、アイヌの女の子」という言葉。その言葉に「ちょっと待て。その子って……」と杉元さんが写真を1枚取り出す。その写真に写っていた衝撃的な格好をした谷垣さんを2度見していれば、犬がけたたましく鳴き何かを威嚇しだす。まずい、ヒグマに遭遇してしまった。

「子供たちを後ろに!! なまえも下がっていろ!」

 ヒグマを見るなり月島さんと杉元さんが銃を構える。ここで“お前も下がっていろ”と言われることに、昔ならムカついていただろう。なめるな、バカにするな――そう喰い下がって生きてきた。でも、今の私には喰い下がれるだけの武器がない。……本当なら、私が誰よりも早く銃を構えていたはずなのに。

「様子がおかしいぞ」
「なんか小さいのが落ちたッ」

 月島軍曹と杉元さんがヒグマの様子がおかしいことに気付き様子を窺う。そうして遠巻きに警戒していれば、ヒグマが体を捩って何かを振り落とした。その何かがのそりと起き上がった瞬間、体がピリつくのが分かった。
 やっぱり居た――ヒグマよりももっと凶暴な動物。皆が得体の知れない動物に対して距離を取る中、鯉登だけが「なんか弱そうだがな。目もつぶらで可愛いではないか」と泰然と構えている。いや、こういう場合は危機感知が出来ていないバカという表現が正しい。現に杉元さんが“リュウ”と呼んだ犬は、きちんと距離を取っている。犬より鈍いぞ、鯉登少尉殿。鹿児島に帰れ。

「鯉登、良いから離れて! ソイツはクズリっていう凶暴な動物なの!」
「クズリ? 名前も可愛らしいではないか」
「バッカ! 確かに見た目は可愛い! でも騙されるな! 私も前ソレに騙されて痛い目見たから!」
「ふっ、騙されているのではないか。バカはなまえだ」
「だから! 今言い合ってる場合じゃないから! バカなの? ねぇ、バカなの!?」
「何だとッ」

 素直にこっちに来れば良いのに、鯉登はいちいちムキになって言葉を返してくる。またしても間に挟まれた谷垣さんは、両手を太い首の前でぎゅっと握りしめ、「ちょっと……喧嘩はやめなって……」と瞳をうるうるとさせている。

「もうほらぁ。谷垣くんが泣きそうじゃん。ボンボン少尉もはやく素直になりなって」
「素直になるも何も。私ははじめから何1つ偽ってなどいない」
「鯉登くんってほんっと、ああ言えばこう言うよね? 嫌われるよ?」
「貴様……ッ」

 あまりにも言うことを聞かない鯉登相手にいよいよ溜息が出そうになった時。クズリがけたたましい鳴き声をあげ鯉登の背中に飛び乗った。そしてそのまま鯉登の背中に噛みつき牙を突き立てる。あーもう、だから言ったのに……!
 助けに行こうとした瞬間、白い雪に混じる赤が目に入った。それによってまたしても戦場の景色が頭の中に蘇り、その景色が心臓を1度大きく突き立てるのが分かる。……あの頃はもう少し冷静でいられたのに。久々に見る血は、どうしてこうも胸をざわつかせるのだろう。

「月島ァ!!」

 先ほどのヒグマと同じような状態になっている鯉登を助ける為に、月島軍曹が駆け寄りクズリを蹴り上げる。木の上に飛び乗ったクズリを月島軍曹が銃で仕留めようとするも、クズリの素早さに銃撃が間に合わない。クズリには、木の上から背中に飛び掛かって背骨を攻撃する習性がある。まずい――そう思った時には既に遅く、アイヌの女の子の上に影が落とされていた。

「でかしたチカパシ」

 咄嗟にアイヌの男の子――チカパシくんが女の子をかばい、その隙に杉元さんがクズリを捕らえる。杉元さんはその状態で谷垣さんに子供たちを連れて行くよう指示し、月島軍曹に合図を出す。その間に鯉登に近寄り手を差し出せば、鯉登は少し戸惑いつつもその手を握り立ち上がった。「あ、あり……ありが、」と口をカクカクさせる鯉登に眉を寄せたのも束の間、月島軍曹が鯉登を背負い「逃げるぞ!」と声をかけてくる。クズリがどうなったか分からないけど、こっちには手負いの鯉登が居る。まともにやり合うより今のうちに逃げた方が良いと判断し、皆で一斉に駆け出せば「来たぞ月島ァ!!」と鯉登が冷や汗を流しながら声を発する。……アンタさっきまでクズリのこと“可愛い”とか言ってなかったっけ。

「当たんねぇ!!」
「貸してください!」
「えッ!?」

 クズリを狙う杉元さんの射撃がもどかしすぎて、つい杉元さんから銃を奪ってしまった。その銃で狙いを定め引き金を引けば、懐かしい衝撃と共に弾が標的の体を貫く。……本当は頭を狙ったのに。この距離で外すだなんて。尾形がこの場に居たら絶対嫌味言われたな。

「すげぇ……! なまえさん、アンタ一体何者なんだ?」
「杉元も早く乗れッ。なまえも!」

 谷垣さんの言葉に応じ、杉元さんと2人で迎えに来てくれたおじいさんの犬ぞりに駆け寄る。そのままクズリから距離を取れば、クズリは私たちのことを諦めたらしい。……あのクズリ、どうせ当てるなら致命傷を与えてあげれば良かった。そうすれば苦しい思いをせずに済んだのに。

「なまえさん、さっきの狙撃……」
「うんぶッ」

 杉元さんの問いに答えようとした時、顔に物凄い圧がかかって窒息しそうになってしまった。……ねぇ、谷垣くん。君、ちょっと見ない間に何キロ太った? 怒らないから、素直に言ってみ?




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