わたしの地獄に
きみはいない

「お茶とコーヒー、どちらがいいですか?」
「あ、じゃあコーヒーを」

 お邪魔します、と呟いてから何も発さなかった澤村さんがようやく声を発した。ミルクと砂糖と共にテーブルに置いてみたけれど、澤村さんは何も入れずにマグカップに口付けた。……ブラック派なんだ――なんて意味のないことばかり思い浮かべる私は、ひどく緊張している。

「綺麗なお部屋ですね」
「そうですか? ベッドルームなんて寝間着脱ぎっぱなしですよ」
「はは、それは俺もです」
「なんだ、そっか」

 男女が密室に2人きり。そのことを澤村さんは少しでも意識してるのだろうか。ちょっとくらいドキマギしてるのだろうか。もし、ここで、そういうことになったら。澤村さんの中で特別な女になれるのだろうか。

「ご馳走様でした。では、俺はこれで」
「さ、澤村さん」
「……はい」

 一生懸命ドリップしたにしてはあまり味わって貰えなかったコーヒー。空っぽになったマグカップは必死な私を嘲笑うかのように虚しく佇んでいる。

「か、帰らないで下さい……もうちょっとだけ……ここに居て下さい……」
「それは……すみません」
「澤村さんのこと、すき、なんです……だから、」
「みょうじさん」

 ぎゅっと握りしめた二の腕は想像よりも太くて逞しい。私の力じゃどうにもならないくらい、強く鍛え上げられている。その体を持つに相応しい力強い声は、芯の通った意志を宿し、私の名前を呼ぶ。

「俺は今、仕事で手一杯です。正直、恋愛をしている余裕がありません」
「……、」
「だから、すみません」

 ぎゅう、と力が籠って拳になった私の手を包み込んでそっと離す澤村さんの手はゴツゴツしているけれど、じんわりとした温かさを持っている。……なんで、どうして。そんなに優しい手つきで私の手に触れるの。どうしてそばに居たくなるような雰囲気を持っているの。どうして私を見つめる顔はそんなにも悲しそうなの。……離すならもっと冷たく、酷く突き放して欲しい。なんで、嫌いにさせてくれないの。……どうせなら幻滅させてよ。

「じゃあ……どうしてあの時、合コンなんか来たんですか。……どうして送ってくれたんですか。……どうして、こうして女の家に上がったんですか。どうして……どうしてそんな中途半端な優しさ見せつけるんですか……」
「……すみません」
「ちょっとでも気持ちがないんなら、ハッキリ線引きして下さい! 思いっきり拒絶して下さい!」

 澤村さんの手を跳ねのけ、両手を彼の胸目がけて打ち込む。何度叩いてもビクともしない彼は、ただじっと立っている。私の手が止まった時、1歩後ずさり「……すみませんでした」とつむじが見えるくらい腰を折り曲げて謝罪してみせた。

 そういう所なんだって、どうして分かってくれないのかな。家に無理矢理上げたのは私なのに、身勝手に怒って、澤村さんの優しさを中途半端と言い放って。
 それはあんまりだろう――と憤慨してくれれば。もう無理なんだという諦めにもなるのに。澤村さんは何も言い返さず、静かに玄関のドアを閉めて出て行った。

「うぅ……、ふっ、ううぅ……」

 静まり返った空間に澤村さんの遠のいていく足音が聞こえた時、立っていられなくなってしゃがみ込んだ。胸板を叩いた小指の側面がジンジンと痛む。こんなに思いっきり叩いて、澤村さんは痛くないはずがない。それでも彼は一切反論しなかったし、私の暴力を止めることもしなかった。そういう彼の強さに、私は好きという新たな感情を傷のように刻み込まれてしまう。

 どうして、好きという気持ちを伝えるだけでこんなにも苦しくなるのだろう。ここまでして、それに応じて貰えなかった結果がハッキリあるのに、私の心はまだ澤村さんに向いている。



「なまえその顔……大丈夫?」
「……うん」
「大丈夫じゃないか。ごめん野暮」
「……ごめんね、」
「なまえは頑張った。なまえをフるなんて、ポリスマンの見る目がなかったんだよ」
「澤村さんは悪くないの」
「……なまえ」

 泣いて泣いて泣きまくって。土日の2日間をほとんどベッドの上で過ごした。澤村さんに申告した寝間着もベッドの端にうずくまったまま。この上下バラバラの寝間着を見られなくてよかった――という安堵なんかじゃ涙はとまりもしない。色仕掛けに走って、仕掛る前に躱されて、フられて。私はそういう惨めで情けない女だってこと。澤村さんはきちんと見抜いてた。

「また合コン開くから! ね?」
「……しばらくはいい」
「なまえ……」
「ごめんね、友梨」

 出社するなり私の状態で何があったかを察知してくれた友梨。こうして肩を抱いて擦ってくれるだけで泣けそうになるくらいには私の心は剥き出し状態で。もうこれ以上、傷付きたくはない。

「よし分かった! 今日はカラオケに行こう!」
「……ありがとう」

 友梨のおかげで強張っていた頬がほぐれるのを感じながら荷物をロッカーに置いた時、スマホが震え通知を知らせた。

「……え」

 ちょっとだけ救われた気になったのがいけなかったのか。卑しい気持ちを抱いた罰が下ったのか。……地獄に落とされたような絶望感で、足元がぐにゃりと揺らぐのが分かった。

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