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愛ではない何かを受信してしまった

 暁星が浮かぶ空。家に俺以外の人間が居るということが意識のどこかでチラついて、熟睡は出来なかった。目覚ましが鳴るよりも前にベッドから抜け出し、黒光りしている冷蔵庫を開けペットボトルを1つ取り出す。それに今度は直接口を付けて渇きを潤した。

 吐き出された息を辿ってちらりと向けたゲストルーム。物音1つしない部屋にはなまえが居るのだろう。しかし、本当になまえが居るのか、今でも少し疑ってしまう。
もう今更考えても仕方のないことだと昨日から続く非現実的な状況に視線を逸らし、洗面台へと足を向けた。

 今日は一虎くんと会う予定の日だ。東卍の誰かに見つかると厄介なので、こうして夜も明けきらぬうちから家を出なければならない。
 何故厄介なのか。それは俺が東卍を……いや、稀咲を裏切っているからだ。この行為がバレれば俺の命はこの世には留まれないだろう。だからこそ、タケミっちにも内緒にしている。

 俺自身、命の保証が出来ない行為をしているクセになまえを現世に留めようとした行為は何度考えても腑に落ちない。あの団地で死にさえしなければ、後は勝手にしろと思えたハズなのに。

 昨日から何度も自分の行動を振り返っては答えの出ない自問自答を繰り返すはめに陥っている。

「にゃぁ」
「……ペケ。今日はなまえに面倒見てもらえ」

 洗面台で顔を洗い、タオルを押し当てること数秒。そこから動かなくなった飼い主を心配してか、ペケJが体を擦り付けてくる。

 ペケを腕に抱き、頭を優しく撫でるとゴロゴロと喉を鳴らして答えてくる愛猫。その無邪気さにこんがらがった思考回路を解され、どうにか一虎くんとの密会へと思考をシフトチェンジさせることが出来た。……さぁ、仕事の時間だ。



「例の動画。ちゃんと撮れてんだよな?」
「えぇ、まぁ」
「そっか。これで稀咲が一般人にも手を出した証拠は掴めたな」
「そう、ですね……」
「? あんま嬉しそうじゃねぇな?」

 人通りも少ない地下駐車場。そして車内だというのに小声になるのは見つかれば咎められる行為をしていることを潜在的に意識しているからだろう。確かに稀咲の尻尾は掴めたといっていい。だが、正直嬉しいとは思えないし、俺はこれを世に出したいとも思えない。

「……や。そんなことは」
「そうか?……俺も黒龍の隠し口座が掴めそうだ。……もう少しだな」
「そうですね……」

 東卍を、マイキーくんを救いたいという意志は変わらない。それでも、この動画を世に出せば俺は相棒を裏切ることになる。……一体、どうすりゃいいんだ。

「ふぅ……」
「やっぱお前、変だぞ?」
「……ハハ。裏切り行為やってれば精神も擦り減りますよ」
「それもそうだな。……でも千冬。今が正念場だからな?」
「分かってます。……それじゃ俺、事務所に行きます」
「あぁ。また進展があったら連絡する」
「はい」

 一虎くんがドアを閉めてそそくさと去って行く。バタンと音が鳴り、再び訪れた静寂。そこでまたしても息を深々と吐き、ドライブレコーダーからデータを削除する。……いっそのこと、タケミっちがアッくんに指示した動画も消しちまうか……?

 そこまで考えてブンブンと頭を軽く振る。……昨日からロクなこと考えてねぇな。

「――もしもし、どうしたこんな時間に」
「おぉ、起きてたか! 千冬は早起きだなぁ」
「タケミっちこそこんな時間に起きてるなんて珍しいな」
「レンタルビデオ屋に寄るつもりでな。早起きだわ」
「はは、そっか。俺も今から事務所向かう所だ」
「そうか! じゃあまた後でな!」

 ぷつん、と切れた電話。……一体何の用だったんだ? まさか早起きして気分が良かったからとかか? 自分の相棒であり、最高幹部でもあるタケミっちの幼稚さに思わず笑みが零れ落ちる。タケミっちはあの頃からずっと変わらずにバカだ。そんなタケミっちが俺は好きで、信じて、今まで着いて来た。そのタケミっちを、俺は東卍を守る為に売ろうとしている。

 アクセルってこんな重かったっけ。



 事務所に顔を出し、タケミっち達と顔を合わせ普段通りにこなした仕事。それらを終えてマンションに辿り着いたのは22時をまわってからだった。一虎くんと会う日はやはりいつも以上に疲れが生じる。早く1人になりたい。グダる気持ちを抱えエレベーターに乗り込んだ時、なまえの顔がチラつき一瞬最上階のボタンを押すのを躊躇ってしまった。今俺は家に帰っても1人にはなれないのだ。

「ふぅ」

 これで何度目の溜息か。いっそのことこのままホテルに泊まるかと思いはしたものの、ここまで来て家に帰らないのも癪だと一思いにボタンを押し、最上階へとエレベーターを動かした。

「あ、おかえりなさい!」
「……ただいま」

 色々な気持ちを抱えて重たくなった体を引きずり辿り着いた自宅。今まで誰も居ない空箱に向かって“ただいま”なんて言う習慣がなかった為、こうして誰かに迎え入れられ、“おかえり”と言われることも、“ただいま”と返すこともなかった。昨日の夜の“おやすみ”のようにザラつきを感じながら返事をした俺になまえは遠慮がちに口を開く。

「あの……勝手に申し訳ないとは思ったんですが……、台所お借りしました」
「あぁ。好きに使ってくれ」
「ありがとうございます。……それで、あの、これ良かったら……」

 視線誘導された先にはコンロの上に乗っかる鍋がある。そして幾分久しく使っていなかった炊飯器に光る保温のランプ。それらを瞳に映した後、ちらりと周辺に視線を這わすと所々に整理整頓された後があり、最後になまえへと視線を戻した。

「これ、全部なまえが?」
「ペケJのお世話だけっていうのも申し訳なくって……勝手だとは思ったんですが」

 俺自身部屋を汚すのが好きではないのでこまめに掃除はしている方だと思っている。それでも、自分じゃない他の誰かにこうして家を整えた状態で迎え入れて貰えるだけで、不思議と心に溜まった毒素が浄化される思いがするのは何故だろうか。

「悪い。飯は済ませてきた」
「そうですか。……じゃあ私は部屋に戻りますね。お仕事、遅くまでお疲れ様でした」

 はじめに家に連れて来た時にも思ったが、なまえはどうやら察しが良いらしい。俺の気配から疲れを気取り、己の姿を消そうとする。そういう色々な気遣いがなんとも擽ったくて、心地が良いと思った。

「なまえ」
「はい」
「作ってくれた飯は明日の朝食う」
「ありがとうございます」
「いや、こっちこそ。今度から帰る時は連絡する」
「はい。分かりました」
「あ、それと。明日は早く帰ってこれそうだから。一緒に飯、食おう」
「分かりました。ちなみに松野さんは何か食べたい物とかありますか?」
「……ペヤング、かな」

 出したワードになまえが笑う。そして「じゃあ明日は焼きそばにしますね。それと、一応ペヤングも買ってきます」と言って今度こそ自室へと去って行く。

……なんだ? この、ペケJと触れ合っている時のような安心感は。



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