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とりいそぎ、ひとさじの月影

 車中でお互いの名前を明かし合い、女の名前がみょうじなまえだと知った。歳は21。年下だとは思っていたが5つしか変わらないことに少し驚いた。

「成人式終えてんだよな?」
「はい。まぁ出てないですけど……」

 その言葉だけでなまえが苦労を積み重ねてきたことを理解する。助手席で両手をぎゅっと握るなまえの手は良く見てみると所々が荒れており、決して温室で育った訳ではないことを主張している。…自殺したいと思う程には苦労してきたのだろう。その思いで盗み見た横顔は先ほどと違って少し大人びた様子に見えた。

「あの、松野さん……」
「ん?」
「お仕事って一体……」
「あー……まぁ、色々とだ」

 自宅である高層マンションに辿り着き、鍵に連動して自動で解錠されるロックを潜り抜けようやく乗り込んだエレベーター。そこにきて耐え切れなくなったなまえが恐る恐るといった様子で俺に職種を問うてくる。……まぁ無理もないか。俺くらいの歳で億ションに手が出せるのは一体どんな仕事だろうかと思うのが当たり前の思考回路だ。しかし、ここで素直に“東京卍會という極悪非道の組織に身を置いています”なんてどの口が言えよう。というかまず、それを口にしたらなまえはそれこそ“死”を覚悟してしまう。
 それらの考えによって、答えを濁して質問をいなす。向こうもそれ以上は深入りしてこなかったので、なまえも察しが悪い訳ではないようだ。

「私、こんなに高い所初めてかもしれません……」
「スカリツリーとか東京タワーとかあんだろ?」
「行ったことないんで……」
「……ふぅん?」

 社会科見学で行かねぇのか? と思いはするものの、そこを深く掘り下げはしないで玄関のドアを開ける。ここでも解錠の様子を見たなまえの目が真ん丸と見開かれていたのが可笑しくて、俺はなまえにバレないように笑みを浮かべた。

「とりあえず今日はこの部屋使え」
「え……わ、私はソファで良いです……」
「? あぁ。ここゲストルームだから。俺のベッドは別にあんだ」
「松野さんはお一人暮らしですよね……?」
「そうだけど?」
「誰か一緒に暮らしている人が居る訳では……」
「ねぇけど?」
「それなのにベッドが2つも……?」
「はは、億ションだとそれが普通だぜ?」
「こ、ここ億もするんですか……!?」
「まぁな」

 イチイチ目を真ん丸にして驚くなまえが可笑しくて、今度こそ笑みを隠すことが出来なかった。屋上で会った時なんて生きてんのか分かんねぇくらい生気失ってたくせに、いざこうして側においてみるとこんなにも表情豊かなんだな、コイツ。

「つーか荷物マジで少ないな?」
「必要最低限……ですね」
「……そういうモンなのか」

 俺の家に来るに伴って持って来たなまえの荷物は驚く程少なくて、ポーターを呼びつけようかと思っていた俺の計画を台無しにした。21の年頃ならばもう少し洋服などがあっても良いハズなのに。そういうちょっとしたことがみょうじなまえという人物の特異性を表しているなと思う。

 とりあえずシャンプーとかヘアケア用品は一式買い揃えようと考えつつ、なまえをソファに座らせ、ペットボトルからコップに水を注ぐ。いつもならがぶ飲みだがそういう訳にもいかない。

 そうか。俺は得体の知れない女を家に連れ込んでいるのか。

 それを実感した途端、俺自身がしていることのとんでもなさに固唾を呑んだ。東卍に身を置く立場上、誰かを自分の巣穴に招くなんてこと、滅多にしない。女と一夜を共にするのも絶対に別の場所だったのに。俺は一体何を……。

「松野さん」
「っ……ん?」
「この子が“ペケJ”ですか?」
「……あ、あぁ。ソイツ。もう結構老猫だけどな」
「凄く大人しい子ですね」
「あぁ。1日のほとんどを寝て過ごしてる」
「そうなんですね。……あの、それなら私がお世話をする必要はあまりないのでは?」
「……」

 そうだ。俺はなまえに“猫の世話”を命じて連れ込んだのだ。なんて苦しい提案だったのだろうかと今では思えるが、もう後の祭りだ。なまえが心配で放っておけなかったなんて言えないし、これまた苦し紛れに「いや……餌とか、掃除とか……」と言葉を接ぐ。

「そうですか……」
「とりあえず、飯。何か食おうぜ」
「……あの、私お金……」
「良い。ペケの世話代だと思ってくれ」
「でも、」
「お前もそれを了承したからここに居んだろ?」
「……はい」

 なまえはやはり深入りしてくることは無かったが、今度ばかりは懐疑心を隠すことは出来ていなかった。……無理もない。何せ俺自身が自分の行動を信じられないのだから。



「大抵寝てるけど、起きてる時はブラッシングしてやってくれ。なるべく優しくな。あとたまに蒸しタオルで拭いてもらえると助かる。後は――」

 (入る順番は押し問答したが)お互い風呂を済ませ、眠るペケJを見ながらペケJの世話について一通りの説明を済ませる。愛猫の世話を今日会ったばかりの女に任せていいもんかと今更な不安が湧き起こりはしたが、俺の説明を必死にメモ取る姿を見て大丈夫だろうという判断を下す。……それにしても未だに俺の家に俺以外の、ましてや女が居ることに慣れない。連れ込んだのは間違いなく俺自身なのに。

「じゃ、俺明日は朝から居ねぇから」
「はい。分かりました」
「そういうことで。よろしく」
「あ、あの……」
「ん?」

 その場から逃げるようにして会話を切り上げる俺をなまえの声が捕まえる。その割にはいつまで経っても続きを話そうとしないなまえに「なに?」と続きを促すと何度か口を開閉した後にこう続けた。

「お金もない私を、こうして家に置いて下さるのは……その……、体目当て、なのでしょうか?」
「カラダ? カラダって……お前の?」

 一瞬“カラダ”というワードを脳内処理出来ず、口に出した後ようやく落とし込むことが出来た。つまりなまえは俺が“この家にお前を置いてやる代わりに、お前の体を寄越せ”と要求していると思っているのか。……あぁ、なるほど。女の立場からしてみればそう思うのも十分あり得ることなのか。だが、生憎俺にはその考えはまったくと言っていいほど浮かんでいなかった。

「1番はじめに言ったように、俺はお前にはペケの世話を頼むつもりでここへ呼んだ」
「でも……、」
「自分の家には戻りたくねぇんだろ?」
「……はい」
「俺としても通いで来られるより、いっそのこと住み込んでもらった方が色々とありがてぇんだ」
「?」
「まぁとにかく。俺はそこまで女に困っちゃいねぇし、なまえが嫌になったら出て行ってもらっていい」
「……」
「安心しろ。俺はお前に手は出さねぇ」
「は、はい……」
「もう寝るぞ」
「あ、はい。……思い上がったこと言ってしまってすみませんでした。……おやすみなさい」
「おう、おやすみ」

 なまえは今度こそ与えられた部屋へと姿を消した。その姿を見送った俺はすぐそこまで来ていた眠気を追い払い、ペケが眠っているソファの近くにそっと腰を下ろす。それと同時に零れたのは深い溜息。……俺は一体、何やってんだ。

「おやすみ……か」

 舌の上でざらついたのは、幾分久しく口にしていなかった言葉の名残。



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