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窓に青い花の跡

「そうだ。なまえ、明日時間作れるか?」
「はい。何の予定もないです」

 翌日。昨日伝えておいた通り、早めに帰宅するとまたしても「おかえりなさい」となまえに出迎えられ、妙なく擽ったさを感じながら向かい合って座ったテーブル。そこには宣言通り焼きそばが配膳されている。
 なまえには予め部屋の合鍵といくらか現金を渡してあるがなまえがそのお金に手を付けた痕跡は見受けられない。恐らくこの焼きそばも、キッチンにあるペヤングも、なまえの懐から賄われたモノだ。

 そういう遠慮はしなくていいのに、と思うがなまえの性格上そういうものなのだろう。だからこそ、俺はこうしてなまえに明日の予定を尋ねたのだ。

「じゃあ明日女物のシャンプーとかそういう日用品買いに行くか」
「えっ? 私は今ある分で十分……」
「俺も良く分かんねぇけどオイルとか塗るんだろ?」
「する人はすると思いますけど……」
「うん、だからそれ。買いに行こう」
「いやでもっ、」
「俺が呼んだんだ。それくらいの世話はさせてくれ」
「じゃあ私1人で行きます」
「それだとまた自分の懐から出すだろうが」
「っ、だって……」
「これくらいは良いから。させとけよ」
「良いんですか……?」
「あぁ。そんなに納得いかねぇのなら、今回のはこのうめぇ焼きそばのお礼ってことにしとけ」
「はぁ……、」

 なまえの顔からは最後まで“申し訳ない”という感情が消えることはなかった。……今までの女は何かをあげると心底嬉しそうな顔をしていたのに。なまえにはうまくいかない。
 というか俺は何でなまえに喜んで欲しいと思ってるんだ? あぁ、あれだ。疲れが溜まって正常な思考回路が出来ていないんだ。

「風呂行ってくる」
「あ、はい。沸かしてあります」
「さんきゅ。あ、皿はそこの食洗機に突っ込んでくれれば良いから」
「しょくせんき……?」
「そこ。2回ノックしてみて」
「……えっ!? えっ、嘘、凄い! 松野さん! これ食洗機だったんですね……!」
「アハハ! そんな驚くもんか?」
「だ、だって……」
「あー、お前おもしれぇ。あ、洗剤はその隣にあっから」

 キッチンに収納された食洗機もあそこまで驚かれればビックリものだろう。疲れを取る為にお風呂に行こうと思ったのに、たったそれだけのやり取りが俺の疲れを癒してしまった。

 俺はなまえを家に招いたことを良かったと思いだしている。

 その事実を浴槽に浸かり、男物の日用品ばかりが並べられた棚を見て色気がねぇなと思った瞬間に認識してしまった。……明日に備えて今日は早く寝るか。そう思った時は自分の思考が中学生並であることを自覚して、その恥ずかしさをシャワーで洗い流そうとした。それでも、その思いはお湯と一緒に流れていってはくれなかった。



「ま、松野さん……っ」
「うん。似合ってる」
「あ、う、」
「すみません。ケア用品一式下さい。1番高いラインで」
「えっ」

 翌日。伝手を頼り即日対応して貰った美容室。勿論伝手は東卍絡みだが、それはなまえには秘密。そしてそれを気取られないよう、従業員にも折り目正しく接する。なまえは聡いヤツだから。だが、そんな心配も今は不要なようだ。どうやら自分の身に起こっている事柄に脳内処理を持って行かれているらしい。

「あの、シャンプーとかドラッグストアに売ってる分で十分です……」
「良いって。髪の毛痛んでんの、気にしてたろ?」
「どうして……」
「気が付きゃ毛先に手やってんの、やっぱ気付いてなかったか」
「すみません……」
「すぐ謝んのやめろよ。それとも迷惑だったか?」
「いえっ! そんなことはっ!」
「そっか。だったら次行くか」
「つ、次っ!?」
「どうも、ありがとうございました。また次も頼みます」

 絶句しているなまえの側で会計を済まし、店を出ると大人しくその後ろをついてくるなまえ。次は何をされるんだ?という勘繰りが手に取るように分かる。こういう視線を女から向けられることに慣れていないせいか、なまえと一緒に過ごす時間は新鮮味を帯びる。いや、これだと俺がドMみてぇじゃねぇか。

「次は服見に行こうぜ」
「さ、さすがに……して貰い過ぎかと」
「……気に入らないか? こういうの」

 そう言って掲げるのは先程の美容室で買ったヘアケア用品。ゴソリと音を鳴らす袋を見てなまえの声は小さく「……凄く嬉しいです」と白状するように告げる。

「コレ使うの楽しみ?」
「……はい」
「新しい服とか、家具とか、そういうの、楽しみじゃねぇの?」
「楽しみです……けど、」
「そういうちょっとした積み重ねを生き甲斐としてくんねぇかな」
「……?」
「言っただろ? “俺が生き甲斐を与える”って」
「……はい。言って下さいました」
「今、死にたい?」
「………いいえ」
「うん。良かった」

 その拒否が聞けるだけでも十分。等価交換だと俺は思う。それでもなまえが納得いかねぇっていうのなら。

「これからも出来る時で良い。ペケの世話だけじゃなくて家のこと任せても良いか?」
「それは勿論です。……あの、松野さん」
「ん?」
「焼きそば以外の好物、教えて貰えませんか」
「……あぁ」

 なまえにはもっと沢山生きて欲しい。これは俺の我儘だから、なまえが負い目を感じる必要はねぇんだ。



「そういえばなまえはスカイツリー行ったことないんだっけ」
「はい。学校行事がある時は決まって父親の暴力がありましたから」
「……そうか。なぁ、今から行ってみる? スカイツリー」
「良いんですか!?」

 買い物を終えて乗り込んだ車でハンドルを握った時目の前にそびえ立つスカイツリーが目に入った。そこで前になまえがスカリツリーに行ったことがないと言っていたのを思い出し、そう提案してみる。すると今まで何をするにしても罪悪感を感じている様子だったなまえの顔が分かり易く輝いた。その様子がまるで小学生のようで、俺はまたしても笑みを耐え切れない。

 昨日の俺は中学生並だったけど、今のなまえは小学生並じゃねぇか。

「俺も久々だなぁ」
「やっぱり高いんですかね?」
「まぁ俺のマンションよりかは」
「ふふ、そうですね」

 まぁ、お互い様ってことで。



「うわ……凄い、たっかい……」
「ほんとだ。すげー」

 折角だから天空回廊まで上り、街全体を見下ろす形で景色を眺める。初めてではないが、それでも久しい場所だからそれなりに楽しむことが出来る。

昔はよく場地さんと地面に座り空を見上げて「天下取るぞ」なんて夢を語り合ったっけ。……もし場地さんが生きていて、東卍が腐っていなかったとしたら。俺の現状ももう少し違ったのだろうか。

 ぼんやりといつもより近くなった空を見上げてみる。……そんなことしたって場地さんの顔は見えない。

「松野さん……?」
「ん? あぁ、悪い。ちょっと考え事してた」
「そうですか……。てっきり高い場所が苦手なのかと」
「は?……いや、そんなへっぴり腰のヤツに言われても」
「えっ、そんな、私はっ」
「わっ!」
「きゃっ!」
「はは。ビビってんの」
「ま、松野さんっ!」

 だけど、なまえの顔は良く見える。そのことだけは俺をひどく安心させた。



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