きれいなことばは強すぎる

 こないだからエレベーターを使う度にとてつもない心労が私を襲っている気がする。気のせいだろうか――いいや。これは確実に神経をすり減らしているに違いない。特に今日は。
 だって、直野先輩に会いに行く為にエレベーターの下降ボタンを押さないといけないのだから。右腕に抱きかかえられた資料をきゅっと握る。こないだの会議の資料だから、直野先輩に渡さないといけないのは分かる。でもどうして私がその役目を担わないといけないんだろう。ぐずぐずと考えてしまうが、課長に名指しされてしまったのだから仕方無い。
 数分エレベーターホールで愚図ついて、意を決して下降ボタンを力強く押した。……やっぱり、心労半端ない。



「みょうじ。お疲れさん。何か用か?」
「澤村先輩! 直野先輩居ますか?」
「直野か? 直野はいま……先方に打ち合わせに出てるな。戻りは夕方近くだ」

 マーケティング部が近づくにつれ、バクバクと脈打たせていた私を1番に出迎えてくれたのは澤村先輩で。それだけでも幾分落ち着きを取り戻せたが、次に澤村先輩が予定表を見ながら教えてくれた情報に、私は小躍りしたくなった。

「そうなんですか〜……! 良かった……!」
「ん?」

 小躍りはしなかったが、思わず口から安堵が出て行ってしまい、澤村先輩が不思議そうな顔をする。それを慌てて誤魔化し、「こないだの会議の資料、直野先輩に渡しに来たんですけど。明日また改めようかと思います」と話を次へと進める。

「あ、なら俺預かっとくよ。俺も目通しておきたいし」
「それならお願いしても良いですか?」
「おう! ありがとな!……あ、そうだみょうじ。今日メシ食堂か?」
「はい。このままお昼休憩に入ろうかと」
「じゃあ丁度良いな。一緒に行かねぇか?」
「……先輩の奢り、ですか?」
「ああ。奢ってやる」
「やった! ありがとうございます!」
「おう。財布持ってくるから、ちょっと待っててな」

 そう言って自分のデスクへと戻って行く澤村先輩を見送って、待つ間にスマホを取り出す。正臣さんとのラインは今朝送り合った「おはよう」の挨拶のみ。今日は正臣さんと洋子も先方に打ち合わせに行くみたいだったし、ご飯は外で済ませるんだろう。正臣さんも仕事中に洋子と2人でご飯を食べる事なんて多々あるだろうし、食堂のご飯くらいなら澤村先輩と2人きりでも良いよね? 別にやましい気持ちがある訳じゃ無いし。澤村先輩も善意100%で言ってくれているんだし。決して、“私は何一つやましい事をしていません。じゃあ正臣さんは?”と訊く事があった時の言い訳なんかじゃなくって――

「みょうじ〜。昼メシ熟考中か〜?」
「えっ? あっ。すみません」

 また悶々と考えてしまっていたらしい。いつの間にか澤村先輩が戻って来ており、私の顔を覗き込む。声をかけられるまで気付かないとは、どんだけ鈍いんだろう。……いつも澤村先輩に色んな勘違いをされている気がする。どれも的外れなんだけれど。そこが澤村先輩らしい。

「先輩は何にするか決めましたか?」
「俺はいっつもラーメンか白ご飯だ」
「……それ、メニュー絞れて無くないですか?」
「あはは。バレたか。ま、向こうで決めるよ」

 そんな会話をしながらホールで今度は上昇ボタンを押す。さっきに比べてボタンが軽い。心持ちも全然違う。私はどれだけ直野先輩に怯えているのか。

「みょうじさ、直野にビビってるんだろ?」
「わ、分かりますか……?」
「研修ん時からそんな感じは薄っすらしてたけど、何か最近は特に酷く無ぇか?」
「澤村先輩にバレてるんだったら、本人なんて丸分かりですよね……」
「その判断基準、俺はヘコむけど。まぁ、否定は出来ないな」

 エレベーターに私と澤村先輩の2人しか居ないのを見計らってか、澤村先輩がそんな風に訊いてくる。そして、それはそういう事に疎そうな澤村先輩でさえ見抜いている事柄で。やっぱりそうだよなぁ、と溜息が出てくる。私が怖いと思っている分、直野先輩だって私の事を鈍くて苛々する人と思っているんだろう。

「直野先輩と正臣さんが今も、その、そういう、関係なんじゃないかって……。疑ってしまって。でも、直野先輩からはハッキリ違うと否定されました。だから多分、ただの噂なんだと思うんです、けど……」

 こないだのやり取りを思い出して、尻すぼみしていく私の言葉。でも、本人はそりゃ違うって言うくないか? そんな疑念が残っているからだ。
 私の言葉を最後まで聞いていた澤村先輩が少し困った様に笑って、頭を掻く。

「まぁ、みょうじの気持ちも分からんでもない。……多分。でも、これだけは自信持って言えるぞ。直野が違うとハッキリ言い切ったんなら、それは本当に違う。それだけは信じてやってくれ。……アイツ、言い方キツい時もあるけど、嘘は吐かないヤツだから」

 どうしてだろう。直野先輩にハッキリ言われた時よりも澤村先輩にこうやって言われた今の方がスッキリしているのは。澤村先輩が言うんなら間違い無いって思える。

「それでも、何か不安が残ってるんなら、俺が話聞いてやるから。まずはメシ食おう」

 多分、澤村先輩は人が悲しむ様な事をしない人だっていう事を私が身を持って知っているからだ。

「……はい!」

 勢いよく頷いた私に、澤村先輩が嬉しそうに笑ってくれるから。私はほんの少しだけ、救われる様な思いがした。

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