美人冷徹

 今日も長い1日だったと定時後のエレベーターに乗って溜息を吐く。……正臣さんはまだ机でパソコンと睨めっこしていたし、今日も会えないんだろうな。前は残業後に私の家にご飯を食べに来る事もあったけど、それもめっきり無くなってしまった。だけど、差し入れにコーヒーを渡しに行った時は「助かる。ありがとな」と優しく笑ってくれた。……いや、笑ってくれただけだ。前なら「終わったら家行って良い?」と訊いてきたのに。……駄目だ。これじゃ全然正臣さんを信じられていない。

 もやがかかる思考回路を振り払う様に頭を振っていると途中の階でエレベーターが止まる。

「お疲れ、様です……」
「お疲れ様」

 振り払ったもやが今度は仲間を連れて大量発生する。視界が一気に暗くなる。どうしてこのタイミングで直野先輩と2人きりにならないといけないのか。……私はツイてないらしい。……どうしよう。気まずい。何か、話題を……。

「直野先輩は残業されないんですか?」
「……今日は早く片付いたから」
「そ、そうなんですね。さすが、仕事が出来る方は違いますね。なんて……。あ、それだと私も仕事出来る女みたいですよね。すみません……」
「無理に話そうとしなくて良いわよ、別に」

 視線を落としていたスマホをスリープさせ、鞄に入れながらそんな事を言う直野先輩。そんな風に言われてしまうともう私は撃沈するしかない。

「すみません……」

 怖い。悪意が無いのかもしれないけれど、どうしても棘がある様に感じてしまう。それは直野先輩の言い方もあると思うが、洋子に聞かされた件もあるからだろうか。

「他に訊きたい事があるんじゃない? そんな顔してるけど」
「っ、」
 
 腕を組んでそう訊いてくる直野先輩は確実に私の心境を読み取っている。今も私の顔が一瞬強張ったのを見逃さずに「何? 言いたい事があるならハッキリ言って」と追撃を仕掛けてくる。

「直野先輩が昔、正臣さんと付き合っていたっていうのは本当ですか?」
「ええ。事実よ」

 半ば強制的に戦闘に引っ張り出された私の弱々しい攻撃をいとも簡単に受けてみせる直野先輩。その表情からは“で?”と続きを促しているのがありありと伝わってくる。

「……今は、どういう関係なんでしょうか」
「どうも何も。今はただの同僚。それ以下も、以上も無いわ」
「そうですか。……すみません、踏み込んだ事を伺いました」

 早々に敗北を喫した私が顔を俯かせると直野先輩が「ねぇ」と声を掛けてくる。なんだ、まだ言い足りのだろうか。……もうこちらに戦闘意欲は残っていなのだが。というか初めからそんな度胸を持ち合わせていない。

「どうしてそんな事を訊いてきたの? 今更それが気になったって訳じゃないでしょう?」
「……それは、」
「誰かに言われたの? 私とま――葛原が居るのを見たとか」
「……はい」

 尋問を受けている容疑者の様な気分になりながら直野先輩の質問に答える。私の方が容疑者側の気分を味わうのも変な話だ。今私の中で容疑者なのは直野先輩の方なのに。現実では私のが容疑者っぽい。どうして私が仕事終わりにこんな気分にならないといけないんだろう。あぁ、溜息吐きたい。

「それ、もしかして高取さんから言われたの?」

 溜息を吐きたいこの状況に、溜息を吐いたのは直野先輩の方で。しかも続けざまに言われた言葉に私は顔をばっと上げて直野先輩を見つめた。どうして分かるんだ?そう思っていた私の思考を読んだらしい直野先輩は「あの時喫煙室前でそそくさと逃げる様にして去って行く高取さんが見えたから」と答えを教えてくれる。

「でも勘違いしないで。私は今は本当に葛原とは何も無いから。同じ会社の人間だもの。そりゃ別れた今でも会話の1つや2つくらいするわ。少し会話したからってそういう風に勘違いされて、勝手に噂立てられるなんて堪ったものじゃない」
「……すみません」
「勝手に勘違いする高取さんもだけど、それを真に受けるみょうじさんもしっかりしなさい。人に踊らされちゃ駄目よ」
「はい、すみません」
「まぁ直接みょうじさんに言えたのは良かったわ。じゃあ、お疲れ様」

 1階に着くなり直野先輩は颯爽と歩きだして行く。その背中を見送ってようやく私の口から長い溜息が出て行く。いつもは数分でしかない密室時間が、今日は何十時間にも感じられた。…それでも、最後の言葉を言った直野先輩の微笑みはとても美しいものだった。案外、良い先輩なのかもしれない。怖いけれど。とても怖いけれど。

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