なけなしの理性で君を手放すんだ

 はじめは送って貰うのは申し訳無いとすら思っていた帰り道。もう気が付けば私のマンションまで辿り着いていて、マンション前で足を止める。あっという間だったなぁ。

「私の家、ここなんです」
「そっか。みょうじ、この距離1人で歩いて帰ろうとしてたなんて、本当に危ないぞ」
「えっ、そうですか? 先輩と話して帰るには、短い距離だなって思いましたけど。って、歩かせといて失礼ですよね。すみません」

 そう言うと先輩が斜めにかけている鞄のショルダーストラップをいじりだす。顔を少し俯かせてごにょごにょと口籠っているけれど、何て言ってるかうまく聞き取れない。

「あ、先輩。せっかく送って貰ったし、良かったらお茶でも飲んでいきませんか?歩かせちゃったし、休憩でも」

 そこまで言って、やってしまったと思う。前にご飯に行く事を戸惑ったくせに、今こうして送って貰って、しかも家に上がらないか? なんて提案までしている。これはさすがによろしくない。いや、決してやましい気持ちがある訳では無いけれど。もし、これで先輩が「じゃあ」なんて言おうものなら、私は自ら彼氏以外の男性を簡単に家に上げる女になってしまう。だからと言って「やっぱり駄目です」なんて言いにくいし。……先輩の事警戒してる訳じゃ無いんだけど。でも……。

「いいや。大丈夫。今日はもう帰るよ」
「そ、うですか」

 私の考えを汲み取ってくれたのか、澤村先輩はすんなりと私の誘いを断ってくれる。……本当に申し訳ない。送って貰った上に、何のお構いも出来ないなんて。

「ちゃんと伝わってるから、そんな顔すんなって」

 俯いてしまった私に、先輩が困った様に笑って声をかけてくれる。こういう優しい所、いつまで経っても変わらないなぁ。素直に憧れる。

「私が誰とも付き合ってなかったら、お茶の1杯だけでも飲んで頂いたんですけど……」

 それは男女とかそういうしがらみを抜きにしての気持ちだ。私の感謝の気持ちを具現化したいという思いから言った言葉だった。あと、先輩を信頼しているのもある。だけど、その言葉を言った途端に先輩の顔が強張ってしまった。ピシリと動かなくなってしまった先輩を不思議に思い、顔を近づけて様子を窺っていると、長い溜息を吐きながら右手を額へと運ぶ澤村先輩。

「先輩?」

 恐る恐る先輩を呼ぶ私を、先輩の瞳がゆるりと捕らえる。

「……もう下の名前で呼んでくれないのか?」
「えと……呼んだ方が良い、ですか?」

 その瞳はいつものジト目じゃなくて。からかわれているのか、そうじゃないのか、良く分からなくて、とりあえず様子を窺いながらそう言葉を返すと、今度は手を目へと移動させてしまう。どうやら困らせてしまっているらしい。私の返事が不味かったのだろうか。

「……いや。悪い。そうじゃないんだ。ごめん。……呼ばれない方が良い。うん。そうだ、そうだな」
「さわむら、先輩?」

 同じ様に困ってしまっていると、先輩が自己暗示をかけるように言葉を吐きだす。今も目の前で「はぁーっ、俺は偉い。偉いぞ、ウン」なんて言っている。本当に大丈夫だろうか?

「大丈夫ですか? 酔ってます?」
「いや。これでも俺は同期の中で1番酒が強いんだ。大丈夫。帰れるよ、ちゃんと。……ほら、夜は冷えんだ。先に入りなさいよ」
「はい、じゃあ……。お休みなさい」
「おう。おやすみ。ゆっくり寝て疲れ取るんだぞ」
「はい。分かりました」

 自己暗示が効いたのか、私がオートロックを解除してドアの向こう側へと入っていくのを見守ってくれる頃にはいつも通りの精悍な顔つきをした澤村先輩がそこに居た。…お酒が強いといのは本当らしい。それでも部屋に戻っても少しだけ心配になった私は、ベランダへと出て、上から先輩を見下ろしてみた。

 澤村先輩をは暫くしっかりとした足取りで歩いていたけれど、自販機の前に差し掛かった時に、自販機にもたれかかってしまった。そうかと思えば直ぐにスタスタと歩き出す。かと思いきやまた立ち止まって。またスタスタと歩き出して。その足取りはしっかりしてるから、酔ってはいなさそうだけれど……。一体、何してるんだろう?

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