いつくしみの美学

 あの日から1週間が経った。あれから正臣さんとは元通りの距離感になってしまっている。あの日、泊まりはしたけれど、土曜日には“やり残した仕事を片付けたい”と言って、前日に作っていたビーフシチューを1杯だけ食べて昼前には帰ってしまった。前までは一緒に昼前まで寝て、起きた時に「寝過ぎたね」なんて一緒にベッドの中で笑い合ったのに。あの日、先に起きた私の視界に映ったのは正臣さんの背中だった。

 そのまま挨拶を交わすだけの1日が数回過ぎて、あの日と同じ金曜日がやって来た。今日はマーケティング課と営業U課で合同の打ち上げが開かれる日だ。前もって言っていたのもあるが、やはり正臣さんからの連絡は何も無い。

……あの日、背中に触れようとして止めた指先は正解だったのだろうか。

 そんな風にぼんやりと考えてしまう。あの日湧いたもやが、今日まで私を蝕み続けている様な気がして思わず首を振る。私は私が出来る事。……それは正臣さんを信じる事。そう思ったじゃないか、あの時。

「……頑張るべ」

 魔法の呪文の筈なのに、あの時みたいな効果は得られなかった。



「みょうじ、飲んでるか?」
「お疲れ様です。澤村先輩こそ、今回の新製品開発に大きく貢献してるんですから、飲んで下さい」

 1人ちびちびと飲んでいた所を澤村先輩に見つかって、ビールを注がれる。次に私がビール瓶を受け取って、先輩のグラスに傾けると勢いが良過ぎたらしく、グラスの許容量を通り越してビールが溢れていく。

「わ、ごめんなさい! ハンカチ使って下さい!」
「おーおー、気にすんな。平気だよ」

 そうはにかんで、並々に注がれたビールを口元にそっと運ぶ澤村先輩。1口が大きいから、グラスからは既に半分以上のビールが姿を消している。

「ん、みょうじ全然減ってねぇな? いつもはもっとペース速いのに」
「そうですかね? 先輩が早過ぎるだけですって。あ、ビールもう無いですね。私追加貰ってきます」

 俺が飲んだんだから、俺が。そう食いついて来た先輩を宥め注文口へと向かうと喫煙所から戻って来た直野先輩と鉢合わせる。……前だったらここで私の脳内は真っ白なもやで覆われていたと思う。だけど、今は違う。澤村先輩の言葉があるからだ。

「お疲れ様です」
「お疲れ様。みょうじさん、あなたもちゃんと食べれてる? まさか澤村くんに使われてるんじゃない?」
「いえっ、そんな事はありませんっ。私が進んでやった事なんで!」
「そう? なら良いけど」

 眉根が寄った直野先輩の表情に慌てて手を振ると、少しだけ穏やかになる直野先輩。そうして私の横を横切る直野先輩からは煙草を吸った直後だというのに、煙草特有の嫌な匂いがしない。いつも直野先輩からする爽やかな香水の匂いだ。やはり煙草を吸った後も色々と気を遣っているのだろう。あの時の正臣さんの様に。

「……もしかして私、匂う?」

 横切った後に香水の事を考えていたせいで、どうやら直野先輩にも分かるくらいには残り香を嗅いでしまっていたらしい。直野先輩が不安そうに自分の洋服を摘まんでいる。

「え? あ、いえっ! いつも通り、良い匂いがします!」
「そう? アイコスに変えたからといって、全く匂いがしなくなったって訳じゃ無いから。少し不安だったの。もしみょうじさんが匂うって言うのなら香水付け直そうと思ったけど。付けなくても大丈夫かしら?」

 尚も不安げな表情を浮かべてそんな事を訊いてくる直野先輩はいつものクールビューティな感じでは無い。……なんというか、今時女子というか、乙女というか……。その……

「可愛い」
「えっ?」

 思わず吐いて出た言葉に血の気が引いていく。あろう事か先輩に向かって……、しかも直野先輩に向かって私はなんて事を……!

「あっ、すみませんっ!」

 バっと頭を下げていると直野先輩が「ちょ、顔上げてよっ!」と慌てた声で私を制する。……直野先輩。そんな風に言われてはいそうですかと顔を上げる度胸が私にはありません。すみませんすみません……。

「なんだ〜? 直野、またみょうじを苛めてるのか?」
「澤村くんっ! 周りが勘違いする様な事言わないで!」
「ははは、悪い。みょうじ、そういう事だから、そろそろ顔上げてやれ。直野が勘違いされちまう」

 頭の上で交わされる会話の後に、澤村先輩の手が私の肩に触れて、私はようやく顔を上げる。そこで捉えた直野先輩の表情は怒っているとかじゃなく、どちらかというと照れている様な、そんな表情をしていた。

「やっぱり、可愛いって思っちゃいます。……すみませんっ」
「ん? なんでそれで謝るんだ? 直野だって嬉しいよな?」
「……まぁ、悪い気は、しないわね」
「直野ももっと喜べよ。そういう所素直じゃねぇんだから。……ほれ、一緒に戻るべ。俺ビール飲みたいのに、ずっと待ちぼうけしてたんだからな?」

 そう言われてそこでようやく私が澤村先輩を待たせていた事を思い出す。

「す、すみませんっ!」
「……直野に謝る時より必死じゃ無いな?」

 先輩の瞳がジト目に変わる。からかいスイッチが入った様だ。分かってはいても、やはり私は慌ててしまう。

「いえっ、そんな事はっ!」
「本当か〜?」
「っ、そ、そのっ、」
「みょうじさんを苛めてるのは一体どちらかしら? あんまり酷いと私が代わりに怒るわよ?」
「それは勘弁してくれ……」

 直野先輩の迎撃によって澤村先輩は困った様に頭を掻いて笑う。珍しく私の勝利で終わった澤村先輩とのやり取りに、思わず直野先輩を見上げると、直野先輩がふっと微笑んでくれる。……どうしよう、やっぱり可愛い。

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