もう通行人ではいられない
 あの1件から俺はみょうじなまえさんという人物を目で追うようになった。別に、恋愛の類の感情は抱いていない。面倒臭いだけだから。……ただ、つまらないと思った日常の暇潰し程度だ。

 みょうじさんを見ていると、俺とは違う行動を起こすから、見ていて面白い。あぁ、別にそんな頼み事引き受けなくても。大してみょうじさんの未来は変わらないのに。視えない人は少し先の未来だって分からない。だから、今を必死に生きようとする。その時その時の選択に必死になる。みょうじさんが良い例だ。必死に選択肢を選んで、結果他人が望む選択肢を選ばされている。周りからしてみればみょうじさんは都合の良い人だ。調子の良い言葉と共に自分が選んで欲しい選択肢を差し出せば、簡単に選んでくれる。そうしてみょうじさんはみょうじさん自ら自分の首を絞める結果になっている。

 俺だったら怒ってやり返すのに。

 何度かみょうじさんが選んだ選択を見てはそう思った。それでもみょうじさんはその選択肢は選ばない。人に怒るという行為を頑なにしないみょうじさんは見ていて興味を惹かれたし、もどかしくもなる。今も誰かに選ばされた選択肢で、みょうじさんはクラス全員分のノートを抱えて長い廊下を1人で歩いている。チラリと周囲に視線を配る。……よし、誰も居ない。

「貸して。持つよ」
「迅くん。……もしかして、私がこないだ言った言葉、根に持ってる?」
「いいや? 気にしてないよ。事実だし」
「そっか、良かった。あの時はビックリしちゃって思わず本音が出ちゃったから。気分悪くさせちゃったかなかって気にしてて」
「……それはこっちのセリフでしょ」
「?」

 ポカンとした顔をするみょうじさんにホッとするような、呆れてしまうような。どこまでも突き抜ける人の良さにふっと息を吐いて、その手に抱え込まれたノート達を攫う。

「あ、ちょ、大丈夫だよっ。私出来るからっ」
「こないだの罪滅ぼし。させてよ」
「つみ?」
「俺結構酷い事言ったし、しちゃったから」
「……あ。……き、気にしてないのに」

 嘘だ。みょうじさんの顔はあの時の一連の流れを思いだしてまた赤くなっている。気にしてないなんて嘘。視なくても分かる。

「訊いていい?」

 立ち止まったままだった足を前に進めると、みょうじさんも一緒に歩みを進める。自分の仕事を奪われたのにちゃんと目的地まで一緒に来るつもりなのだろう。そんな律儀なみょうじさんに、せめて話題を提供しようと俺から口を開く。

「うん?」
「……俺の事、嫌いじゃない?」
「えっ。なんで?」

 気を遣って口を開いたはいいものの、何も気の利いた言葉は出てきてくれなくて、結局俺が聞きたい事を尋ねる羽目になる。

「いやだってあの時結構酷い事しちゃったし。普通だったらもう関わりたくないって思うじゃん?」
「……うーん、どうだろう」

 そういって頭を悩ませるみょうじさんは本当に悩んでいる様だった。どうだろうって。親しくもないクラスメイトにお尻揉まれたら、嫌でしょ。嫌いになるでしょ。あの時の事を思い出して、怒りが沸くというパターンだって考えられた。それでもやっぱりみょうじさんが怒る姿は視えない。本当に人が良いんだな、みょうじさんって。

「私、人から頼まれると“嫌”って言えなくて。良いように使われてるって分かってるのに、頼られてるって思っちゃうんだよね。……でも誰かを頼るのは苦手で。だからあの時迅くんから言われた言葉は全部当たってるし、事実。だから、それに怒りなんて沸かないし、怒っても良い事なんて何にも無い。それだけだよ」
「じゃあ、お尻揉んだのは?」
「そ、れはっ……」

 みょうじさんの言葉が詰まる。またあの時の事を思い出しているのか、耳が赤く染まる。みょうじさんは初々しい。その姿は見ていると男心を擽られる。

「なんで、あんな事したんだろうって思いはするよ。……でも、あの後直ぐに手離してくれたし、謝ってくれたし、もしかしたら糸くずでも付いてたのかなって思って。……もしそうだったら私の勝手な勘違いで、迅くんに申し訳ないなって思ってる。……それに、迅くんはあの時も、今も、誰も手を貸さない状況で、こうして手を差し出してくれる。良い人って印象のが強いんだ。……だから、迅くん。ありがとう」

 みょうじさんはどこまでも人が良い。放っておくと、ずっとその人の良さを利用されるんじゃないか。そんな危うさをも感じられる。だから、俺みたいな人間に感謝するみょうじさんの事を放っておけないと思った。恋愛なんて面倒くさいだけなのに。俺は、思ってしまったんだ。

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