重なりあう時間 | ナノ
運命の上書き編 捌
百拾壱話
体温と吐息が足りなかった「……いい加減、前と同じところを探さなければいいのかな」
濡れ縁に腰掛け、浅水は小さく呟いた。
既に日は暮れ、空には満天の星と月が輝いている。
あの後、無事に本宮へたどり着くと、ヒノエの計らいでみんなが本宮内へと通された。
もちろん、浅水からすれば、これは驚き以外の何ものでもない。
これではヒノエの言葉通りに、熊野別当が現れてしまう。
熊野は中立。
これは変わらないはずだ。
今の源氏の状況はまだ不利にある。
熊野が、源氏方に付かないとはわかっている。
わかっているが、ヒノエの考えがわからない。
八葉として、個人的に彼が望美の元へ付くのは知っている。
でも、だからといって熊野別当が彼であるということを、今教える必要はないはずだ。
その証拠に、自分の知っているヒノエは、望美が危機に瀕したときになって、ようやくその名を明かしたのだから。
(でも、将臣が本宮にいる時点で、その理屈は通らない)
そう、今は将臣までもがこの本宮にいる。
未だ自分が平家側──まして、還内府その人であること──とは言ってないのだろう。
ならば、ヒノエも尚更、ここで源氏に付くとは言えないはずだ。
だが、あの九郎のことだ。
将臣の正体を知らないとなると、このまま別当に会ったときに、源氏に力を貸してくれと言うに決まっている。
もちろん、真っ先に驚くのは目に見えているが。
将臣は……どうなのだろうか。
彼は余り驚かないかもしれない。
いや、驚いたとしても顔には出さないだろう。
そして、平家のことも何も言わない。
言うとしたら、九郎たちがいないところで秘密裏に動きそうだ。
「この先の運命は、私にはわからない」
片手を天へと伸ばす。
浅水が変わったとばかり思っていたこの流れ。
だが、天に輝く月だけは、以前と変わらずにそこにあった。
それにはホッと、安堵の溜息をつく。
さすがに、今日の出来事はめまぐるしすぎた。
身体以上に、精神の方が疲れている。
このまま寝てしまいたかったが、後一刻もしないうちにこの場に譲が現れるはずだった。
でも、もしかしたら現れないかもしれない。
いっそ、現れても現れなくても、どっちでもいいような気がする。
譲に会ったところで、彼が自分の夢について話してくれるはずもない。
自分が出来たのは、譲に眠り薬を渡すことだけだ。
「どうしたら、いいのかな」
「何をどうするって?」
ふいに聞こえてきた声に、ゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、前回本宮で姿を見なかった将臣だ。
そういえば、ここへ来る前に望美に何かを言われていたっけ、と思い出す。
将臣が本宮行きを決めたのは、彼女の言葉だった。
彼の考えを変えるほどの理由だ。興味がないといえば、嘘になる。
隣に座る?と聞けば、将臣は何も言わずに行動で示した。
「ふふっ、いろいろと、ね。それより、私は将臣が望美に何を言われたのかが気になるところかな」
側に寄ってくる将臣のために、少しだけ自分も移動しながら楽しそうに問えば、思わず将臣の顔がしかめられる。
「あ?」
「本宮に入る前に、何か言われたよね?」
そう言えば、少し思い出すように視線を彷徨わせ「あ〜」と小さく声を出した。
「いやさ、実は俺たち以外にも、この世界に飛ばされた奴がいるんだよ。まぁ、俺の従姉妹なんだけど」
説明を始めた将臣に、浅水の目が少しだけ見開かれる。
まさかこの場でその話を聞くとは思わなかった。
しかも、望美や譲からではなく、将臣の口から。
「んで、望美が俺に言ったのは、その従姉妹の命に関わるからって……翅羽?」
言葉を無くしている浅水を見て、将臣は訝しげに眉をひそめた。
驚いたようなその表情は、どこか呆然としているようでもあった。
浅水僅かに震えていると気付いたのは、胸元を掴む手でだろうか。
「おい、大丈夫か?」
心配そうに身を案じる将臣の声は、浅水の耳に届いてはいなかった。
今、彼はなんと言った?
望美が将臣に話した内容は、何だった。
何度もその言葉を反芻して、有り得ないと否定する。
だが、もしその言葉が本当だったとしたら。
望美の言葉が、真実であるとすれば。
「嘘、でしょ……」
言葉で否定しても、それが事実だと言うことは嫌でも理解できた。
それは同時に、今まで自分が考えていたことが正しかったこととなる。
望美たちも、時空を越えて再びこの熊野へやって来た。
だが、自分一人のために、そこまでする必要があったのだろうか。
平家をあそこまで追い詰めたのなら、後は清盛を滅ぼせば戦は終結したはずだ。
それを、しなかったというのか。
なぜ。
そんなこと、わかっている。
望美が浅水を探していたからだ。
そのために、彼女は時空を遡ることを選んだのだろう。
だが、どうやって遡ったのだろう。
自分は四神の力を借りて、時空を越えた。
だとしたら、望美たちも四神の力を借りたのだろうか。
そういえば、時空を越える前に『あれらは既に決断したようだ』と言っていなかっただろうか。
それが望美たちのことだとしたら。
考えられないことではない。
でも、四神たちは力を失った白龍に力を貸すのを渋っていたはずだ。
それを考えると、四神たちが力を貸したというのも考えにくい。
そこまで考えて、とあることに気付く。
将臣は一緒に時空を越えていないのだ。
もちろん、浅水の命に関わるというのは本当だ。
黒龍の逆鱗の力を防ぐために、浅水はその命をかけたのだから。
自分は知らないが、望美たちは自分の死に様を知っている。
そして、平家にいた将臣は浅水の死を知らない。
あそこまでいけば、望美と将臣が再び再会できる場は戦場でしかないだろう。
だが、戦場で再会したとして、源氏と平家。
敵対しているとわかれば、そこから抜けることもできないだろう。
それを考えると、望美たちが時空を越えたのは自分が死んでから、次の戦が始まる前までの間。
将臣には会っていないろ、容易に想像が付いた。
「ねぇ、将臣」
しばらくして、ようやく我を取り戻した浅水に、将臣はホッと胸を撫で下ろした。
まさか自分の一言で、こんな事になるとは思いも寄らなかったのだ。
「何だ?」
だが、次に浅水の口から発せられた言葉に、今度は将臣が固まることとなる。
「将臣が還内府だっていうのは、望美たちは知らないんだよね?」
一瞬、呼吸をするのも忘れて、隣の浅水を凝視した後、まるで視線だけで人が殺せるんじゃないかというような鋭い眼差しが向けられる。
そういえば、前は情報交換でお互いの身分を知ったんだったか。
「何で、それを知っている?」
固い口調。
警戒しているのが丸わかりなそれは、自分の口から望美たちへ伝えられるのを危惧しての物か。
「私は熊野の神子でね。平家についても知っているんだ。それに、敦盛とは幼馴染みだって聞かされなかった?」
その視線を正面から見据え、薄く笑みすら浮かべてみせる。
「私が女だって言うのは、薄々気付いていたよね?」
重ねて問えば、小さく頷いて再び浅水を見る。
だが、どこか警戒の残る視線は変わらない。
どうすればこの警戒を解いてくれるだろうか。
ここで自分の正体を明かせばいいのかもしれないが、それはまだ出来ない。
「大丈夫、望美たちには言ってないよ。あぁ、熊野別当は、将臣が還内府だって気付いているけどね」
望美には言ってない。
その言葉が鍵だったようだ。
表面上は警戒を解いた将臣に、よかったと胸を撫で下ろした。
「ま、望美たちは明日別当と会うらしいからな。そんときに、何かしら言うつもりだろ」
「だろうね。そしてそれは、将臣の従姉妹にも関係している、と」
そう。
望美たちは明日、熊野別当と謁見することになっている。
全てヒノエの計らい、と言っていたが、ヒノエの正体を知らないのは将臣だけだ。
そして、浅水の正体も。
「いい加減、ここまできたら話しても構わない、よね」
「話すって、何をだ?」
四神は今までと変わらずに過ごすこと、と言った。
時空跳躍しても、自分以外はその時のままという説明を受けたが、どう見ても将臣以外は未来を知っている。
ならば、みんなに話しても大丈夫なのではないか。
そう考えてから、違うと気付く。
「明日、ね。明日になったらわかるよ」
将臣の問いに、答えを先延ばしする。
そうすれば、微妙な返事を返してきたが、どうにか納得してもらう。
その後も、たわいもない会話を続け、夜が更けてきたところで将臣と別れた。
別れたといっても、部屋へ戻ったのは将臣だけで、浅水の方は濡れ縁から離れ、庭へと出ていた。
「今までと変わらずに過ごすこと、っていうのは、生きていたときと同じようにってことね」
先程理解した四神の言葉。
望美たちが時空を越えると決断した後で教えられた制限は、多分そういう意味なのだろう。
「隠そうとしていた自分がバカみたい」
悩みが全て解消されたことで、随分と気が楽になったのだろう。
クスクスと笑みを零しながら、天を仰いだ。
今ならば、熊野権現へ自分の感謝の思いが届くだろうか。
祝詞を唱えるより、舞でも舞ってみようか。
そう思い、腰元へ手を伸ばしてみたが、そこには肝心の物がなかった。
「そういえば、あの場に置いてきたことになるのかな」
屋島で四神の力を借りたとき、小太刀は地に突き刺したはずだ。
そのまま生き返ってしまったのなら、小太刀が手元になくて当然。
その事に納得しつつも、これから先どうすべきか、と考える。
こうなったら、何かめぼしい物を自分の獲物にしなくてはならない。
元々、戦には参加していなかったから、武器があったとしても変わりはないだろうが。
「仕方ない。扇しかないか」
懐から舞扇を取り出し、静かに舞い始める。
熊野権化へ届くようにと。
自分を幼くしたのは、何か訳があってのことだろう。
恐らく、命に関わるような。
自分を救ってくれたことに、ひいては、ヒノエと弁慶、敦盛に巡り合わせてくれたことに。
今の自分があるのは、全て熊野権現のおかげなのだ。
だから、この舞を感謝の気持ちとして。
どこからともなく聞こえてくるのは、敦盛の笛の音だろうか。
それに併せるように、浅水の舞は続く。
いつしか、笛の音が聞こえなくなると、浅水の舞も終演を見せた。
月の位置も既に変わっている。
既に丑三つ時とも呼ばれる時間帯だ。
譲とは会えないだろう。
このまま大人しく部屋で寝るしかない。
そう、踵を返そうとしたときだった。
陰から自分を見詰める視線を感じる。
気配を完全に立っている者、巧妙に隠している者、隠しきれていない者。
それらは、バラバラな位置にいるが、誰と言わなくても想像が付いた。
「いつまでも起きてないで、そろそろ寝ることをお勧めするよ」
そう告げれば、照れ笑いを浮かべながらぞろぞろと姿を現した望美たち。
いつから見ていたのかはわからないが、将臣の姿が見えないということは、彼と別れた後からだろう。
「えへへ……気付いてました?」
「そりゃ、気配が隠れてないのもいたからね」
チラリと視線を流せば、疑問符を浮かべているのは白龍だった。
この神は気配を消すことも知らないのだろうかと、少しだけ疑問に思ってしまう。
「あのねっ、翅羽さん」
何か言いかけようとする望美に、片手を上げることで待ったをかける。
途中で止められれば、何事かと首を傾げている望美の姿。
「明日。全て明日にしよう」
そう言って、望美たちを部屋へ追い返せば、そこに残ったのはヒノエの姿。
「ヒノエには、明日って言っても聞いてもらえないんだろうね」
肩を竦めながら言えば、瞬く内に彼の腕の中へと捉えられる。
きつい抱擁はまるで浅水を逃がさないとでも言うように。
しっかりと、この場に留めておくためのようで。
何も言わない彼の背に、そっと腕を回しながら空を見る。
月へ帰ることはとうに諦めていたはずなのに。
新たに生まれた可能性は、
浅水を惑わすのに充分な物だった。
本宮での夜は将臣と一緒でした
2007/7/20