重なりあう時間 | ナノ
屋島編 拾参
百弐話
躊躇ってから啖呵を切った屋島から梶原邸へ戻ってきても、しばらくの間、誰一人として口を開こうとはしなかった。
そこだけがまるで負け戦だったような重い空気を醸し出している。
原因などわかりきっている。
浅水がこの場にいない。
以前、浅水が一人で熊野に戻ったときがあったが、そのときとは状況が違う。
例え遠く離れていても、浅水は確かに生きていた。
「翅羽さんが、浅水ちゃん」
望美は濡れ縁に座りながら、ぽつりと呟いた。
今までの運命に現れなかった浅水が、この運命にいたことは嬉しかった。
だが、それがわかったのは、既に彼の人がいなくなった後。
なぜ教えてくれなかったのか、とか、今まで何をしていたのか、とか、結局はわからなかった。
詳しいことを知っているのは、熊野組と白龍。
熊野組は、一癖も二癖もありそうな人たちばかりだ。
簡単に話してくれるとは思えない。
現に、ヒノエは自分が尋ねたときにも、似たような名前を聞いたことがある、とはぐらかしている。
だったら白龍は?
望美が浅水を捜しているのは、白龍だって知っている。
それなのに、なぜ翅羽が浅水だと教えてくれなかったのだろうか。
そういえば、白龍はもう少し待ってと言わなかっただろうか?
それを思えば、その時点で既に翅羽が浅水と知っていたはずだ。
ということは、口止めでもされていたか。
誰に、なんて考える必要はない。
口止めするような人は、一人しかいないのだから。
だが、それを確認しようにも、当の本人がいない。
「死人に口なし、かぁ」
大きく溜息をついて、そのまま上半身を後ろに倒す。
そうすれば、見たことのある足元と黒い外套の裾が目に入った。
「ここでお昼寝ですか?」
「弁慶さん」
慌てて起き上がれば、そっと側に座る弁慶にスペースを作ってやる。
その表情を見れば、彼もどこかやつれたようにも見える。
弁慶だって、辛くないわけがないのだ。
「弁慶さんは、大丈夫ですか?」
「女性に心配されるのも、いいものですね」
普段なら、からかっているとわかるから抗議の声を上げるけれど、今の弁慶はその笑みすらも痛々しくて。
「辛いなら辛いって、ちゃんと言って下さいね。じゃないと、心が潰れちゃいます」
言いながら、思い出したのは初めて京にきた運命のときのこと。
誰一人救えず、屋敷が火に包まれるのを見ていることしかできなかった。
みんなは自分を助けようと、次々とその命を散らしていった。
あまつさえ、白龍は逆鱗を自らの首から外し、自分一人だけ元の世界へ戻してくれた。
『今の私なら、みんなを助けられる。白龍の逆鱗よ、お願い。私に時空を越えさせて!』そう思ったのは、いつのことだったか。
すでに数え切れないほどの運命を上書きしている自分には、遠い過去のことのようにも思える。
運命を繰り返すたび、自分のことを覚えていない人たちに胸が痛んだ。
それでも、自分が選んだことだから、と今までやってこれた。
どうしてもくじけそうなときは、白龍やリズヴァーンに内心を打ち明けてさえいた。
でも、自分の目の前にいるこの人が、誰かに弱音を吐いている姿を見たことがない。
「軍師といういうはね、望美さん。いつだって、自分の感情を制御出来なきゃいけないんですよ」
「っ……!ここにいるのは軍師としての弁慶さんじゃないでしょう!それとも、そうやって感情を抑えなきゃいけないほど、浅水ちゃんが好きだったとでも言うんですか?!」
「望美さん……」
バン、と床を叩いてその場に立ち上がった望美に、思わず瞠目する。
確かに、この場にいるのは軍師としてではない。
だがら、感情を抑える必要は何一つとしてないのだ。
「そう、ですね。君の言うとおりだ。でも、ヒノエがああなのに、僕が醜態をさらすわけにも行かないでしょう?」
その言葉にハッとする。
浅水は違うと言っていたが、傍目から見ていてわかるほど、二人は相思相愛だったのだ。
そんなヒノエが、屋島からこちら。
何一つとして浅水の事を口に出していない。
「ヒノエくん、もしかしてずっと……?」
「ええ、多分睡眠も取っていないんじゃないかと」
「そんな!」
そのままヒノエのいる部屋へと走り出しそうな望美の手を、とっさに弁慶が掴む。
ぐい、と後ろに引かれ、思わず立ち止まる。
振り返れば、何かを言いたげな弁慶の顔。
「弁慶、さん?」
こんな表情は滅多に見れないから、何かあったのかと不安がよぎる。
呼ばれた方は、望美と自分が掴んだ手を数回見比べてから、そっと解放した。
「望美さんは、みんなを広間に集めてもらえませんか?僕はヒノエを連れて行きますから」
「どういう、ことですか?」
「些細なことですが、僕が知っている彼女のことを話しましょう。君だって、聞きたいでしょう?」
その言葉に、望美の身体が強ばったのを感じた。
探るような目は、彼女の何を知っているのか、と訴えている。
自分が知ることは本当に些細なことでしかない。
十年前に話してもらったことと、最近の彼女の行動から予測した物。
彼女が何を思っていたかなどは、とてもじゃないがわからない。
それでも、何も話さないよりは話しておいた方がいい。
何より、望美は彼女を捜し求めていたのだから。
「……わかりました。みんなを広間に集めます」
暫しの逡巡の後、一つ頷いてから望美はその場を駆けだした。
遠くなっていく望美の後ろ姿を見ながら、弁慶は天を仰いで目を伏せた。
「浅水さん……」
その後、一人で部屋にこもっている甥っ子を広間に呼ぶため、弁慶もその場を後にした。
「ヒノエ」
そっと障子を開けながら声をかける。
あてがわれた部屋で一人、何をするでもなくただ宙を見ている。
無気力、と言う言葉が一番合うのではないかと思える状態。
そんな姿は普段のヒノエからは考えられなかった。
いつものヒノエは、どこか勝ち気で自信に満ちていた。
それなのに、今の姿はどうだろう。
「ヒノエ、僕の声が聞こえますか?」
目の前に座り、ヒノエの顔を覗き見る。
生気のない瞳は虚ろで、どこを見ているのかわからない。
あれから一睡もしていないせいか、頬は痩け、目下にはクマが出来ている。
これほどまでにボロボロな甥の姿は、初めて見る。
(浅水さんの存在は、君にとってこれほどまでに大きかったんですね)
そっと溜息をつきながら、ヒノエの頬に触れる。
両手で頬を包み込み、真っ直ぐに瞳を捉える。
「君はいつまでこうしているつもりですか。ここでこうやっていても、浅水さんは戻らない」
厳しい声で告げれば、ピクリと小さく身体が揺れる。
言葉に反応するとうことは、聞こえているということ。
「君がいつまでも沈んでいることを、彼女が望むとでも思っているんですか?」
「っ……」
揺れる瞳。
多少厳しいかもしれないが、ヒノエをこちらへ呼び戻すためには、それくらいが丁度良い。
「熊野別当ともあろう君が、たった一人亡くしただけでこんな醜態をさらすとは。……熊野の先も、見えたような物ですね」
「っ、黙れっ!」
急に胸ぐらを掴まれても、表情一つ変えずに相手を見る。
いっそ、蔑むような冷めた瞳で。
「アンタに何がわかる!」
「わかりませんよ、何も」
もっと、もっと感情的になればいい。
それで普段の調子を取り戻せるのならば、自分はいくらでも悪に回ろう。
「君が何も言わなければ、誰にも、何も伝わらない。そんなのは、火を見るよりも明らかでしょう?」
「煩いっ!」
「黙れと言ったり、煩いと言ったり、全く忙しい人ですね」
やれやれ、とわざと大きく溜息をついてみせる。
ヒノエの瞳に浮かんでいるのは、闘志にも似た熱い感情。
敵意、と言ってもいいかもしれない。
後、もう一押し。
「僕はこれから、広間でみんなに浅水さんのことを話す約束なんです」
「浅水の……?」
「そう、君も知らない浅水さんを、少しだけれど僕は知っている。君は、どうしますか?」
このまま一人、ぐだぐだと部屋にこもっているか。
それとも、浅水の話をみんなと一緒に聞くか。
二つに、一つ。
「……広間に、行く」
「わかりました。一人で、歩けますか?」
「フン、そこまで落ちぶれちゃいねェよ」
ようやく、いつもと変わらない態度を取ったヒノエに、ホッと安堵する。
これで大丈夫。
少し時間はかかるかもしれないが、彼は必ず乗り越えるだろう。
「では、行きましょうか」
立ち上がり、弁慶はヒノエを待ってから二人で部屋を出た。
ヒノエと弁慶が広間にやってくる頃には、すでに他のみんなは集まっていた。
「やっときたな。自分から言い出しておきながら、最後に現れるとはどういうことだ」
「まぁまぁ、九郎。弁慶やヒノエくんにだって事情はあるんだから、察してやりなよ〜」
「ヒノエ……」
「翅羽……いや、浅水殿が亡くなられて悲しいのは、ヒノエだけではない」
「……わかってる」
「ヒノエくん、大丈夫?」
「望美にも、心配かけたね。オレは大丈夫だよ」
口調はいつもと変わらないが、力なく、覇気を感じられないヒノエの声に、どれほど彼が傷ついているのかを知らされた瞬間だった。
誰しもが口を閉じ、まるで通夜と変わらない。
「弁慶さん、教えてくれる約束でしたよね」
そんな空気を破るように望美が口を開けば、弁慶に視線が集中する。
「ええ、お話しします。でも、僕が知っているのは本当に些細なことですが」
「それでも、構いません。翅羽さん……浅水ちゃんのことを、教えて下さい」
「そうですね。どこから話そうかな……彼女と初めて会ったのは、十年前。熊野の森の中でした」
弁慶の昔話を、誰もが興味深く聞いていた。
ヒノエに土下座して謝りたい
2007/7/2