冷え込んだ早朝、手の込んだ食事を取る暇もない相澤は最低限の栄養を摂るべくゼリー飲料を口に咥えながら部屋を出る。
冬の朝日は怠け者で、随分ゆっくりと昇っていた。まだ紺色が空の大部分を覆っているのを見て、白い吐息が漏れ出た。

いつもは人ひとり見当たらない時間に、雑草ひとつ生えていない花壇の縁に腰掛けている背中が見えた。
あまりにその後ろ姿が小さく見えて一瞬子供かと疑ったが、少し近寄ってみれば20代前半くらいの女だと判る。
ふと振り返った顔に見覚えがあって、相澤は足を止めた。

「…みょうじか」

声をかければ、相手は笑うような愁うようななんとも言えない表情を浮かべて立ち上がった。
ひとつ頭を下げて、それから一言「先生」と相澤を呼ぶ。
今日は日曜日であったが、相澤には終わらせておきたい仕事があった。数秒の逡巡ののち、相澤はポケットから携帯端末を取り出す。
画面を点ければ、同僚からのメッセージが一件入っていた。

「昨日雄英の寮に行ったら、マイク先生にここだって聞いて」
「昨日…?」

咄嗟に思いついた仮説を頼りに相澤がみょうじの手を取ると、指先だけでなく手首までもが熱を全く失い色が変わっている。

「なにやってんだ馬鹿!」

立ち所に氷のような手を掴んでマンションに引き返し、先程電源を切ったばかりの暖房を再度点ける。
玄関で立ち尽くすみょうじをリビングに押し込んで無理やりソファに座らせ、毛布を膝に掛けてやると心なしか体の震えはましになった気がした。
普段は使わない浴槽を掃除して湯を溜める。その間、珈琲を淹れてみょうじに出したが、手が震えて飲めないと言った。

高校卒業後すぐにプロヒーローデビューしたみょうじであったが、個性の性質上表立って目立つような活動はして来なかった。
相澤とも何度か仕事をしたが、みょうじの役割は心も体も相当消耗しそうなものであると感じてはいた。
彼が見た範囲であるが、何日にも渡る潜入捜査であったり、何度も姿を変えて敵を撹乱させるような任務ばかりだった。
それでも役に立てるのならと無理を押していたのが祟ったのだろう、数ヶ月前に活動を休止した。
彼女の所属事務所によれば、医者からストップが掛かったのだと言う。
相澤が知っているのはそこまでだった。
かつての教え子であり、仕事を共にこなした仲間でもあったので心配はしていたが、学生時代の和やかなみょうじの姿は見る影もない。

凍傷になり掛かっている手に毛布をかけ、相澤はみょうじの頬から耳にかけてを包み込むように手のひらで暖めた。
俯いた睫毛の向こうに濃い隈が見て取れて、この数ヶ月見ない間に随分とやつれたようだ。
飯食ってるか、人の事を言えない自覚はあったが、そう尋ねればやはり力なく首を振った。

給湯器が音を立て、湯を張ったと合図する。
謝るみょうじを脱衣所へ詰め込むと、相澤は閉じた壁越しに食べ物を買いに行ってくると伝えた。



湯船に手を沈めると、熱く冷たい刺すような痛みがじんわりと襲ってくる。
浴室に置いてあるのは固形石鹸とシャンプーのみで、冷えすぎた手では体と頭を洗うのに少々手間取った。
漸く体を流して湯船に浸かれば、またじんわりとした痛みが手足を伝ってきた。
思えば、こうしてゆっくり湯船に浸かるのはいつぶりだろうか。
ぼんやりとしながら暖かな湯に肌を撫ぜられていると、いつまでもそうしていたいと思える。

手足の自由が徐々にきくようになってきたのを実感して浴室を出ると、丁度玄関の鍵が開く音がした。
みょうじは用意されたバスタオルで体を拭う。そして洗面台の鏡を見てはたと動きを止めた。

「だれ…」

静かに溢した言葉と同時に、自らの顔を確かめるように触る。その顔は彼女自身のものに他ならなかったが、幾度も姿形を変えてきたみょうじは、いつしか自分の顔さえも忘れてしまっていた。
短い呼吸を何度も繰り返し、頭を抱えながら蹲った。溢れた涙は膝の上を滑り落ち、嗚咽は脱衣所の外まで漏れていた。
異変を察知した相澤が慌てて声をかける。

「みょうじ、大丈夫か?」

しかし返事はなく、只々咽び泣く声が聞こえてくるだけであった。躊躇いはあったが、入るぞと一声掛けて扉を開ける。
其処には、バスタオル一枚を羽織っただけのみょうじが縮こまって涙を流していた。

「…みょうじ」

顔を覗き込むように側に寄ると、みょうじは相澤に縋り付く。

「せんせ…っ、消してください……」

今にも消え入りそうな声で、たったそれだけをみょうじは願った。
震える体にやんわりと手を回し、安心させるように頭を撫でる。相澤は子供に諭すように優しく言葉を紡ぎ出した。

「…大丈夫だ。誰でもない、お前の顔だよ。俺がついてる」

大丈夫。
何度も言い聞かせるように、相澤は濡れた髪を梳かした。



隣で眠る女の髪に指を通した。
つい先程まで艶かしく扇情的に乱れていたその顔は、無垢な少女のように健やかであった。

まさか自分が15も歳下の娘に、それも教え子に手を出すことになるとは、相澤自身も思ってはいなかった。
こんな関係が続いてからもう半年経つが、毎週末自宅マンションに帰ればみょうじがいることは、相澤にとって細やかな楽しみにもなっていた。
みょうじが相澤の側に居たがるのが、自分の個性を求めてのことだとは解っている。
この関係は依存以外の何物でもないことも。
また自分の足で立ち上がり、前へ進むことが出来るようになればお払い箱だ。
きっとそれは、彼女にとって良いことである。
しかし相澤は願わずにはいられなかった。

このまま自力で立ち上がることも歩くことも出来なくなって、自分の傍にいつまでも居ればいいと。

梳いた髪の先に唇を落とすと自分と同じ香りがして、相澤は瞼を閉じた。

がらすのくつ

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