その日の帰り際、名乗り合った彼女はなまえと言った。

「環くん、またね」

そう言って手を振る彼女に小さな会釈を返すと、天喰は帰途につく。
県立博物館の最寄駅は普段利用しない沿線である。きっともう二度と会うこともなかろうと思っていた彼女との再会は、案外呆気ないほど早かった。



講義を終えた天喰は事務所へ向かう為、颯爽とキャンバスを後にする。耳に装着したイヤホンでゲームのサウンドミュージックを垂れ流し、足元一メートル先の地面を見つめながら人とぶつからないよう前へ進んで行く。
そんな彼の視界に突然現れた障害物は、シンプルなブランドロゴの入った赤いキャンバスシューズ。
焦って思わず足を止めると、今度は見慣れない顔が視界の中央に割り込んできた。
五分袖のクルーネックシャツと、一見スカートのようにも見えるクロップドパンツに身を包んだその人は、全く見ず知らずの女性だ。
目の前の人物が誰なのか見当もつかない天喰が無言で困ったように口を結ぶのを見て、女性は屈託のない笑みを浮かべる。
あどけなさの残るその表情には、つい数日前に見覚えがあった。

「なまえさん…」
「環くん、このあと時間どう?」
「いや、仕ご…バイトが」

つい小さな嘘をついたのは特別なんの意味も無かったのだが、疑いひとつなく「ふーん、そっか」と聞き流した彼女は、それならバイト先まで車で送らせて欲しいと言う。
勿論初めは断ったが、先まで大人の女性に見えていたのが嘘のように例の駄々こねが始まったので、天喰は渋々了承した。
路肩に停めてあるという"車"を見て、勝手ながら軽自動車を想像していた彼は少々面食らってしまう。
多くタクシーに運用されている、一般には高級車の部類に入る車種であったからだ。

半ば押し込められる形で助手席に乗り込みながら、車内を窺い見る。新車よろしく隅々まで手入れの行き届いた様子に、ちょうど運転席に乗り込んできたなまえに尋ねた。

「納車したばかりか…?」
「ううん、確かこれは三年くらい前だけど」

どうして、と心底疑問そうに聞き返す彼女に天喰は正直な感想を述べる。

「意外だ。なまえさん車好きなのか」

汚れの目立ちやすい黒の車体も非常に綺麗であったし、これだけ車内も掃除や手入れが行き届いているのなら相当車が好きなのだろうと推察したのだが。
彼女は笑ってそれを否定した。

「いやいや、車はうちの人が手入れしてるから。わたしはたまーに乗る程度」

事故起こしそうだから乗るなって言われてんだけどね、続けざまに冗談めかしてはにかんだ笑顔に、胸が締め付けられる。
うちの人、その言葉を起爆剤として天喰の中でなにかが壊れる音がしたが、立て続けに聴こえてきたエンジン音で蓋をした。

何故そこに気付かなかったのだろう。
彼女の年齢をはっきり聞いてはいないが、恐らくは天喰より年上だ。それにしても二十代前半の女性が持つには立派すぎる車が、どうして彼女の所有物だと思い込んでしまったのだろう。
ハンドルを切る彼女の左手薬指には指輪こそはめられてはいないが、なぜ未婚者だと決め付けてしまったのだろう。
自らの愚かさ故に自己嫌悪に陥った彼は、さながら道案内だけに勤しむカーナビのようである。
いつのまにか目的地へと到着した車は動きを止め、エンジン音ももう聴こえなかった。車内から見える看板を読み上げながら、彼女は助手席に座る天喰に尋ねてみる。

「バイト先って、…ヒーロー事務所?」
「、いや……その向かいのコンビニ」

ヒーローであることを隠す必要はないが、なんとなく恥ずかしかった。こんな自信のない自分がヒーローを名乗ることが烏滸がましいと、きっと笑われると彼は思ったのだ。
しかし、不思議そうに首を捻った彼女は残念そうに若干声音を下げて呟いた。

「あれ、そうなの?なんか…環くんがヒーローって、すごく似合うと思ったんだけど」

その言葉に、思わず俯いていた顔を上げる。
どうして俺なんかを、そんなふうに肯定してくれるのか。貰い物のチケットを譲ったから、たったそれだけで?考えてみたってわからない問答は辞めた。
知り合って間もない自分を、素性も知らぬままにヒーローとして認めてくれたのだ。
彼女がくれたたった一つの言葉でこの人を、こんなにも求めてしまう自分を愚かだと笑って欲しかった。
一度は堰き止めた感情が弾けるのと同時に、本音を口走ってしまう。

「…すき、だ。俺…なまえさんが」

気持ちを音に乗せた途端、急速に頭が冷えて行く。ぽかんと口を開けている彼女が次に何と言うのか怖くなって、天喰は逃げるようにまくし立てた。

「返事は要らない、というか…わかってる。だから、もう……会えな…」

シートベルトを雑に取り払って逃げ出そうとドアに手を掛けるが、どうしたことか開かない。
少し考えてみれば運転席側の集中ドアロックが掛けられている為なのだが、彼はこの時ひどく動揺していたのだ。

「会うよ」

そんな彼の汗ばんだ手を包み込むように華奢な手が重なると、運転席から身を乗り出した彼女の端正な顔が近づいて来た。
いつになく真剣な眼差しは、懇願するように言葉を吐く。

「…会ってよ、何度でも」

あの切ない声にそう言われてしまえば、自分には是の言葉しか残されていないようではないか。
このとき味わった苦くて甘い唇の味を、天喰は今でも覚えている。

彼女が実は既婚者なんかではなく、父親が会社経営をしている為に家で何人か使用人を雇う程に裕福だっただけだということが発覚し、天喰が恥をかくのはそれから一ヶ月先のことだった。

不倫関係を続けているなどという勘違いは解けたものの、天喰はなんとなく言う機会を逃して自らがヒーローであることを打ち明けられずにいた。
言わなければと分かってはいたが、楽しそうに話をする彼女を見ているとつい、「今度でいいか」という気が湧いてしまう。
日々に忙殺され会える時間は限られていたが、彼女も彼女で忙しいらしくそう頻繁に会う約束はしなかった。それでも電話やメッセージでのやり取りがあれば幸せを噛み締められた。
だからだろうか、天喰は彼女にも打ち明けられない秘密があるという可能性を失念していたのだ。

- 2 -

prev | next
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -