受付は二十代後半程の若い女性。わざわざご丁寧に残り三十分で閉館することを来館者に告げるが、彼はそのほんの僅かな時間の為に二千円を支払って閉館間際の博物館へ滑り込んだ。
展覧は一ヶ月先まで続いているが、どうしても今日彼は此処へ訪れたかったのだ。
其処はつい先程別れを告げて来たばかりの恋人との、出会いの地だった。



あの日ふたりが出逢ったのは、単なる偶然に違いない。
湿っぽい季節を乗り越えた初夏のある日、天喰環は暇を持て余していた。
講義も事務所からの出動要請もない休日は久々で何も考えずにいられたが、却ってそんな日に何をすれば良いのか分からなかった彼は、手持ち無沙汰に外へ出てみようと一先ずで室内着から着替えを済ませたのだ。
玄関で屈みながら黒いスニーカーの靴紐を結ぶ途中、ちょうどよく扉が開いて天喰はそちらへ視線をやる。
どうやら母親が買い物から帰宅したところであったらしい。スーパーのレジ袋から顔を出している野菜を横目に「おかえり」と呟く天喰に、彼の母親は唐突に何か思い出したように声をあげた。

「環あんた、虫好きだったわよね?」

母の語弊のある口調に思わず口を結んだ天喰であったが、彼が好んでいるのは蝶でありなにも無類の虫好きというわけではないのだ。
訂正しようにもタイミングを逃した彼はそれすら叶わずに、ただ母が着ている薄手のカーディガンのポケットからずいと眼前に差し出された紙きれに焦点を合わせざるを得なくなった。

「昆虫展覧会……?」
「ご近所さんに貰ったのよ、余っちゃったからって。あんた暇なら見に行ってきたら?」

せかせかとリビングへ向かって歩いて行く母親の背に短な礼と返事をしながら、天喰はたった今自分のものになった二枚のチケットを眺める。
世界昆虫展覧会。開催場所はこの辺りでも一番大きな県立の博物館で、表題通り世界中の昆虫をはじめとした数多くの虫達が展示されるらしい。無論、蝶も例に漏れず。
展示期間終了はまだ先だが、学業の傍らといえどヒーローという肩書を背負っている彼には次いつ休みがあるか分からないのだ。
母親の言う通り、どうせやることがないならこの展示を見に行くのも良いかも知れない。
早速目的地が定まったところで、中途半端になっていた靴紐を結び直すと天喰はチケットをポケットへと突っ込んだ。

二本電車を乗り継ぎ、最寄駅から徒歩数分で到着した県立博物館は、平日である為か思いの外来館者が少なかった。
世間一般に於ける夏休みより一ヶ月早いので子供の姿もなく、客層はといえば天喰と同年代前後の大学生や仕事を定年退職後の老夫婦が主だ。
強い日差しから逃れるように自動扉を潜ると冷たい風が頬に当たって心地よい。たった十分弱歩いただけだというのに汗ばんでいた身体が徐々に温度を下げて行く。
正面入り口から入館してすぐ目に入った、右手壁際に設置された受付カウンターを確認すると彼はポケットからチケットを取り出した。
指先の感覚で一枚抜き取ったのと同時に零れ落ちたもう一枚のそれを拾い上げようと片膝をついて屈んだとき、不意に受付でなにやら騒がしい声がして顔を上げる。

「お願い!どうしても今日しかないの!」
「そうは言われましてもお客様…」

そこでは一人の少女が両手を合わせて"お願い"の姿勢を取っている。気の毒なことに、二人いる受付のスタッフは困り果てた表情で顔を見合わせていた。
歳の頃は十七か十八、下手すれば自分と同い年かもしれない。少女を眺めながら、天喰はそんなことを思う。
それから、少女の姿に目を奪われた。見惚れたのではない。天喰は呆気に取られた。
白い清潔感のある衣を纏っていたのだが、どこからどうみてもそれは寝間着ではなかろうかと思えたからだ。
受付カウンターからは見えないだろうが、後ろからならしっかり見える足元はどうやら室内用スリッパだった。
もしやあれを履いて外から入館したのだろうか。思う所は多々あったが、聞こえてくる話によるとどうも彼女の手持ちが足りずチケットが購入できないらしい。
そこで常人ならば諦めるなり金を降ろすなりするところを、頭を下げてどうしてもと頼み込んでいるわけであるが、それは流石に無理というものだ。
暫し入り口の前でその様子を眺めていた天喰であったが、そういえば手中にもう一枚余分なチケットがあることに気がつく。
汗でほのかに湿気を含んだ紙に視線を落としたのち、彼は立ち往生している背中に向かった。

「先程から申し上げている通り一度お財布を取りに行かれては…」
「だからそんな時間ないんですってば」
「あの…余ってるからよければ」

悶着していた三人は、突然横から割って入った声の主を見る。一度に六つの目がこちらを向くのに、もしや自分は野暮なことをしてしまったのだろうかと身体が強張った。
が、こちらを見た例の少女が瞳を瞬かせて「いいの?」と聞くので、それも杞憂だったとすぐに解る。
貰い物だというのに我が物顔でテーブルの上に出された二枚のチケットを見たスタッフは心底安堵したような顔を浮かべて、半券を切り取ると「お楽しみください」と笑顔で彼らを見送った。先まで引き攣っていた顔が嘘のようだ。

「ねぇきみ、ほんとありがとう。助かっちゃった」
「あぁ」

本当に助けられたのはもしかしたら受付のスタッフ達かもしれないが、人懐こく笑む彼女を見ていると悪い気はしなかった。
一番近い甲虫の展示室へ向かう道中も隣を歩く彼女に、いつまで付いて歩くのかという疑問が浮かぶ。
何もない廊下を見渡してそわそわ落ち着かない様子でいる横顔を眺めていると、その視線にようやく気付いたらしい。

「私、こういうとこ初めてで。ね、一緒に回らない?」

人見知りな性質のある天喰にとっては返答に困る提案だった。彼女は先程出会ったばかりの他人、それも決して良いとは言えない印象の。
天喰の沈黙を肯定と取ったか否定と取ったか、展示室の入り口に差し掛かると少女は暗い部屋の点々と照らされた灯りの下へ小走りに駆けて行った。
一階正面出入口付近ではぺたぺたと間の抜けた音を立てていた彼女の足元も、フロア全面に敷かれたカーペットの上では鳴りを潜めている。
受付で駄々をこねていた彼女も同様、いざ展示室に入れば大人しく標本を眺めていた。
天喰はといえば正直、当初昆虫にはなんの興味もなかったのだが思っていた以上に楽しめた。
一見無意味なように見える部位や模様の役割だとかを理解すると、野生生物というのは所謂弱肉強食の世界で生き抜く為に進化を繰り返してきたのだということに興味をそそられる。例えばの話だが、彼が虫を喰らえばあの器官は使える、なんて想像が膨らんだ。

興味といえば、展示室に入った途端人が変わったように一言も口を開かなかった彼女の存在も気にせざるを得ない。
結局、蝶の展示室を最後に残して今の今までなんとなく彼女と行動を共にしてしまっている。それも、いつのまにか天喰が彼女の背を追うようにして。
蝶の展示室へと向かう少女の背中に、なぜか惹きつけられる。

展翅板に固定された鮮やかな標本が壁にいくつも掛けられている。今日博物館で昆虫達を見てきたよりもゆっくりと進む少女の足取りを見る限り、彼女の目当てはこの展示なのだと確信した。
展示も室内の半ばまで差し掛かった頃、彼女が足を止める。少女の前に掲げられた、美を名に冠する世界一などと銘打たれたモルフォ蝶。その隣、瞳が見ていたのは夜明けの空のような深い藍色。オオルリアゲハだった。
聴こえるか聴こえないか程の小さな囁きは、痛いほどに切なげに天喰の鼓膜に届く。

「きれい……」

彼女の視線の先にあるそれらを眺めながら、たしかに奇麗ではあるが、しかし死骸を伸ばして箱に閉じ込めたそれを心底美しいとは思えなかった。
彼はただ鮮やかな翅を見るのが好きなわけではない。

「………俺は」

独り言に返事するなんて野暮かもしれないが、彼の口をついたそれもまた独り言に過ぎなかった。

「飛んでいるほうが綺麗だと思う」

瞬間、意外そうな顔が天喰を振り返る。僅かばかり見開かれた瞳が照明に反射して宝石のようで、彼は目が逸らせなくなった。
暫く立ち止まっていた二人を、何人かの他の来館者が抜いて行った頃。少女はふっと顔を綻ばせて、そうだねと言った。
それからすたすたと、残りの展示物には目もくれず部屋の出入り口へ向かう背を追う。
不思議な少女だと、天喰は思った。
常識のない言葉で周りを困らせるくせに、不意に物憂げな表情を見せる。かと思えばけろりとしてしまってどれが本当なのかまるで掴み所がない。

あぁ、そうか。
彼女はまるで蝶のようだ。

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