事態が変化を見せたのは、天喰と彼女が出会ってから半年程の頃だった。
ヒーロー活動中に連絡を取ることは難しいが、講義の片手間でメッセージの返事を返すような毎日が続いたある日。

付き合いだして当初は日に何度も交わしていたそれも時を経るごとに段々と回数が減って、この頃は彼女から一日に一度生存確認のような文言が届くのが常だった。

おはよう、環くんは元気?

毎度決まった定型文は、早朝であったり午後であったり、時には日が変わってすぐの時間であったり。とにかく時刻には関係なく彼女の挨拶はいつも「おはよう」で、天喰も同じように「おはよう」と返す。そんな些細な約束事さえもが彼の頬を綻ばせるのだ。
が、しかし。
今日は彼女からの返事が二十四時間、つまり丸一日返って来ていない。こんなことは初めてだったが、きっとそれほど仕事が忙しいのだと彼は自身を納得させるほかなかった。

彼女からの返事が途絶えて一週間が経った。無論その間電話を何度か掛けてみたり、毎日一通は彼女のメッセージを模して送ってみたが音沙汰はない。事務所の先輩にそれとなく相談してみれば、新しい女を紹介してやるなどとまで言われてしまう始末。
願掛けにも似た想いでお馴染みの定型文を送ると、これで最後にしようと心の内で呟いた。

今日、返事が来なければ彼女のことは忘れよう。

誰に言われずとも心の何処かでは薄々解っていたのだ。もしかしたら彼女がもう、自分に飽いたこと。もしくは互いに忙しいと思っていたのは天喰のほうだけで、彼女は本当は寂しかったのかもしれないこと。或いはたったひとつの秘密を打ち明けられず大切に隠し持っていたこと。
何が悪かったのかなど、思い当たる節が多すぎて彼には一つに絞り込むことなど不可能だ。
ただひとつ、彼は自らに非があるのだと信じて疑わなかった。それは天喰の生まれついての性質に由来する思考であり、そして彼女を信じたいが為の、ある種盲目的な信仰にも似ている。

そんな出口のない迷路のように混沌とした気持ちを抱えたまま街中で出現したヴィランと対峙した彼が次に目を覚ましたのは、覚えのないベッドの上であった。
鼻をつく独特の匂いは薬品のような、そうでないようにも思えたが、起きがけの意識ではうまく判別がつきそうにない。
カーテンの開け放たれた窓の外では真上から陽が照っているところを見ると、恐らく翌日の正午くらいだろうか。
よく見たら足が折れていることも、天喰が目覚めたことに気付いた看護師が主治医を呼びに行ったことも、受け応えが出来るか等諸々の検査を受けていることも、今、彼にはぜんぶがどうでもよくて。
ただ、昨日自分が送ったメッセージに対する彼女からの返事を確認せずに居られる状況にただただ安堵した。
そんなことを思う自分は、最低だ。これ以上ないほどに自分を蔑みながら彼は、眩し過ぎる陽の光を腕で遮断してそれから。

それから、瞼の裏に彼女の笑顔を思い描く。悪戯好きな瞳に、我儘な唇。腕白な踵と優しい掌。姿形、仕草や声から何まで思い出せてしまう己が今は殺してやりたいほど憎い。

その夜瞼を腫らせながら眠った彼は、時計が午前七時を告げる三分前に目覚めた。
昨日看護師が置いていった松葉杖を頼りに廊下を散歩しようと思い立つ。二日ほどほぼ寝たきりになっていた所為か身体中が音を立てて軋んだが、それもエレベーターで一階へ降り立つ頃には気にならなくなった。

散歩を終えて部屋に戻ろうとした時、ふとガラスに映り込んだ自らの姿に既視感を覚える。天喰は胸につかえた違和感を払拭できぬまま自室のある4階へ戻ろうとする。
405号室の自身が使用している病室へ向かう途中、そのひとつ手前の病室の表札が目に留まって息を飲んだ。

404号室
みょうじなまえ 様

「あら、天喰さん。歩いて大丈夫?」

天喰の身体を案じる通りすがりの看護師に返事をするより先に404号室の患者について尋ねると、一瞬その顔が翳ったのを彼は見逃さなかった。

「あぁ、みょうじさん。もう一週間以上意識が戻っていないのよね…」
「この人ってもしかして……」

彼女の特徴を挙げ始める天喰に看護師は目を丸くしながらひとつひとつ頷く。確認作業を終えて黙り込んでしまった彼にそろそろ部屋へ朝食を運ぶと声を掛け、看護師は去って行った。

思えば天喰は彼女の姓すら知らなかったのだ。聞かされたのは名前だけで、彼は彼女のことをなにひとつ知らなかったことを思い知らされる。
なまえとみょうじなまえは、ほぼ同一人物だった。
足元を眺めていた自分の視線がある一点に集中した瞬間、あの日博物館で見た光景と合致する。
先にガラス窓に映った自身の姿、その装いは初めて出会った日に彼女が着ていた、それは患者衣だったのだ。あの頃から彼女は入退院を繰り返していたのだろうか。
自分が知らない彼女を知りたかったような、知りたくなかったような。それで尚自分はまだ捨てられていないかもしれないという事実に内心安堵してしまう自らの愚かしさを恥じる。
こんな自分本位な人間が、彼女に合わせる顔なんて。どれだけ己を軽蔑してみてもきっと彼は、その病室の扉を叩かずにはいられなかった。

震える手を軽く握り、深呼吸をひとつ。それから息を吸って彼は扉を二度ノックした。
何秒かのち、がらりと開かれた扉の隙間から顔を覗かせたのは中年の女性。その目元は隈に縁取られひどくやつれているが、装いを見る限り入院患者ではないようだ。

「あの、…….」

勢いで扉を叩いたものの自身を何と説明すれば良いのかわからずに口籠る天喰の顔を見て目を丸くしたが、何か合点がいったように柔らかく目を細めて女性は彼を病室に招き入れる。どこか面影を感じる彼女はなまえの母親だった。
ベッド脇に置かれた椅子にどうぞ座ってと声を掛け、女性はその向かいの椅子に腰掛ける。
人形のように眠っている彼女を間に挟んで。

「あなたが天喰さんね」

今度は天喰が目を丸くする番だった。とはいえ、彼女の両親ならば恋人の話が伝わっていてもなんら不思議ではない。
ぽつりぽつりと、母親は彼女について話し始めた。

不妊治療の末に授かった一人娘で、両親は大層可愛がった。そんななまえが病を患ったのは小学校高学年の頃だ。生死の境を彷徨いながらなんとか持ちこたえたが、医師からはいつ容体が悪化しても不思議ではないと言われた。
無論そんな状態で退院が許されるはずもなく、中学の入学式は勿論卒業式にすら出られなかった。容体が安定してきた頃に一度退院し高校受験は辛うじて受けられたが出席数が足りず結局退学し、それからまた入退院を繰り返す日々。幾多もの季節を浪費してきたある日、なまえは医師に余命を宣告されたのだ。
初めは遠い景色を見つめてぼんやりしていた彼女だったが、何を思ったかある日突然病院を抜け出した。
母親は肝を冷やしたそうだが、本人からの連絡を受けて県立博物館へ向かいに行った時彼女は憑き物が取れたように晴れやかな顔をしていたと言う。
それからだったらしい、彼女が頻繁に姿を消して周りを冷や冷やさせるようになったのは。
天喰の身にも覚えのあるそれに内心申し訳なさが募ったが、如何にも"彼女らしい"とつい笑みが零れた。

しかし病は非情にも、着実に彼女の身体を蝕んでいて、日ごとに彼女は衰弱していった。
余命はとうに過ぎて、医師によれば彼女に残された時間は恐らく数えるほどだという。
それでも毎日彼女は目を覚ますたび欠かさず携帯端末を確認して、どれだけ時間がかかっても一文字ずつ言葉を打っていたのだ。
一言一句違わぬ文言のその裏で、日毎に積もり募ってゆく死への恐怖や不安をひた隠しながら自身を案じてくれていたなまえに、ただ愛しさが溢れた。それは頬を伝い顎から滴ってシーツに染みを作る。
男が泣き顔を見られたくないなんて誰が言い始めたのだか彼には知らぬことだが、花瓶を抱えてそっと病室を出て行った母親の気遣いには助けられた。

目を覚まさない恋人との時間は止まったように無限に感じられて、いつか見た展翅板の中の蝶はこんな気持ちだったのだろうかとまた一粒彼は雫を零す。
これを永遠と呼ぶのならあまりに辛く苦しく、残酷なほど悲し過ぎた。
止め処なく溢れる涙と比例するように、行き場を失くした愛しさは胸の内で膨らんで際限を知らない。
もしもこの世に神様がいるというのなら。柄にもなく不可視の存在に縋ってしまうほど、今は願わずには居られなかった。

瞳に張った涙の膜の向こうで、白いシーツが衣擦れの音を立てる。閉じた瞳はそのままゆっくりと何かを探るように彷徨う細い手を、彼はそっと握りしめた。
彼女ほどうまくは笑えないと不器用な笑みの奥で歯を噛みしめながら、鼻をすすって涙声で彼は言う。

「……おはよう、なまえさん」

薄く開いた瞼の向こうで瞳と視線がかち合うと、大きな硝子玉が揺らぐ。
ちょうど様子を伺いに来た主治医や看護師と共に母親が戻ってきて、恐らくそれは"そういうこと"なのだろう。そっと彼女の人工呼吸器を外した。

「……た、まきくん。げん、き?」

何日振りかに発するのだろう掠れた微弱な声に名を呼ばれる。
首を縦に振る天喰を見ると、まるで自分のことのように安堵してなまえの口元が緩やかに弧を描く。
ただ聞いて欲しいと頼めば無言で天喰の言葉を待つなまえに、彼は今まで話せずにいた秘密を打ち明ける事にした。

「俺は、ヒーローなんだ。…今まで言えなくてごめん」

少しばかり開かれた目が、今度は優しく優しく細められる。春の日の木漏れ陽のような笑顔。

「……知ってた。わたしを…助けてくれたのは、環くんだもの」

途切れ途切れに聞こえる言葉をひとつも聴き零すまいと血色を失った唇に耳を傾ける。

余命を宣告されて数週間。病院の中で人知れず死んで行くのが恐ろしくなったなまえは、自分が生きた証を求めて病院から羽ばたいた。
そうして行く宛もなく風の吹くままに彷徨っていたなまえは、県立博物館に行き着いた。
どうやら昆虫の展示をしているらしいと聞いた彼女は見てみたくなったのだ。命の形を、その行く末を。
しかしチケット代は当日券で二千円。手持ちは患者衣のポケットに入っていた百円玉と二十円だけ。これではまるで天にまで諦めてその端金で迎えを呼べと言われているようではないか。
そういった経緯で変に意地を張ってしまった彼女は子供のように駄々をこねていたわけであるが、そのお陰で天喰と出会えたと言っても良い。

「わたしの、個性…」

言いながら天喰の前で披露しようとしたが、自分のものではないように身体が言う事を聞かない。
無理をするなと手を握りしめる彼の手を、綿毛のような力で握り返す。

「環くん、言った…よね。飛んでるほうが…いいって」

呼吸をしたまま、死んだように病院の中で絶え行く命ならば。短い時間を自分の好きなように生きてみようと思ったのだと。
入退院を繰り返していた頃自宅の私有地で暇つぶしに乗り回していたクラウンを実は初めて公道で走らせた時、無性に彼に会いたくなって。そして彼女は使用人に調べさせた天喰環の大学の前で待っていた。
思い通じ合って付き合ったと思えば、これまでの人生で味わった事のないような充足感を得るのと同時に、後ろから忍び寄る死の足音がすぐ耳元で聴こえてくるようで恐ろしくなった。
それでも。
天喰と出会えた事。愛してくれた事。もう二度と会えないと思っていた彼とまた出会えた事。こうして会いに来てくれた事。全てが嬉しいのだと笑いながら彼女の瞳から透明な滴が伝う。

「ねぇ、環くん。ありがとう」

羽のように笑う彼女は最期の時、天喰に刹那の夢を見せた。
瞬きをした次の瞬間、彼女の身体が舞う。視界で羽ばたく無数のそれは彼女が足を止めて眺めていたオオルリアゲハだ。
やはり蝶は羽ばたいている方がずっと美しい。短な幻から覚めると世界一愛おしい蝶は儚く散った。



つい先ほど彼女の身体は骨と灰になってしまった。
喪服に身を包んだ彼は、あの日彼女が歩いた軌跡を擬えるように館内を歩み始める。
ゆらりと迷いなく進む足取りは、さながら蝶道を行く蝶のそれである。
最後に辿り着いたのはあの日最後に訪れた部屋だが、随分と内装も雰囲気も異なっていて一見すれば気付かないかもしれない。そこにあるのは現在開催されている浮世絵展の展示物だ。
あのオオルリアゲハの標本は一体何処へ行ったのだろうか。
心の中で呟いてはみるが、取るに足らないことと彼は踵を返した。

きっと自由を手に入れたのだろうから。

胡乱の蝶

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