「・・・・・・・・・・・・・・!」
「・・・・・・・・・・・・!」
「・・・・・・・!!」
「・・・!……ッ!!!ちょっとさっきから聞いてるの!?」
自分の肩が揺すられている事に気付き、見つめる世界の焦点が段々と合い始める。我に返った私の耳に響いてくる声は、いつも職場で会っている上司のものだった。
「もう、何回呼んだと思ってるの!ボーっとしてないの!」
「・・・・・・え?」
「ちょっと、本当に大丈夫?最近ずっとそんな調子じゃない。ほら、しっかりしなさい!」
自分は一体、何を思い出そうとしていたんだろう。
ここが自分の居場所で、いつも通っている職場だっていうのに。作業ミスに気付いて修正しようとするけど、慣れていた筈の事ですら上手く出来なかった。
12時を知らせる時計の音が鳴り、皆が昼食を食べにいく。
自分も同じようにカバンを肩に掛けて部屋を出て行った。コンビニに足を運びパンとスープを買って、いつものようにそれを職場のテーブルで普通に食べ始めるけど、やっぱり違和感ばかりが襲ってくる。
「……ぜんぜん…違う…」
あまりの塩辛さに食事の殆ど残し、また仕事を始める事にした。
三時が過ぎて、夕方になって、定時の時間になっても誰も帰らなくて、全員が当たり前のように残業している。横目で見た時計は既に夜の10時近くて、疲れが溜まって仕事は全然進まなかった。
重い体をどうにか動かして、通い慣れた道を帰っていく。その家路で電車に乗ると、周りの音が物凄く大きく聞こえた。
外を歩けばどこもかしこも明るいし、お店はこんな時間でも開いている。
帰りにスーパーに寄って買い物を済ませてキッチンに立つ。でも、考えてみればこの家で料理らしい料理なんて今まで作ったことはない筈なのに、いつもの感覚で野菜を切ったり調理したり出来る自分がいる。
物音といえば外から聞こえてくる車の音と、隣近所の生活音くらいだ。
誰の声も聞こえない静かな空間で食べる食事に、美味しさなんて感じなかった。
食べかけの食事をテーブルの上に置いたまま、寝転がって見る動画。見ているようで見ていなくて、不毛な時間に嫌気が差す。
起き上がってシャワーを浴びると、自分の脚に鈍い色の痣がある事に気が付いた。
「いつ……ぶつけたのかな…」
記憶を辿ろうとしたけど、それを途中で止めてシャワーのコックを最大にする。
ザーザーザーザー、まるで雨のようで。
聞こえてくるのは今をかき消す水音だけ。
今の自分にはそれだけで良かった。
出てきた後にドライヤーで髪を乾かし、ベッドの上に寝転んだけど、別に何もする事が見つからなかった。
電気を消しておやすみと声を掛ける相手もいないから、いつもみたいに黙って静かに一人ぼっちの夜を過ごした。
朝になれば端末から音楽が鳴り、早く起きろと何度も催促してくる。乱暴にそれを止めて起き上がり、朝食も食べずに出て行った部屋。
コツコツと靴音の鳴るアスファルト。
自転車が自分を追い越し、早足のサラリーマンが通り過ぎて行く。
楽しそうに喋りながら学校に向かう学生、子どもを連れた母親、仲良くマラソンをする老夫婦。
世界が自分だけを置いて進んでるような気さえした。
そしてまたいつものように仕事をこなして、いつもの遅い時間になればようやく帰ることの出来る家。
友達にメールを送ってみるけど、相手にも生活があるからすぐには連絡は返ってこない。結局家に帰ってもやることなんて殆ど無くて、それでも何かを誤魔化すように熱中出来るものを懸命に探した。
だけど、手にするもの全部が直ぐに飽きてしまい、早く眠ってしまおうと目を瞑り無理矢理今日を終わらせた。
次の日も、また次の日も、その次の日も。
似たような日々を何日も何日も繰り返し続けていった。
これからもきっと、こんな感じで穏やかな日常が続いていくんだろう。
たまには困った事や嫌な事、苦しい事や嬉しい事があって、友達と遊んだり時々は両親に親孝行したりして。
ゆったりとした時間が流れて、自分の人生を全う出来そうな気がしている。
良かった。
本当にこれで、良かった。
あるべき状況に居るべき自分が居て、その日を普通に過ごして働いて帰ってご飯を食べて好きな事をした後に眠る。
そうすればまた次の日が勝手に来るんだから。
そして、平和だなって思える日々が今日もまた終わっていく。
仕事を終えて帰ってきてベッドに倒れこみ、いつの間にか眠りに落ちていた自分。
はっとした瞬間目が覚めて、思い出そうとする夢が思い出せない。
たった今見たばかりなのに、いい夢だったのに思い出せなくて、夢の中に戻りたいと必死に願って瞼を閉じるのに眠ることが出来なかった…。
真夜中過ぎの嫌な時間帯に目が覚めて膝を抱える。
暗くて一人ぼっちの世界に本当に取り残されたみたいで、押し寄せてくる気持ちに溺れそうになる。
「大丈夫……大丈夫…」
呪文のように唱えて必死に心を取り繕う。
頑張って気持ちに蓋をして、強く押さえ込めばきっと頑張れる。
耐えられる、きっと……我慢出来る筈なんだ。
あまりにも辛い今を変えたくて、気分転換に外出をしようと考える。服を出そうとクローゼットの扉を開け、意識せず伸ばした服に袖を通していると、不意に床の上に何かが落ちる音がした。
視線を向けた先にあったものは、ずっと探していたけど見つからなかった、淡く光る綺麗な緑色の石だった。
それを見た瞬間、夢だと思い込み無理やり忘れようとしていた筈の記憶と思い出が、一気に溢れてくるのが分かった。
もしも今、誰かが自分の傍にいてくれたらって…そう思ってしまう。
悩んでいる今の自分を励ましてくれるだろうか。
これでいいんだよって褒めてくれただろうか。
「―――――…………」
落ちた魔石を拾い上げ、手の平に乗せれば電光の下で優しく輝く緑色。
今更何を思い出しても仕方ないのに。
だって自分は戻ってきたんだから。
戻った方がいいって自分でも思ってた。
皆にとっても彼にとってもそれが良くて、別に誰も困りはしないんだから。
これでいいって自分で自分に何度も言い聞かせるのに、どうしてこんなに悲しいのか。正しいんだって分かりきってるのに、過去を見ようとするのか。
「……ティナ…どうしてるかな。ロックは…エドガーは…。ガウとカイエンさんも、セッツァーやシャドウさん、モグもセリスも…」
皆の名前を呼ぶ度に自分の視界が淀みだし、まるで水の中にいるように、ゆらゆらと世界が歪んでいった。
自分の手の平を見続ければ、そこに重ねられた手を今でもはっきりと思い出せる。
大きくて温かくて優しくて。
いつだって何度だって自分を助けてくれて、支えてくれた人。
彼の顔が、笑顔が自分の記憶の中で蘇ってくる。
楽しそうに笑って私の名前を呼んでくれる声が、今でも耳に残っているから。
「………………………………………」
頑張ったのに。
ずっとずっと頑張って自分を騙し続けてきたのに。
認めなければ大丈夫。
知らないフリをすれば大丈夫。
違うんだって否定してれば大丈夫。
時間が過ぎれば思い出になるから心配ない、忘れるだろうから。
そう思っていたからこそ、今まで隠していたんだ。認めず思い出さなければ、いつか…いつかきっとこの気持ちは消えてくれるって考えてた。
「……………ッ…」
なのに、思いが詰まって息が止まりそうになる。
心臓が痛くて壊れそうになる。
自分が自分の世界に戻ったら、苦しむって分かりきってた。絶対に望んじゃいけない事を願うって分かってたから。
それなのに。
望んではいけないと知っているのに、自らの心が強く渇望し続けていた。
「……会い……た、い……よッ」
あんなに頑張って我慢してたのに。
「……会いたい……ッ」
心を止められるなら、こんなに苦しんだりしない。
気持ちを向く事を自分で変えられるなら変えていた。
だけど、出来るわけもなかった。
無理に決まってた。
だって…私は。
――――彼を好きなんだから。
「…ッ会いたい……マッシュ…。会い…たい、よ…っ…!」
今ある全てを捨ててでも、この願いが叶うならそれでいい。
一時の気の迷いで願う訳でもない。
向こうに戻りたいと願わない事こそが、永遠に自分を縛り続け後悔させるから。
あっちの世界がどんな事になっていようとも、もしも彼の身に何があったとしても受け入れる。苦しさから逃れようと現実を天秤に掛けたりしない、省みたり迷いもしない。
だからどうか。
「ッ…ぅぅ…っお願い…戻して!お願い!……会いたい…マッシュに…だから…ッ!」
流れ続ける大粒の涙が頬を伝って床に落ちていく。
今までどんな事があっても泣かないって決めたからずっとそうしてきた。
でも、これ以上は耐えられなかった。
「……ッ…マッシュに…会いたい…!…ッお願い、どうか…」
魔石を胸に抱き、自らを抱え込むように涙を流し続けた。
枯れることを知らない雫が自分を濡らし、叶わない願いが自分を痛め続ける。
相手が困るかもしれないとか、想いが伝わらなかったらどうするとか、いつも気にしてばかりだった。
だけど今はそんな事どうでも良い。
こんなにも抑えることの出来ない強い気持ちが、自分にあったなんて知らなかった。
だって今まで、こんなに誰かを想ったことなんてないから。それだけ、彼が好きなんだって思い知るばかりで。
「…マッ……シュ……」
会いたいと願う気持ちを言葉にしながら1人泣き続ける。
叶えたい望みがある。たとえどんな苦しみがあっても、打ち勝って見せるから。
だからどうか……。
“彼に会わせてください”