▽ 合わせ鏡のように
警察学校への入校日前日の夜。
何だかそわそわして眠れなかった俺は、誰もいないキッチンの換気扇の下で煙草に火をつけた。
ふぅと吐き出した白い煙。
煙草を持っていない方の手でくるくるとライターを回していると、テーブルに置いていた携帯が鳴る。
「っ、」
そこに表示されていたのは、久しく見ることのなかった幼馴染みの名前。
予想していなかったその名前に、どきりと跳ねる心臓。
鳴り続ける携帯の着信音。俺は携帯を手に取り、通話ボタンを押した。
『もしもし、陣平ちゃん?こんな時間にごめんね』
「起きてたからいい。何かあったのか?」
電話の向こうから聞こえるなまえの声。なんだか変に意識してしまう。
“あの日”からこんな風になまえから連絡がくることはなかったから。
ただの幼馴染みにはまだ戻れずにいた俺達。
『明日から警察学校だよね?研ちゃんから聞いた』
「あぁ。何だかんだあっという間だよな」
『・・・・・二人と離れるのって、今思えば初めてだよね』
帰ってこようと思えば帰って来れる距離。けれどなまえの言うように、俺達がこんな風に離れるのは初めてのことだった。
「萩がいなくなったら寂しくて泣くんじゃねぇーの?」
『ははっ、確かにそうかも』
「あいつならお前が寂しいって言えばすっ飛んでくるだろ」
こんな風に軽口をたたけるなんて、あの日には想像できなかった。
いつもより早く脈打つ心臓。けれど不思議と心の中は穏やかだった。
『陣平ちゃんがいなくなるのも寂しいよ』
「っ、」
『ねぇ、ひとつだけ約束してほしいの』
真剣味を帯びたなまえの声色。右手に持っていた煙草の灰が、ぽとりと灰皿に落ちた。
『無茶だけはしないで。自分のことを一番に考えて』
「・・・・・・どういう意味だよ」
『陣平ちゃんは向こう見ずなところがあるから。突っ走って怪我とかしないか心配なの』
「バーカ。ガキじゃねぇんだからそんなことしねぇーよ」
ふっと笑った俺につられて、電話の向こうのなまえも小さく笑った。
彼女が伝えたかった言葉の本質。見えるようで見えないそれが少しだけ引っかかった。けれどそれを尋ねたとしても、きっとなまえ答えてはくれないだろう。
『陣平ちゃんも研ちゃんも、きっと素敵な警察官になるよ。絶対に』
はっきりと言い切ったその言葉。それはまるでさよならのような切なさを孕んでいた。
求めちゃいけない。
それが幼馴染みとしての距離感だから。
頭では理解していた。けれど気がつくと俺は口を開いていた。
「もしそうなったら、あの時の返事もう一回考えてくんねぇーか?」
『・・・・・・っ』
「お前はさ、俺にはもっと相応しい奴がいるってあの時言ってた。でももしお前が言うその相応しい奴ってのがこれから先に現れたとして、それでも俺がなまえを好きだったら。・・・・・・その時はもう一回返事がほしい」
我ながら諦めが悪いと思う。
けれど俺にとってなまえは、そう簡単に諦められる存在じゃないんだ。
暫くの無言の後、先に口を開いたのはなまえだった。
『そんな未来がきたら・・・・・・、その時はちゃんと私も陣平ちゃんと向き合うよ』
自信があった。
他の誰にも靡くわけがない。
なまえのその言葉に心の中で誓った。
*
警察学校に入校してから、俺を取り巻く環境はがらりと変わった。
学生時代とは何もかもが違う。
唯一変わらないのは、隣に萩原がいるということだった。
「何だよ、その面。色男が台無しじゃねぇーか」
「うるせぇよ、萩」
「おまけに差し歯まで抜かれてやんの!超ウケる!」
ケラケラと笑いながら俺の隣を走る萩。
ひらひらと舞い散る桜の木の下。
入校したときから何故か目に付いた金髪の野郎。
ただの真面目ちゃんかと思えば、俺に負けず劣らず血の気が多くて真っ直ぐな拳で殴りかかってきた男。
「んで?どっちが勝ったんだ?」
「そりゃ当然・・・・・・」
「僕だ」「俺だ」
隣から割り込んできたその声に、ピキリと眉間に皺がよる。
「はぁ?テメェ、殴られすぎて頭いっちまったんじゃねぇか?」
「それは君だろ?」
走る足を止めることなく言い争う俺達の肩にぐるりと回された大きな腕。
「おいお前ら!何があったか知らねーが、次は俺も混ぜろよ!」
そんな俺達に教官から怒号が飛ぶ。
しぶしぶ前を向いて走り出した俺達。
時間にすればこの警察学校での時間は、決して長いとはいえないものだろう。
けれどここでの出会いは、俺にとって特別なものになった。
友達がいなかったわけじゃない。
けれど本音で腹を割って話せるのは、萩原となまえだけだった俺の世界。
特別だと。言葉にするのは恥ずかしくて言えるわけがないけれど、ここであいつらと出会えたことは俺にとって間違いなく転機だった。
*
少し遅い晩飯も終え、食堂からの帰り道。
薄暗い廊下にある公衆電話の前で、見知った人影を見つけ思わず足を止めた。
「萩原の奴、また電話してるのか」
そんな俺の後ろから聞こえた声に振り返ると、Tシャツにスウェット姿の零がいた。
「景が言ってた。萩原がこの時間になるとよくどこかに電話してるって。電話の相手のこと知ってるのか?」
「・・・・・・あぁ。幼馴染みだよ」
「へぇ、随分と大切にしているんだな」
自由な時間が多いとはいえないここでの生活。その中でも萩原は、なまえのことをいつも気にかけていた。
たった数分、その為にいつもあの場所に立つあいつの姿を何度見たか分からない。
「・・・・・・松田?どうかしたのか?」
黙りこくった俺の顔を不思議そうに見る零。
「別に。そういえば諸伏もよくどっかに電話かけてるよな」
話を逸らそうとそう言った俺。そのとき、隣にいた零の顔が一瞬だけ歪んだような気がした。
「彼女だよ。景はマメだから」
「あいつも彼女持ちなのかよ。どんな奴なんだ?零は知ってる奴なんだろ?」
「あぁ、よく知ってる。・・・・・・寂しがりで素直じゃないくせに、ずっと昔から景にベタ惚れな奴だよ」
班長に彼女がいるということが発覚したいつかの昼食時を思い出しながら尋ねると、零は小さく笑いながらそう答えた。
笑っているのにどこか切なげなその表情。
「幼馴染みなんだ。僕と景とその彼女」
あぁ、なるほど。
零の表情が少しだけ歪んだ理由がなんとなく分かったような気がした。
俺とどこか似ている。
何故かそう思ったんだ。
きっと零はそいつのことが・・・・・・。
「あれ?陣平ちゃんに降谷ちゃんじゃん」
いつの間にか電話を終えた萩が、俺達に気付き近付いてきた。
「またなまえに電話かよ。よく毎日そんなに話すことがあるよな」
「たまには陣平ちゃんも電話してやれよ、あいつ喜ぶぞ」
「話すことねぇーよ、今の俺は」
素直になれない自分が顔を覗かせる。
萩原が俺となまえのことをずっと気にかけてくれていることは分かっていた。
本当は声が聞きたい。
元気にしてるのか?
たった数ヶ月離れているだけでも、こんなにその存在を恋しく思うのだ。
それでも色んな感情が邪魔をして、萩原みたいに素直に行動することができない。
「素直が一番だよ、陣平ちゃん」
そんな俺の心の中を見透かすように、くしゃりと俺の髪を乱すと部屋へと戻っていく萩原。
そんな俺達を黙って見ていた零が口を開いた。
「お前達も色々あるんだな」
ふっとこぼれた嘲笑的な笑み。
それにつられて俺も笑う。
「お前の方も色々複雑そうだけどな」
俺と零の距離が縮まったのは、本気でぶつかり合ったから。
そしてどこかお互いの立場が似ているように感じたからかもしれない。
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